行商人の作法2-4
腹が満たされると、少しだけ世界が明るく見える。食事の力というのは偉大だ。
午後は食料の補充と、次の村への道の情報収集。村を歩きながら、夢魘がしきりにあたりを見回している。
「なぁ、あの建物は何だ?」
「集会所よ。村の寄り合いをする場所」
「寄り合い?」
「村の決め事をする時に、大人が集まって話し合うの。多数決で決めることもあれば、村長が判断することもある」
「ほう......つまり議会みたいなもんか。人が集まって、意見を出し合って、決める。国にもそういう場所が必要だな」
夢魘が一つずつ学んでいる。法律、取引、議会。国を作るための素材を、商売と村の日常から拾い集めている。
ふと、屋根の上に数羽のカラスが止まっているのが目に入った。普通のカラス。言葉を持たない、黒い鳥。虫を啄み、互いに鳴き声を交わしている。
夢魘がそちらを見た。長い間、見ていた。私の肩の上から、同族を見下ろしている。口を開きかけて、閉じた。何か声をかけようとしたのかもしれない。だが、かけたところで返ってくるのは「カァ」という鳴き声だけだ。
「知り合い?」
「......いや。知り合いなんかいねぇよ。俺みたいに喋れるカラスなんて、会ったことがない」
その声は、いつもの軽口とは少し違った。乾いていた。
カラスの国を作る、とこいつは言う。だが、国民になるはずのカラスたちと、こいつは言葉を交わすことが出来ない。その矛盾に、夢魘自身はとっくに気づいているのだろう。気づいた上で、それでも国を作ると言っている。
大した執念だ。嘘か本気か分からなかった「カラスの国を作る」という宣言が、少しずつ現実味を帯びてきたような気がする。いや、逆かもしれない。現実味がないからこそ、こいつの覚悟が際立つ。
「あそこの看板は何て書いてあるんだ?読めねぇ」
話を切り替えた。こいつなりに、切り替えたのだ。
「薬屋よ。......文字も読めないの?」
「言葉は喋れるが文字は知らねぇ。教えてくれよ」
「荷が増えたわね......」
「目覚まし兼通訳兼偵察役に比べたら安いもんだろ?」
いつの間にか自分の役割を増やしている。抜け目のない夢魘だ。
村の外れまで歩くと、小さな祠があった。苔むした石造りで、誰かが花を供えた跡がある。
「これは?」
「祠。この村の守り神を祀ってあるの。村によって祀る神様が違うわ」
「信仰か......。人は目に見えないものにも頭を下げるんだな」
夢魘の声が少し静かになった。嘴で花を突くでもなく、ただ祠を見つめている。
「夢魘には神様っていないの?」
「......さぁな。考えたこともなかった。でも、変な感じがするんだよ」
「変な感じ?」
「上手く言えねぇんだが......。この世界にいて、何かがしっくりこねぇっていうか。ずっと忘れ物をしてるみたいな。気のせいかもしれねぇけどよ」
私には夢魘の言っている意味がよく分からなかった。ただ、その表情がいつもの飄々としたものではなく、珍しく真剣で、少しだけ寂しそうに見えた。
「忘れ物なら、旅をしてれば見つかるかもしれないわよ」
「......だといいけどな」
夢魘はそれきり黙り、祠から目を離した。
会話が途切れた間に、風が吹いた。ドームの膜を通した柔らかい風。外の世界とは違う、毒のない風。
こういう穏やかな時間は嫌いじゃない。嫌いじゃない、と思える自分が少し意外だった。
§
その穏やかさが壊れたのは、村を出て一時間ほど経った頃だった。
次の村に向かう街道の途中。木々が疎らに生えた丘陵地帯で、馬が突然足を止めた。耳をぴくぴくと動かし、鼻を鳴らす。何かを警戒している。
「闡釐、右の茂みに三人。左の岩陰に一人」
夢魘が低い声で囁いた。上空から見ていたのだ。こういう時、空を飛べる相棒は頼もしい。
「武器は?」
「右の連中は棍棒と短剣。左のヤツは弓」
「弓が厄介ね」
私は手綱を握ったまま、自然に刀の位置を確認する。鯉口に指を添え、いつでも抜ける状態にしておく。
賊だろう。ドームの外を移動する行商人を狙う連中は珍しくない。生首を晒しているのに襲ってくるということは、余程追い詰められているか、余程頭が悪いかのどちらかだ。
最初に動いたのは左の弓だった。矢が風を切る音。私は荷台から飛び降り、矢をかわした。続いて右から三人が飛び出してくる。
「死にたくなければ引きなさい。こっちは穏便に済ませたいの」
嘘だ。穏便に済ませたいのは本心だが、引くような連中なら最初から襲ってこない。
「うるせぇ!荷物を置いていけ、忌み子が!」
