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丁々発止が鳴り止まない。改訂版  作者: ArU
平行線から直線へ

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28/31

芋虫の口付け 11-1

 男が私を見ている。


 暗がりの中、ベッドに押し倒された私の体を、男の目が這い回っている。白い肌着をはだけさせると、男の喉が鳴った。


 美しいと思っているのだろう。私もそう思う。この体は美しい。陶器のような肌。くびれた腰。太腿まで滑らかに続く曲線。男の視線が追うもの全てが、確かに美しい。


 だが男が見ているのは殻だ。


 殻の内側で、何かが蠢いている。袖の中で。足の中で。瞼の裏で。それが私を動かしている。私の手のあった場所で、私の足のあった場所で。


 男が布越しに触れてきた。我慢ができないのだろう。一つだけ気をつけなければならないことがある。手を見せないこと。長い袖の中に隠したまま、指先を出さない。触れるのは常に布越しだ。直接肌に触れようとする手を、するりと躱す。


「ねえ、もっと教えて。宝保のこと」


 声を甘くする。甘くすると、大抵の男は何でも話す。この手の男が一番扱いやすい。宝保吉行の配下の中でも末端に近い、ただの見張り番。酒場で少し話しかけるだけで、自分が重要人物であるかのように振る舞い始めた。自分の知っていることを全部喋りたがる。知っているものがほとんどなくても。


「俺が聞いた話じゃな、最近やたら外の連中が出入りしてんのよ」


「外の連中?」


「なんつーか、読めねぇ文字の文書ばっか使う奴らでさ。宝保様も細かいことはよく分かってねぇみたいだけど、金だけはたんまり持ってんだ。で、その金で工場だかなんだかを建てるらしい」


 読めない文字。工場。私にはどうでもいい情報だった。欲しいのは吉行の居場所、警備の配置、屋敷の間取り。それだけあれば十分だ。


「吉行様って、普段はどこにいらっしゃるの?」


「あー、それがよ——」


 男が喋り続ける間に、私は部屋の空気を読んでいた。壁の薄さ。隣室の気配。窓の位置。男の話は要領を得なかった。この男は外壁の見張りが担当で、屋敷の中に入ったことすらないのだろう。


 十分だ。これ以上引き伸ばしても同じことの繰り返しになる。


 男が息を整えるために顔を近づけてきた。あと数寸。唇が触れる寸前——口の中で、何かが動いた。喉の奥から這い上がってきたそれが、唇の隙間から身を乗り出した。


 白い。小さい。牙を剥き出しにしている。


「なんだ? しねぇのか? コイツとのディープキスは最高だぜ? 俺が保証してやるよ」


 男の悲鳴が喉で詰まった。逃げようとする。だが長いスカートの中から、無数の白い蠢きが男の脚に巻きついていた。


 手からもう一匹。こちらは小さくて、声が高い。


「早く食べちゃおうよ、お兄ちゃん?」


 恐怖で硬直する男を見下ろして、二匹が嗤う。


 口をもごもごさせた。入れ歯のように居座っている芋虫の体が、歯茎に当たって痛い。


「痛てぇって! もう終わらせるからよ、喋るな!」


 大きく口を開いた芋虫が、男の首に喰いついた。骨を砕く音が部屋に響く。一滴の血がシーツに滴った。また口をもごもごさせると、芋虫は慌てて引っ込んだ。


「今度はどうしたんだよ?」


「いえ、息苦しかっただけです」


「そうかよ」


「それよりも早く服を着せて下さい」


 芋虫がへいへいと体を伸ばし、床に落ちた深紅のドレスを取った。二匹が器用に私に着せていく。腕の中で体節が収縮するたびに、自分のものではない筋肉が動く感触がある。五年経っても慣れない。


 軽く礼を言い、一息ついた。情報は得た。吉行に指示を出している外部の人間がいること。読めない文字の文書を使う者たちがいること。だが、肝心の吉行の居場所は分からなかった。


