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丁々発止が鳴り止まない。改訂版  作者: ArU
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幕間二  商人の遺言

 戦場の跡は、いつもカラスの食卓になる。


 人が死ぬとカラスが集まる。商人が集まるのと同じだ。死体には価値がある。カラスにとっては食料。俺にとっては商機。人が死んだ場所には、生き延びた人間が集まる。生き延びた人間には売るものがある。薬、包帯、酒、食料。

 非道だと思うか。そうかもしれない。だが世の中はそういう風に出来ている。


 その日も、戦場の跡を歩いていた。荷台を引いて、商品を並べる場所を探していた。あちこちに死体が転がっている。カラスたちが群がり、肉を啄んでいる。見慣れた光景だ。

だが、一箇所だけ違った。


 死体が倒れている。銀色の長い髪が地面に広がっていて、最初は髪だけが生きているのかと思った。十六くらいの女の子。傷だらけで、血と泥にまみれている。動かない。死んでいるように見える。

 だがカラスが一羽もいなかった。


 周りの死体にはカラスが群がっているのに、この女の子の周囲だけ、まるで見えない壁があるかのようにカラスが近づかない。何羽かが近くまで来て、首を傾げ、それから慌てたように飛び去っていく。


 異常だった。カラスは死体を恐れない。血を恐れない。だがこの女の子の周りだけは避けている。

理由はすぐに分かった。


 殺気だ。


 女の子は動いていない。息をしているかも怪しい。だが、体の周囲の空気が歪んでいた。目に見えない圧が、場を支配している。生きている人間の殺意ではない。もっと原始的な、獣が縄張りに放つ匂いのようなもの。これに近づいたら死ぬ、という信号。

 カラスはそれを嗅ぎ取って、本能的に避けている。


 俺は商人だ。殺気とは縁遠い人間だ。だが、長年戦場の跡を歩いてきた経験が、足を止めさせた。

危ない。近づくな。頭はそう言っている。


 足が、近づいた。


 近づくと、女の子の目が開いた。深紅。血のように赤い目。忌み子の目だ。

だが、俺が見たのは色ではなかった。


 空っぽだった。あの目には何も映っていなかった。俺を見ていたが、俺を見ていなかった。光を受けているのに、何も返さない目。鏡ではなく穴だ。底のない穴が二つ、顔の真ん中に開いている。


 俺の名は国光巡。行商人だ。香辛料と香水を売って暮らしている。

この日、俺はカラスが避ける死体を拾った。


                 §


 村に着いて、宿を取った。自分の部屋に女の子を寝かせ、傷の手当てをした。包帯はたくさんある。商品だからだ。商品を自分で使うのは商人として下策だが、死体を宿まで運んでしまった以上、手当てしないのはもっと下策だ。


 傷の数を数える気にはならなかった。大小合わせて数十。切り傷、打撲、古い傷跡に新しい傷が重なっている。刃物による切創が多い。この子は人に斬られた傷ではなく、人を斬る側の傷を持っていた。手のひらの皮が硬い。刀を握り続けた手だ。十六の女の子の手ではない。


 三日間、女の子は眠り続けた。朝と晩に包帯を替えた。傷は少しずつ塞がっていく。普通の速さだ。普通の人間が、普通に治っていく。


 その三日間、俺は商売を休んだ。宿代が嵩む。包帯が減る。食料も消費する。完全な赤字だ。なのに部屋を出る気にならなかった。理由は分からない。強いて言えば、あの空っぽの目が気になっていた。あの目の中に、何か沈んでいるものがある気がした。水底に落ちた硬貨のように、暗くて見えないが確かにそこにあるもの。商人は沈んでいるものを引き上げるのが好きだ。価値があるかどうかは、引き上げてみなければ分からない。


 熱が出て、汗をかいて、時折うなされた。額の汗を拭いてやると、苦しそうに顔を歪める。それが唯一の表情だった。苦しい時だけ顔が動く。それ以外の時間は、眠っていても無表情だった。


