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丁々発止が鳴り止まない。改訂版  作者: ArU
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幕間 傭兵団長の告白

 俺の名前はグレン。傭兵団の団長だった。

「だった」と過去形を使うのは、団が全滅したからだ。全滅させたのは外の敵でも魔物でもない。俺が育てた一人の子供だ。


 二十年近く団を率いた。最盛期には四十人を超える団員がいた。ドーム間の小競り合いから、領主の護衛、時には山賊の掃討まで何でもやった。傭兵とはそういうものだ。金を貰い、血を流し、生き延びた奴が次の仕事に向かう。誇れる仕事ではない。だが、俺たちはそれしか知らなかった。

これから話すことは、告白だ。懺悔とも言う。聞く者がいるかどうかは知らない。いなくてもいい。ただ、声にしておかないと、この記憶に押し潰されて俺が先に死ぬ。


 最近、体の端の方から感覚が薄くなり始めている。指先の感覚が時々消える。視界の隅が滲む。これが何を意味するか、傭兵なら誰でも知っている。だが今はそのことではなく、あの子の話をする。

俺の記憶がまだ俺のものであるうちに。


                 §


 あの子が生まれた日のことは覚えている。

傭兵仲間の妻が産気づいた。仲間の名前は言わない。言ったところで、もう誰も覚えていないだろう。ドームの中の小さな家で、女たちに囲まれて生まれてきた。俺たち男は家の外で待っていた。壁越しに聞こえる叫び声と、その合間に交わされる女たちの低い声。焚き火の煙が目に沁みた。

元気な女の子だ、と声がした。


 取り上げた婆さんが「肺の強い子だ」と笑った声が、壁越しにも聞こえた。仲間が立ち上がって家に入ろうとした。その時、中から別の声が上がった。悲鳴に近かった。

俺も入った。


 布に包まれた赤ん坊は、まだ泣いていた。声が大きい。手足を動かしている。元気だ。だが、その頭を覆う産毛が銀色だった。開いた目が、深紅だった。


 忌み子だ。


 部屋の空気が凍りついた。婆さんの笑い顔が消えた。女たちが一歩退がった。あの瞬間の静けさを、俺は忘れられない。赤ん坊の泣き声だけが響いていた。

どの村でも、銀髪に赤目の子供は災厄の印とされている。理由は誰も知らない。ある村では「百年前に銀髪の子供が生まれた年に疫病が来た」と語り継がれていた。別の村では「赤い目は魔物の血だ」と信じられていた。根拠のない迷信だ。だが、根拠がないからこそ反論もできない。反論できないものは、人を支配する。


 母親は——俺の仲間の妻は、赤ん坊を見て泣いた。産んだばかりの体で起き上がり、震える手で赤ん坊の首に手をかけた。


 俺と父親が止めた。二人がかりで、母親の指を一本ずつ引き剥がした。爪が赤ん坊の首に跡をつけていた。母親の指は細くて、それでも信じられないほど強かった。産後の体から絞り出した、慈悲の力。


「殺して。お願い。殺してあげて。この子はこの顔で生きていけない」


 殺してあげて、と言った。殺意ではなかった。慈悲のつもりだったのだ。この顔では世界が地獄になる。迫害される。追われる。石を投げられる。それを一生味わわせるくらいなら、今ここで。母親の目は狂っていたが、言葉は正気だった。


 母親の気持ちが分からないとは言わない。だが、俺は子供を殺す人間にはなれなかった。赤ん坊が俺の腕に触れた時——誰かが俺の方に押しやったのだ——小さな手が俺の指を握った。握る力があるとは言えない。ただ、温かかった。その温度だけが、俺を動かした。


「俺が引き取る。育てる。お前たちの目の届かないところで」


 大げさなことを言ったものだ。英雄的な動機ではなかった。他に選択肢がなかっただけだ。この赤ん坊を母親に返せば殺される。村に預ければ虐められる。捨てれば死ぬ。俺が抱いた。だから俺が育てる。それだけだった。


 家を出た。夜だった。空に星が散らばっていた。ドームの膜越しに見える星は、いつも少し歪んで見える。赤ん坊は俺の腕の中で泣き止んだ。泣き止んだことに驚いた。さっきまであれほど泣いていたのに、外の空気に触れた途端、静かになった。


 赤い目が俺を見上げた。生まれたばかりの目だ。光と闇の区別もつかないはずだ。それでも、あの目は俺の顔の位置を捉えていたように見えた。


 名前は親がつけていた。十慧闡釐。俺には読めなかった。だから「センリ」と呼んだ。


                 §


 傭兵団の中で子供を育てるのは、まともな判断ではない。分かっている。

だが他に選択肢がなかった。どの村に預けても、あの容姿では虐められるか、殺される。かと言って捨てるわけにもいかない。俺が抱いた。俺が決めた。だから俺が育てる。


 最初の数年は、普通だった。と思う。

センリは物静かな子供だった。泣かない。笑わない。怒らない。表情がほとんど動かなかった。乳を与えてもらう時だけ、口が動く。それ以外の時間は、赤い目を開けて周囲を見ている。何を見ているのか分からなかった。