先頭の男が叫んだ。忌み子。この髪と目を見れば、誰でもそう呼ぶ。棍棒を振り上げて突進してくる男の目には、恐怖と侮蔑が同居していた。怖いから殺す。怖いから奪う。いつも同じだ。
私は溜息をついた。
居合いの構え。左手を前に、右手を柄に添える。男の振り下ろしが来る前に――鞘から刀を押し出すように、一閃。
棍棒を持った腕ごと、男の肩口を浅く斬り裂いた。深くは斬らない。殺すつもりはない。
男が悲鳴を上げて転がる。残りの二人が足を止めた。
「次は深く斬るわよ」
二人が顔を見合わせ、倒れた仲間を引きずりながら走り去った。弓の男も姿を消す。最後まで姿を見せなかった分、あれが一番賢かったのだろう。
肩口を斬った時、刃が僅かに皮膚に引っかかっていた。私の手の甲に浅い切り傷が出来ている。男の短剣が掠めたらしい。大したことはない。だが見ていると、刀の周りで僅かに光の粒が瞬いた。傷口がじわりと温かくなり、血が止まる。
......昨夜見た光より、少ない気がする。傷が浅いからだろうか。それとも。
考えるのをやめた。いつものことだ。
「殺さねぇんだな」
夢魘が上から降りてきて、肩に止まった。
「殺す理由がないもの」
「あいつら、お前を殺そうとしてたぜ?」
「殺そうとすることと、殺す力があることは違うわ。あの程度なら追い払えば十分」
それに――殺すたびに、胸の穴が広がる。殺す必要のない相手を殺すほど、私はもう愚かではないつもりだ。
昔は違った。恩人に出会う前の私は、向けられた刃には刃で返すしか知らなかった。
「お前、昔は違ったのか?」
心を読まれたかと思って一瞬ぎくりとしたが、顔に出ていたのだろう。
「昔は馬鹿だったのよ。商人をしていたらそういうわけにもいかなくなっただけ」
「馬鹿だった頃のお前も見てみたかったぜ」
「見ない方がいいわよ。きっと嫌いになるから」
冗談めかして言ったつもりだが、声が少し硬かった。夢魘は何か言いたそうにしたが、結局何も言わなかった。
ありがたい。今はまだ、あの頃の話をする準備が出来ていない。
§
日が暮れる前に、次の野営地を見つけた。小川の側の、岩壁に守られた窪地。風が防げるし、水も確保できる。
火を起こし、干し肉と保存食で簡素な夕食を取る。夢魘には木の実をいくつか分けてやった。
「これ、うめぇな」
「胡桃よ。次の村で仕入れたものだけど、おまけで貰ったの。商売をしていると、こういう余得がある」
「余得か。国にも必要だな。国民が暮らすだけで自然と良いことがある仕組み」
また国の話だ。こいつの頭の中では、見るもの全てが国作りの素材になるらしい。
「ねぇ、本気で聞くけど」
「なんだ?」
「どうしてカラスの国を作りたいの?人間の真似がしたいわけじゃないでしょう」
夢魘は暫く黙っていた。焚き火の光が黒い羽を赤く照らしている。
「......棲み分け、って言っただろ。昔は出来なかった。人の住処に居候してただけだ。嫌われても仕方がねぇ」
「でも国があれば違う。対等に話が出来る。交渉が出来る。俺たちの居場所を、俺たちの力で作れる」
「居場所、か」
その言葉は、思った以上に胸に来た。居場所。私にはそれがあるだろうか。ドームの中でもなく、ドームの外でもなく、私はどこにも属していない。荷台の上が唯一の住所で、馬が唯一の同居人。忌み子の行商人を迎え入れてくれる場所は、商品を求める間だけの仮の居場所だ。
いや、今はもう一羽いるか。
「何にやけてんだよ」
「にやけてないわよ」
「にやけてる。口角が上がってる。カラスの目は人の三倍見えるんだぜ?誤魔化せねぇよ」
「......火の加減でそう見えるだけ」
「はいはい」
夢魘は嘴で胡桃の殻を割りながら、ケラケラと笑った。
腹立たしい。でも悪くない。
火が弱くなってきたので、薪を足す。パチパチと爆ぜる音が夜の静けさに溶けていく。
「明日はどこに向かうんだ?」
「東の村。少し変わった風習があると聞いたわ」
「変わった風習?面白そうだな」
「面白いかどうかは分からないけれど、貴方の勉強にはなるかもしれないわね」
「よし、楽しみにしとくぜ」
夢魘が目を閉じた。片目だけ。もう片方は薄く開いたまま、闇の中を見張っている。
私も目を閉じる。焚き火の温もりと、小川のせせらぎと、隣にいる存在の気配。一人で眠る夜より、ほんの少しだけ安心する。
商売の作法は恩人に教わった。人との距離の取り方も、笑顔の作り方も。
でも、こうして誰かと夜を過ごす安心感は、教わったものではない。忘れていたものだ。
忘れていたものを、一羽の夢魘が思い出させてくれている。
その事実に対してどう思えばいいのか、まだ分からないまま、私は眠りに落ちた。