 もう一人、殺さなければならない人間がいる。


 宝保吉行。私の両親を殺し、私を暗い部屋に閉じ込め、全てを奪った男。


 もうすぐだ。もうすぐ終わる。終わったら——。


 終わったら、どうなるのだろう。考えない。考えたら壊れる。壊れたら動けなくなる。


 部屋を出る前に、ドグラが壁に向かって何か呟いた。


 短い、乾いた音。私たちの言葉ではなかった。


「——だん」


 また変な声を出している。あの虫は時々、意味の分からない音を漏らす。独り言とも違う。何かに報告しているような、乾いた調子の音。


 マグラですら反応しない。私ももう気にしなくなっていた。


 ——はずだった。


 今朝のはいつもより長かった。いつもは数えるうちに終わる。今朝は長くて、音の粒が詰まっていて、どこか急いていた。何を急いでいるのかは分からない。分かりたくもない。


 復讐に必要のないものは、私の世界には存在しない。


 存在しないのに——あの音が耳の奥にこびりついていた。壁に向かって規則正しく繰り返される調子が、報告でもしているような平板さが。何でもない。何でもないはずだ。


 ——


 暗闇の中で、赤ん坊が泣いている。


 手を伸ばしても触れられない。声を出しても届かない。ただ泣き声だけが、暗闇の中で永遠に反響している。手を伸ばす。指が届く寸前に——白い体節の群れが、私の腹の底から湧き上がる。


 赤ん坊の声が消えた。


 代わりに、咀嚼する音がした。湿った、規則的な、何かを噛み砕く音。


 私はその子のことを知っているようで、何も知らない。ただこの夢の中で、その子に赦してほしい。


 ——目を覚ました。


 天井の染みを数えた。三つ。いつもと同じ三つ。同じ部屋、同じ朝。体の中で蠢くものの重みだけが、夢と現実の境界を曖昧にしている。汗で肌着が張り付いていた。


 マグラが頬を這った。冷たくて、柔らかい。虫の肌とは思えない体温のなさで、火照った頬を冷ましてくれる。


「悪い夢?」


「いつものです」


 お腹の奥で、何かが動いた。食事だ。いつもの。何を食べているのかは知らない。聞いたこともない。聞いてはいけない気がする。


 起き上がって、机の上に広げてあった紙に向かった。依頼書。偽物の。鴆護に頼んで孤児院経由で流してもらう手筈になっている。吉行の暗殺を望む者がいる——という体裁の依頼書。計画の第一歩。


 筆を取った。手が震えていなかった。


 五年だ。五年間、この体の中で虫と一緒に生きてきた。十二の誕生日に両親を殺され、目を奪われ、四肢を失った。それでも生きているのは、吉行の首を落とすためだけだ。ドグラが私の手足と目の代わりになっている。その代償が何であるか——考えないようにしている。考えたら、立っていられなくなる。


 依頼書を書き終えた。部屋の隅で、ドグラがまた壁に向かって呟いていた。今度はさっきより長い。「すてーたす……のーまる」。聞いたことのない音が二つ並んだ。意味は分からない。聞き取る気もない。あの虫が何をしていようと、吉行の首に繋がらない限り、私には関係がない。


 マグラが私の膝に上がってきた。


「アリーヤ、今日もきれいだよ」


「ありがとう、マグラ」


 きれいかどうかは、もうどうでもよかった。この顔が使えるから使っている。それだけだ。


 あとは——待つだけだ。



                  §



——十慧闡釐


 春の風、というのは不思議なものだ。


 冬の風は痛いから分かる。夏の風は熱いから分かる。秋の風は乾いているから分かる。でも春の風だけは、何が違うのか言葉にできない。ただ肌に触れた瞬間に、あ、春だな、と思う。理由は分からないのに、体だけが知っている。


 ツバキが鼻を鳴らした。


 三年間一緒に旅をしてきたこの馬に、名前をつけたのはつい最近のことだ。夢魘に「いい加減つけてやれよ」と散々言われて、ようやく。椿の花が好きなわけではない。ただ、冬の終わりに一番最初に咲く花の名前がいいと思った。この馬はいつも、私より先に季節の変わり目に気づくから。