 何を言っているのか聞き取れなかったが、一度だけ「グレン」という名前が聞こえた。人の名前だろう。親か、恋人か、仇か。どれでもいい。俺には関係のない話だ。

もう一つ、繰り返し呟いている言葉があった。「死ぬんじゃねぇぞ」。誰かの言葉を、寝言で反芻している。その声の調子だけが、この子が持っている唯一の人間らしさだった。


 四日目の朝、女の子が目を覚ました。

起き上がって、部屋を見回して、俺を見た。あの空っぽの目。だが、拾った時よりは少しだけ焦点が合っている。


「ここは?」


 初めて聞いた声は、低くて、乾いていた。水を渡した。一気に飲み干した。


「俺の宿だ。街道で倒れてたからな。拾った」


「……なぜ」


「さあな。気まぐれだ」


 嘘だ。あの空っぽの目が気になったのだ。だが本心を先に出すのは商人の流儀に反する。


 飯を出してやった。干し肉と、保存食の粥。質素なものだが、温かい。

女の子は最初、食べ物を見つめるだけで手を伸ばさなかった。


「食え。俺の商品を使って手当てしたんだ。その分は働いて返してもらう。死なれたら困る」


 打算を装った。慈善では動かない。この子はそういう人間だ。義務なら果たせる。

女の子が粥に手を伸ばした。匙で掬い、口に運ぶ。


 一口、二口、三口。表情が変わらない。四口、五口。機械のように食べている。


「……味がしない」


 小さな声だった。呟きに近い。匙を口に入れたまま、首を傾げている。粥の温度も、塩気も、干し肉の旨味も、何も感じていないらしい。壊れている。この子の味覚が壊れている。体ではなく心が壊れているから、舌が機能を停止している。


 俺は暫く考えた。それから、口を開いた。


「お前、泣いたことないだろ」


 女の子が顔を上げた。空っぽの目が俺を見た。


「泣いたことは……ない」


「だろうな。味がしないのは、そのせいだ」


「……意味が分からない」


「泣け。人生の調味料はしょっぱい涙だ。泣いて、笑って、怒って。そしたら味も分かるようになる」


 女の子が俺を見つめていた。空っぽの目のまま、しかしどこか戸惑っているように見えた。理解の外にある言葉を投げつけられた人間の顔だ。


「……変なことを言う人」


「商人は変なことを言って飯を食う商売なんだよ」


 女の子は匙を置かなかった。味がしなくても、食べ続けた。義務だからだろう。働いて返すために、体を維持する必要があるから。

 それでいい。理由は何でもいい。今は食べることが大事だ。味は後からついてくる。


 それが、俺と十慧闡釐の最初の食事だった。


                 §


 センリが動けるようになるまで二週間かかった。その間に、俺は一つの判断をした。こいつを弟子にする。


「行く宛がないなら、俺の手伝いをしろ。飯は食わせる。給金は出さない。代わりに商売を教えてやる」


「……商売」


「ものを売る仕事だ。人を殺すよりは金になる」


 センリの目が僅かに揺れた。「人を殺す」という言葉に反応した。こいつが何者なのか、俺は知らなかった。過去を聞くのは商人の流儀に反する。客の事情に踏み込まない。それは商売の鉄則だ。


 センリは少し考えてから、頷いた。


 最初の数ヶ月は大変だった。センリには商売の基本が何もなかった。笑顔の作り方を知らない。客との距離の取り方を知らない。声の調子を変える技術を知らない。


 この子が生きてきた世界では、人との接し方は「殺すか殺されるか」の二択しかなかったのだろう。売るとか買うとか、値切るとか値切られるとか、そういう柔らかい人間関係を一度も経験したことがない。


