行商人の作法2-1
首を絞められている。
小さな手が、もっと小さな首に巻きついている。女の手だ。指は細くて、爪の先だけが白い。力は弱いのに、どうしてか振り解けない。喉の奥が潰れて、息ができなくなっていく。
視界が暗くなる。暗くなる前に見えたのは、女の顔だった。泣いていた。殺そうとしながら泣いている。その涙が、私の頬に落ちてきて――
――目が覚めた。
心臓がうるさい。汗が背中に張りついている。息が荒い。夜空が視界に飛び込んできて、星がぼやけて見えた。
夢だ。いつもの夢。もう何百回と見てきた、同じ夢。
「うなされてたぞ」
声がした方を見ると、カラスが荷台の縁に止まってこちらを見ていた。片目を閉じて――つまり半分起きていたのだろう。見張りをしてくれていたのか、単に煩くて目が覚めたのか。
「......悪い夢を見ただけ」
「悪い夢か。人間ってのは寝てる時まで苦しむんだな。俺なら寝てる時くらい何も考えたくねぇけど」
「考えたくなくても来るのよ、悪夢は。勝手に」
水筒の水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、少しだけ現実が戻ってくる。あの夢の中の女は母だ。分かっている。覚えているのは首の感触と涙だけで、顔はもう思い出せない。
思い出す必要もない。
息を整えながら夜空を見上げる。星が静かに瞬いている。しばらくそうしていると、心臓がようやく落ち着いてきた。
「......そういえば、貴方の名前」
「あん?」
「まだカラスのままでしょう。種族名は嫌だって言ってたくせに」
「お前がまともに考えなかったからだろうが!」
それはそうだ。眠かったのだから仕方がない。でも今は目が覚めている。悪夢のおかげで、嫌というほど。
悪夢。夢魘。
ふと、その言葉が浮かんだ。どこで覚えたのか分からない。恩人の本棚にあった古い辞典に載っていた気もするし、誰かの口から聞いた気もする。意味は――悪い夢。人を押しつぶす夢の魔物。
「夢魘」
「は?」
「貴方の名前。夢魘。悪い夢って意味よ」
カラスが目を丸くした。それから嘴を開けて、閉じて、また開けた。
「悪い夢って......。もうちょっとマシなのなかったのかよ!?」
「初対面で不気味だったもの。死体の横で笑って、いきなり人の言葉で話しかけてきて。あれは悪夢よ」
「ひでぇ命名理由だな!」
文句を言いながらも、カラスは――夢魘は、嘴でカリカリと頭を掻いた。考えている。
「......夢魘、か」
口の中で転がすように呟いた。何度か繰り返している。
「夢魘。む、えん。......悪くねぇ」
「え、いいの?」
「悪い夢だろ?人間は悪い夢を見ると目が覚める。つまり俺は目覚まし代わりだ。お前が最初に言ってた通りじゃねぇか」
出会った日に私が言った「貴方を連れていく理由は目覚ましに丁度いいから」。あれを覚えていたのか。こいつ、意外と根に持つタイプらしい。
「それに、悪い夢は忘れられねぇ。良い夢より、ずっと心に残る。俺はそういう存在でいたいぜ。忘れられないカラスに」
不意に、胸の奥の穴を何かが掠めた。温かくはない。でも、風ではなかった。
忘れられない存在。その言葉の重さを、こいつは分かっているのだろうか。私にとって忘れられない存在は一人しかいない。もういない恩人だけだ。
それでも、この名前を受け入れたこいつの覚悟は本物に見えた。
「じゃあ、夢魘ね。よろしく」
「おう。よろしくな、闡釐」
初めて名前で呼ばれた。今まで「お前」だったのに。名前を貰ったから、名前で返したのか。律儀なカラスだ。
いや――律儀な夢魘だ。