 名前をつけると、失った時に痛い。それが怖くて三年も先延ばしにしていた。でも——名前のないまま三年も一緒に歩いた方が、よほど申し訳ない気がした。


 国光の光は、銀狼との戦い以来使っていない。鞘に触れると微かに温い。あの光が何なのか、考えると眠れなくなる。だから考えない。


「いい天気ね」


 返事はない。ツバキは馬だから当然なのだけれど、隣を歩いていると時々、この馬の方が私より物事を分かっているような気がする。少なくとも、余計なことは考えていない。


「天気の話を馬にする奴があるかよ」


 頭の上から声がした。夢魘だ。私の荷車の荷物——正確には布袋の上に乗って、くちばしで胸の羽を整えている。朝の身支度らしい。


「馬の方がまだ聞いてくれるわよ。貴方よりずっと」


「聞いてるぜ。聞いた上で、くだらねぇって言ってんだ」


「それを世間では聞いてないって言うのよ」


 夢魘が羽を膨らませた。反論したいが言い返せない時の癖だ。覚えてしまうと可愛い。本人には絶対に言わないけれど。


 街道は穏やかだった。ドームの外壁に沿って伸びる交易路は、この季節になると行商人の往来が増える。冬の間に溜まった在庫を捌きたい者と、春物を仕入れたい者とが入り混じって、道全体が少しだけ浮ついている。すれ違う商人と目が合って、軽く会釈を交わす。同業者の顔つきを見れば景気が分かる。今年の春は——まあ、悪くない。


 私は荷車の幌をめくって中身を確認した。干し肉、漬物の壺、鉄鍋三つ、針と糸の束、薬草の包み。それから刀の手入れ用の砥石が二つ。品揃えに統一感がないのは行商人の美徳だ。「何でも少しずつ」が、どの村でも歓迎される秘訣。恩人に教わったことのひとつ。


 次のドームが見えてきた。大きい。外壁が高く、門の前に行列ができている。交易の要所だ。行列の長さで活気が分かる。


 通行料を払い、門番に荷物の中身を申告した。


 門番の目が一瞬、私の髪に止まった。銀の髪と深紅の瞳。忌み子の証。


「——通れ」


 短く言われた。視線を逸らされた。慣れている。慣れてはいるが、慣れたことと平気なことは違う。胸の奥で、いつもの小さな棘が刺さる。一瞬だけ。すぐに消える。消し方も、もう慣れた。


「なぁ闡釐」


 夢魘が門をくぐりながら言った。


「今の門番、通行料を受け取る時に指が一本だけ上がってたぞ。あれは一人分の額を確認する動きだ。カラスの分は取らない。俺が人に数えられてねぇってことだな」


「それで?」


「俺が国を作ったら、門は全員に開ける。人もカラスも。通行料は取るが、数え方は同じにする」


「門の通行料にまでこだわるの?」


「こだわるぜ。銀狼が言ってたろ。境界線の話。門ってのは境界線そのものだ。誰を通して誰を通さないか。そこに法がある。あの門番は人だけ数えた。俺の国では、全部数える」


 言い終わると、もう別のことを考え始めていた。頭を左右に振って、ドーム内を物色している。いつもの夢魘だ。だが——あの声に宿っていた芯は、いつものではなかった。銀狼の死から始まった何かが、この一羽の中で育っている。


 ドームの中は賑やかだった。子供が走り回り、露店から煮物の匂いが漂い、どこかで鶏が鳴いている。木組みの建物がぎっしりと並んで、狭い路地に洗濯物が渡してある。道の両脇に商人たちが荷を広げていて、客を呼ぶ声が折り重なっている。


 商売の匂いがする。腕が鳴る——というのは実際には腹が鳴るのだけれど。


 荷車を引いて大通りを進んでいると、団子屋の看板が目に入った。


 足が止まった。


 腹が鳴った。朝から歩き通しだったことを、胃が思い出させてくれた。正確には朝飯を食い損ねたことを。


「お前、また食い物に反応してんのか」


 夢魘が呆れた声を出す。


「反応してない。偶然足が止まっただけよ」


「偶然で腹は鳴らねぇだろ」


「鳴るわよ。春の風のせいで」


「意味が分かんねぇよ」


 団子屋に入った。小さな店だった。木の長椅子が三脚、土間に置かれているだけの素朴な造り。奥の竈で老婆が団子を焼いている。甘辛い焦げたたれの匂いが鼻の奥を殴りつけてきた。暴力的な匂いだ。どんなに腹が減っていなくても、嗅いだ瞬間に空腹になる。