 ある日、客の前で棒立ちになっているセンリに声をかけた。


「センリ。笑え」


「……笑えない」


「いいか、笑顔はタダだ。金もかからない、材料もいらない、技術もいらない。なのに確実に役に立つ。時にはお金よりもな」


 センリは無表情のまま俺を見ていた。笑顔がタダだと言われても、持っていないものは使えない。それはそうだ。


「今すぐじゃなくていい。いつか笑えるようになったら、一番に客に使え。笑顔で損をすることは、この世に一つもない」


 センリは小さく頷いた。あの頷きは、約束だったのかもしれない。いつか笑えるようになったら、と。


 もう一つ、繰り返し教えた言葉がある。


「世の中を回すのは金だが、世の中を動かすのは好奇心だ」


 センリはこの言葉を気に入っていた。口の中で転がすように何度も呟いていた。


 センリに商売を教える中で、一つ困ったことがあった。値切り交渉だ。

ある村で、客の男が香辛料の値段に文句をつけた。「高すぎる。半額にしろ」と。センリは黙って男を見つめた。あの赤い目で。無表情で。何も言わずに。


 男は三秒で黙って定価で払った。

商売としては成立しているが、方法が間違っている。脅迫と値切り交渉は別の技術だ。


「センリ。今のは駄目だ」


「……ちゃんと売れたわ」


「売れたのと売ったのは違う。今のは殺気で黙らせただけだ。相手が納得して金を払うのが商売だ。納得させろ。怖がらせるな」


 センリは不服そうだった。不服そうな顔ができるようになったことに、俺は内心で安堵していた。


                 §


 最初に笑ったのは、半年後だった。


 ある村の市場で、客の婆さんが香辛料の小瓶を買いに来た。耳が遠くて、センリが何を説明しても伝わらない。身振り手振りで効能を伝えようとするが、婆さんはにこにこしながら全く違うものを指差す。話が永遠に噛み合わない。

 俺は横で見ていた。助けようと思えば助けられたが、あえて助けなかった。


 十分ほど格闘した後、センリがふっと力を抜いた。肩の力が抜け、口元が緩んだ。

そして、笑った。


 声を出して笑ったわけではない。唇の端が持ち上がり、目尻が下がり、頬が少し丸くなった。それだけだ。小さな笑み。

 笑顔はタダだ。ようやく手に入れたそのタダのものを、センリは婆さんに向けていた。婆さんは何が起きたか分かっていなかっただろうが、センリの笑顔を見て嬉しそうに手を叩いた。


 婆さんは結局、間違った小瓶を買っていった。センリが追いかけて正しいものに交換してやっていた。婆さんはセンリの手を握って「良い子だねぇ」と言った。

センリの顔が少し赤くなった。照れるのだ、この子は。


 その日の晩飯で、センリが言った。


「巡さん。少しだけ、味がする気がする」


 泣いてはいなかった。まだ泣き方を知らない。笑えるようになった。味覚が少しだけ戻り始めている。涙は出なくても、笑顔が調味料になったらしい。

変則的だが、悪くない。


                 §


 笑えるようになった頃の話をもう一つだけする。


 街道の脇に、鳥が落ちていた。小さな鳥だ。名前は知らない。茶色い羽根の、どこにでもいる種類。片方の羽根が折れていて、地面でばたばたともがいていた。飛べない。歩くこともできない。

俺は通り過ぎようとした。街道にはこういう光景がいくらでもある。いちいち立ち止まっていたら商売にならない。


 センリが立ち止まった。


 しゃがんで、鳥を見ている。赤い目が、もがく鳥を追っている。手は出さない。ただ見ている。

俺は少し先で振り返った。「おい、行くぞ」と声をかけようとして、やめた。センリの手が、ゆっくりと鳥に伸びていた。


 鳥がびくりと跳ねた。だがセンリの指が触れると、不思議と暴れなくなった。あの殺気を持つ手に、鳥が怯えなかった。殺すつもりがない時のこの子の手は、獣にも分かるほど静かなのかもしれない。


 センリが立ち上がった。両手で鳥を包むようにして持っている。俺を見た。


「……巡さん。包帯、少しだけ貰っていい?」


 商品だぞ、と言いかけてやめた。代わりに小さく切った布を渡した。センリが不器用な手つきで鳥の羽根を固定した。俺が客の傷に包帯を巻くのを見ていたのだろう。見よう見まねだが、悪くない処置だった。


「名前、つけるのか」


 俺が聞いた。何となく聞いた。


 センリが少し考えて、頷いた。


「……ハネ」


 安直だな、と思ったが言わなかった。この子が自分から何かに名前をつけたのは、俺が知る限り初めてだった。


 三日間、センリはハネを連れて歩いた。荷台の隅に布を敷いて寝床を作り、水を与え、虫を捕まえて食べさせた。朝になるとまずハネの様子を見る。夜は自分の上着をかけてやる。商売の間も、時折荷台の方を振り返っていた。


 笑えるようになったばかりの顔で、鳥の世話をしている。笑顔はまだぎこちないが、ハネに向ける目だけは柔らかかった。


 四日目の朝、ハネは動かなくなっていた。


 センリが荷台の布をめくった時、俺は少し離れた場所から見ていた。鳥は目を閉じていた。体が硬くなっている。夜のうちに死んだのだろう。


 センリがハネを手に取った。両手で包むように。三日前に拾った時と同じ持ち方だった。手の中にあるものの温度が、あの時とは違うことに気づいているはずだ。


 俺はセンリの顔を見た。


 何もなかった。


 目が空っぽに戻っていた。笑えるようになったはずの唇は、一筋の線に閉じている。頬が動かない。瞼が動かない。涙は出ない。


 名前をつけた鳥が手の中で死んで、この子は泣かなかった。


 センリが街道の脇に穴を掘った。小さな穴。鳥を入れて、土をかけた。立ち上がって、手についた土を払った。それだけだった。


「行くぞ」


 俺が言った。センリが頷いた。いつもの通り荷台の横を歩き始めた。


 それから、センリは何にも名前をつけなくなった。

俺たちの荷馬にも。道具にも。立ち寄る村にも。俺が「こいつにも名前つけてやれよ」と言っても、首を横に振るだけだった。

 なぜかは聞かなかった。聞かなくても、分かった気がした。


                 §


 二年が経った。センリは十八になっていた。


 もう立派な行商人だ。客の扱いが上手くなった。香辛料の配合を覚え、自分で新しい組み合わせを試すようになった。商売の話になると目が輝く。あの空っぽだった目が、今では銀貨の勘定をしている時が一番生き生きしている。

方向が少し心配だが、まあいい。生きている証拠だ。


 戦闘もまだ衰えていなかった。街道で賊に襲われた時、センリが刀を抜くと一瞬で終わった。殺してはいない。斬り方が変わった。以前は殺すための剣だったが、今は止めるために斬る。動けなくするために斬る。

 それを教えたのは俺ではない。センリ自身が変わったのだ。


 俺とセンリの関係は何だろう、と考えたことがある。

親子ではない。師弟でもない。恋人でもない。名前のない関係だ。俺がこの世からいなくなった後も、この子が一人で立てるようにしたい。それが俺の望みの全てだ。


                 §


 十九歳の春。何かが変わる予感があった。


 空気がおかしい。街道を歩いていると、遠くで何かが動いている気配がする。センリの寝つきが悪くなった。うなされる頻度が増えた。「グレン」という名前を、前より頻繁に呟いている。