「三本ください」


「はいよ」


「五本にしろよ。どうせ足りなくなるんだから」


「……五本ください」


 老婆が笑った。「仲がいいねぇ、お嬢さんと鳥さん」と言われた。夢魘が「仲良くねぇ」と返した。老婆がまた笑った。


 団子を受け取って長椅子に座った。串を持ち上げ、一本目を口に入れた。


 世界が少しだけ良い場所になった。


 甘辛いたれの膜が歯に当たって割れ、中から柔らかい餅が溢れる。噛むたびに香ばしさと米の甘みが交互に押し寄せてくる。焼き目のついた表面は僅かに硬くて、そこだけ食感が変わる。舌の上で焦げと柔らかさが同時に来る。こういう一口に出会うために生きているのだと、本気で思う瞬間がある。


 舌が覚えている。味がしなかった頃のことを。何を食べても砂を噛んでいるようだった二年間。この甘さが口に広がるたびに、体が勝手に安堵する。ああ、まだ味がする、と。


「美味しい……」


「お前、団子ごときでそのツラはやめろ。みっともねぇ」


「みっともなくて結構よ。美味しいものは美味しいの。それ以上の真理があるなら教えなさいよ」


「ねぇよ。ねぇから困ってんだ」


「俺にも食べさせてくれよ」


 夢魘が膝の上に乗り、嘴を近づけてきた。


「私の食事に手を出すのは命に関わるわよ」


「ケチくせぇ!」


 夢魘が怒って膝から降りた。その隙に三本目を食べた。


「図りやがったな!」


「乗せられる方が悪いのよ」


 その騒ぎを見ていたのか、隣に人が座った。いや——座ったというより、気づいたらいた。


「差し上げますわ」


 女の子の声だった。夢魘の前に団子を一本、置いた。


 深紅のドレス。裾が地面を掃くほど長い。袖も長く、手首から先が一切見えない。顔は整っていた。歳は私と同じくらいか、少し下くらい。穏やかな笑みを浮かべている。


「いいのかよ?」


 夢魘が団子を前にして聞いた。


「お茶だけで良いと言ったのですが付けてくれたので。喋るカラスさんなら美味しく食べてくれるでしょう?」


「ありがとうよ。どこぞの意地悪女もこの優しさを見習って欲しいぜ」


「全く、大きなお世話よ」


 笑った。歯を見せて、目を細めて、頬を持ち上げて。笑顔のお手本のような笑顔。教科書があったら載りそうな——


 何が引っかかったのか分からなかった。そういう笑顔だ、としか言えなかった。温かいのに温度がないような。視線を外した。


 団子を置いた時、袖の端がひらひらと揺れたが、指先は覗かなかった。


「お名前、聞いてもいいですか?」


「闡釐。十慧闡釐よ。こっちが夢魘」


「クミと申します」


「クミ。可愛い名前ね」


「夢魘さん。悪い夢、という意味ですわよね。素敵なお名前」


 迷いがなかった。夢魘、という名は初見では読みにくいし、音だけ聞いても耳慣れない。だがこの娘の読み取り方には澱みがない。聞いて、考えて、出した答えではなく、最初から知っていたような速さだった。


 夢魘が一瞬黙った。


「……ああ。まあな」


「よければ、孤児院を見に来ませんか? 子供たちに買って帰るついでなんです。行商人さんなら珍しいお話もたくさんあるでしょう」


 断る理由がなかった。それに、この町にしばらく滞在して商売をするなら、孤児院は情報源として悪くない。子供の口は軽い。町の噂は子供に聞け。恩人に教わったことの、もうひとつ。


 クミが先導して歩き出す。ドレスの裾が地面を掃く。歩くたびに布が揺れるが、腕の輪郭が一度も浮かばなかった。歩幅が狭い。だが遅くない。足の運びに無駄がない人の歩き方だった。

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