 ある夜、焚き火を囲んで食事をしていた時、センリが言った。


「巡さん」


「なんだ」


「もし私がいなくなったら、荷台の商品はどうなるの」


「お前がいなくなったら、俺が全部売るさ。お前の分の取り分は……まあ、供え物にでもするか」


「供え物はいらないわ。その分で美味しいものを食べて」


 美味しいもの。あの「味がしない」と言っていた子供が、今では美味しいものを食べてくれと言っている。三年間で、味覚が戻ったどころか、食いしん坊になった。


「お前の方こそ、俺がいなくなったらどうするんだ」


「……一人で売るわ。貴方に教わった通りに」


「ちゃんと大盛り頼めよ。お前は食わないとすぐ痩せる」


「うるさいわね」


 笑い合った。何でもない夜の、何でもない会話。だが、俺にはそれが遺言のように聞こえた。


                 §


 その日は突然来た。


 夜明け前。馬が暴れた。尋常ではない怯え方だった。

センリが先に気づいた。刀を掴んで立ち上がった。顔が変わっていた。商人の顔ではない。封印していた顔。殺す側の顔。


「巡さん。逃げて」


「何が来た」


「……逃げて」


 答えなかった。だが、声が震えていた。センリの声が震えるのを、俺は初めて聞いた。


 闇の中から、それは現れた。


 人の形をしていた。だが人ではなかった。体の半分が獣のように変形し、肌が黒く変色している。魔物化した人間。しかし完全に魔物になりきっておらず、人間の面影が残っている。

そして――意識があった。


 目が、こちらを見ていた。獣の目ではない。人間の目だ。憎しみと、恐怖と、もう一つ、名前のつかない感情を宿した、人間の目。


 そいつは刀を持っていた。長い刀。鞘はなく、むき出しの刃が闇の中で鈍く光っている。刀の周りに、奇妙なものが漂っていた。淡い光の粒。蛍のようだが、もっと冷たい。魂のようなものが刀の周囲を巡回するように浮遊している。何なのか分からない。だが、あれは普通の刀ではない。


 センリが呟いた。声にならない声で。だが唇の形で読み取れた。


 ――グレン。


 あの名前だ。寝言で何百回と聞いた名前。目の前にいる半壊した魔物が、あのグレンなのだ。


                 §


 グレンが斬りかかった。

半壊した体からは想像できない速さだった。刀が闇を裂き、センリの顔面に向かって弧を描く。


 センリは避けた。

横に跳んで、刃を紙一重で躱した。髪が数本、切れて散った。


 反撃しなかった。


 グレンが二撃目を放つ。横薙ぎ。センリは身を屈めて潜る。三撃目。縦に振り下ろされた刃を、半歩退がって躱す。


 四撃。五撃。六撃。


 全て避けている。刀を抜いているのに、一度も振っていない。鞘から出した刃を下げたまま、グレンの攻撃だけを捌き続けている。


 俺は木の陰から見ていた。逃げろと言われたが、足が動かなかった。

商人の目は戦闘を読めない。だが、三年間この子を見てきた目には分かることがある。


 斬れない。


 あの子はグレンを斬れない。技術の問題ではない。あの速さで避けられるなら、斬り返すこともできるはずだ。だが、刀が上がらない。あの魔物がグレンだと分かっているから、刀が上がらない。

殺す側の顔に変わったのに、殺す側の手が動かない。


 グレンの攻撃が激しくなった。半壊した喉から、獣の唸り声が漏れる。

だが不意に、攻撃が止まった。


 グレンが一歩退がった。呼吸が荒い。半分崩れた顔が歪んでいる。怒りだ。だが、ただの怒りではない。


「……なぜ、来ない……」


 掠れた声。人間の言葉がまだ出る。


「来い……、センリ……」


 センリは答えなかった。刀を下げたまま、赤い目でグレンを見つめていた。その目に何があるのか、俺の位置からは見えなかった。


「なぜ……来ない……! 来い、センリ……!」


 グレンの声が震えた。怒りとは違う何かが滲んでいた。

俺にも分かることが一つだけあった。あいつは怒っているんじゃない。何かを確かめたがっている。


 挑発が始まった。


「お前は……兵器だ……! 俺が……育てた、兵器だ……! 心なんか、ない……!」


 センリの肩が強張った。だが刀は動かない。


「親を……殺した、だろう……! 父親も、母親も……顔色ひとつ……変えずに……!」


 センリの指が白くなった。柄を握る力が増している。だが振らない。


「仲間も……殺した……! 三十一人……! お前が……寝てる間に、飯を……食わせてやった……奴らを……! 全員……!」


 三十一人。寝ている間に飯を食わせた。その言葉の意味を、俺は理解できなかった。だが、センリの体が一段階深く震えたのは見えた。

 

 あの子の過去に何があったのか。俺は知らない。聞いたことがない。だが今、目の前で暴かれている。あの寝言の「グレン」は、この魔物の名前だった。育ての親だった。そして、この子を恐れた人間だった。


「それが……人間か……!? お前は……化け物だろう……! 俺の前で……人間の、真似を……するな……!!」


 ーー化け物。


 その言葉が最後の一線だった。


 センリの目が変わった。空っぽでも、静かでもない。三年間、俺の隣で少しずつ取り戻してきた感情のどれとも違う、初めての色が灯った。

怒りだ。


「私は……化け物じゃない……!」


 センリが叫んだ。初めて聞いた、感情の爆発した声。掠れて、裂けて、だが力のある声。

そして走った。刀を振り上げ、グレンに向かって。


                 §


 刃が交わった。金属が金属を叩く音。火花。闇の中で二つの影が激しく動く。

俺は商人だ。あの二人の動きは追えない。だが、分かることがあった。センリはもう押されていない。怒りが剣を研いでいる。三年間の封印が解けて、あの頃の切れ味が戻っている。いや、あの頃を超えている。怒りという燃料を初めて手に入れた刃が、闇を切り裂いていた。


 センリの刀がグレンの体を裂いた。深い傷。普通なら致命傷だ。

だがグレンは倒れなかった。


 刀の周りに漂っていた光の粒が一つ、消えた。代わりに、グレンの傷が塞がっていく。目の前で、肉が繋がり、皮膚が閉じた。


 何だ、あれは。あの刀が――グレンを治しているのか。光の粒が一つ消えるたびに、傷が治る。死なない。あの刀を持っている限り、グレンは死なない。


 センリの顔に、絶望が走った。


 何度斬っても死なない。光の粒が消費されるたびに復活する。一つ、二つ、三つ。グレンを斬るたびに光が減り、そのたびにグレンが立ち上がる。不死身の魔物。終わりのない殺し合い。

 だが、光の粒には限りがあった。最初に十数個あった光が、戦闘が進むにつれて減っていく。八つ。六つ。四つ。グレンの復活が遅くなっている。体の修復が不完全になっている。傷跡が残り始める。


 そして、グレンの叫びも変わり始めた。

怒りが薄れていく。光の粒が減るにつれて、獣の部分が体を侵食していく。人間でいられる時間が残り少ない。それを本人が分かっている。


 残った光の粒が、三つ。

グレンの目が変わった。怒りが消え、代わりに何かが浮かんだ。言葉にならない。怒りでも憎しみでも哀しみでもない。もっと静かな、もっと深い色。


 自分が間違っていたと、ようやく認めた人間の目だった。


 二つ。


 グレンの体が崩れかけている。復活のたびに人間の部分が失われ、獣の部分が増えていく。もうほとんど言葉を話せない。

 だが、最後の力を振り絞るように、口が動いた。


「……セン、リ……。俺は……お前の、親に……なれな、かった……」


 声が途切れた。半壊した喉から絞り出された、最後の人間の言葉。


「怖、くても……そばに、いるべき……だった……」


 最後の光が一つ。


 グレンが膝をついた。刀を杖にして、辛うじて体を支えている。目だけがまだ人間だった。涙も出ない。壊れた体に涙を流す機能は残っていない。だが、あの目は泣いていた。


 センリが刀を構えた。顔は見えなかった。俺の位置からは背中しか見えない。

 だが、あの背中は震えていなかった。


 センリの刀が振り下ろされた。最後の光が消え、グレンの体が崩れ、今度は立ち上がらなかった。


                 §


 静寂が戻った。


 グレンの死体が地面に横たわっている。魔物の半身が、ゆっくりと崩壊していく。刀だけが残った。光を失った刀。先程まで浮遊していた光の粒は全て消えて、ただの鉄になっている。


 センリは膝をついていた。刀を握ったまま、動かない。肩が上下している。息が荒い。戦闘の消耗だけではない。もっと深いところが消耗している。


 俺が近づこうとした時、地面が揺れた。


 グレンの死体の下から、何かが這い出してきた。最後の残滓。魔物としての本能だけが残った残骸。意識はない。ただ目の前の生き物を殺す、という衝動だけで動く肉塊。


 センリは気づいていなかった。背中を向けている。疲弊しきっている。


 体が動いた。


 考えるより先に。商人の理性より先に。損得勘定より先に。俺の足が地面を蹴り、俺の体がセンリの前に飛び込んでいた。


 衝撃。


 腹の辺りに、冷たいものが入ってきた。痛みは遅れてやってくる。見下ろすと、魔物の爪が俺の体を貫通していた。背中から入って腹から出ている。赤い。俺の血は赤いんだな、と場違なことを考えた。


 センリが振り向いた。


 赤い目が、俺を見た。

あの空っぽだった目に、今、何かが溢れていた。名前のつかない感情が、赤い瞳の中で渦を巻いている。


 そして、頬を何かが伝った。


 涙だ。


 センリが泣いていた。初めて。生まれて初めて、この子が涙を流していた。声は出ていない。顔は歪んでいない。ただ、赤い目から透明な雫がこぼれ落ちている。


 センリが残骸を斬り払った。一閃で動かなくなった。それから俺の体を支えて、地面に横たえた。


 俺の腹の穴から、温かいものが流れ出していく。視界がぼやけ始めている。でも、センリの顔だけはよく見えた。泣いている顔。初めて見る、この子の泣き顔。


「巡さん……巡さん……」


「泣いてるじゃねぇか……。初めて見たよ、お前の涙」


 センリの涙が、俺の頬に落ちた。温かかった。


「……涙って、しょっぱいね」


 センリが呟いた。泣きながら。涙の味を、初めて知った顔で。

――ああ、そうか。味がしたのか。しょっぱい涙の味が。


「……そうだ。しょっぱいだろ。人生の……調味料だ」


 声が掠れる。もう長くない。でも、伝えたいことがある。


「センリ。お前は……生まれたくて、生まれたわけじゃ、ない。誰も……そうだ。だから……迷って、いい」


 息を吸う。胸が軋む。


「でも、お前がいるだけで……救われる奴が、きっと……いる。味は……後から、いくらでも……」


 もう声が出ない。


「……死ぬんじゃ、ねぇぞ」


 あの言葉だ。センリが寝言で呟いていた、誰かの言葉。グレンの言葉だったのだ。あの魔物になった男が、かつてこの子に贈った言葉。それが巡り巡って、今、俺の口から出ている。死んでいく者が、生きる者に託す、たった一つの祈り。


 センリの口が動いた。何かを叫んでいる。俺の名前を呼んでいるのかもしれない。声は聞こえなかった。音が遠い。世界が遠い。


 最後の思考が走った。


 この子は大丈夫だ。泣けるようになった。怒れるようになった。笑えるようになった。味がするようになった。


 ……頼むから、大盛り、ちゃんと頼めよ。


 それが、俺の最後の思考だった。


                 §


 夜が明けていく。東の空が白んで、星が一つずつ消えていく。


 鳥が鳴いた。カラスではない。名前の知らない小さな鳥が、朝を告げていた。


 光を失った刀の前で、銀色の髪が揺れていた。


幕間二 了


更新タイミングを週1回にします。

また、既に書いている別の作品も投稿します。


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