 三つになっても、四つになっても変わらなかった。言葉は覚えた。だが必要なこと以外は話さない。「腹が減った」「眠い」。それだけだった。


 団員たちはセンリを避けた。銀色の髪と赤い目が不気味だと言う者もいたし、表情のない顔が怖いと言う者もいた。子供が怖いなんて馬鹿げている。だが、気持ちは分かった。あの目は、確かに人の心の奥を覗くような光を持っていた。


 三つか四つの頃だったと思う。団員の一人が焚き火の前で刃を研いでいた。砥石の上を滑る金属の音が、夜の野営地に響いていた。センリがそばに来て、無言で立っていた。じっと見ている。赤い目が、刃の動きを追っている。


 団員が気づいて顔を上げた。「......あっち行け」と、低い声で言った。怖がっていた。四つの子供を、大の大人の傭兵が怖がっていた。

センリは動かなかった。しばらくして、口を開いた。


「それ、なに」


 俺は少し離れたところで見ていた。センリが自分から人に話しかけたのは、初めてだった。声は小さくて、平坦で、年齢に合わないほど落ち着いていた。


 嬉しいと思うべきだったのだろう。人に関心を持ったのだ。言葉を使って、自分から。だが、俺が最初に感じたのは嬉しさではなかった。刃物に興味を持つのか、という微かな不安だった。

今にして思えば、ここから既にずれ始めていたのだ。


 五つの時に木刀を持たせた。傭兵団で育つ以上、戦えなければ生き残れない。それが俺の判断だった。

センリは木刀を受け取ると、振らなかった。地面に置いて、俺の方を見た。俺が「振ってみろ」と言っても首を横に振った。代わりに、俺が素振りをするのを見ると言った。正確には「やって見せて」と言った。

 三日間、センリは俺の素振りを見続けた。

朝から晩まで、同じ場所に座って、赤い目で追い続けた。食事の時間に声をかけないと食べない。眠る時間に声をかけないと眠らない。他の団員が話しかけても反応しない。ただ俺の刀を見ている。

見られている、という感覚があった。品定めされている、と言った方が近い。俺の体の動かし方、重心の位置、足の運び。全てを吸い取られているような気持ち悪さ。


 三日目の夕方、センリが立ち上がった。木刀を拾い、初めて振った。

俺の型だった。五つの子供の体では同じ速さは出ない。力も足りない。だが、体の動かし方、重心の移し方、刃筋の角度。全てが俺と同じだった。三日間見ただけで、俺が十数年かけて身につけた型を盗んだのだ。


 才能だ、と思った。思おうとした。この子は天才だ。俺が育てた子が、こんなに強くなれる。誇りに思うべきだ。


 だが、背筋を走ったのは誇りではなかった。


 六つの時には打ち込みの稽古で若手の団員に初めて勝った。七つの時には、団の中堅と互角に渡り合うようになっていた。筋力ではなく、読みだ。相手が何をするか、どこに隙があるか。言葉にできない年齢の子供が、本能的に読み取っていた。


 七つの頃の夜のことを覚えている。野営地で焚き火を囲んで飯を食っていた。依頼の帰りだった。小さな仕事で、怪我人は出たが死者はなし。団員たちが酒を飲んで馬鹿話をしている。誰かが歌い出して、別の誰かが音が外れていると笑った。


 センリはいつもの通り、輪の外にいた。膝を抱えて座って、火を見ていた。銀色の髪に焚き火の光が当たって、赤く見えた。


 俺が立ち上がって、自分の皿から肉を一切れ取り、センリの皿に乗せた。何でもないことだ。焼きすぎて硬くなった肉が余っただけだ。意識して「この子に何かしてやろう」と思ったわけではない。成り行きだ。俺とこの子の関係は、最初から最後まで成り行きでできていた。


 センリが俺を見上げた。赤い目。いつもの無表情。

だが、その時、一瞬だけ。本当に一瞬だけ、唇の端が動いた。


 笑った、のかもしれない。あるいは火の明かりでそう見えただけかもしれない。確証はない。俺が見たかったものを、見ただけかもしれない。

 だが、あの一瞬は俺の中に残った。何年経っても消えなかった。この子にも、何かがある。表に出てこないだけで、中には何かがある。あの一瞬の唇の動きが、そう信じさせた。

その「何か」を見つけてやるのが親の仕事だったのだろう。俺はそれをしなかった。十四年間、一度もしなかった。


 十になる頃には、団の中で五本の指に入る剣士になっていた。十二で俺に勝った。練習ではない。本気の立ち合いで、俺の太刀筋を全て読み切り、最後に俺の首筋に木刀を止めた。


「参った」と言った時、センリは何の表情も浮かべなかった。嬉しくもなさそうだった。当然のことをしたという顔で木刀を下ろした。


 十二で最強になった。団の中で、センリに勝てる人間はいなくなった。


                 §


 八つの時に、センリは初めて人を殺した。


 戦場でのことだ。俺たちの傭兵団は小競り合いに駆り出されることが多かった。センリはいつも荷物番として後方にいた。まだ戦わせるつもりはなかった。

 だが、後方が襲われた。敵の別動隊が回り込んできたのだ。

前線で刀を振っていた俺の耳に、後方から聞こえてはいけない音が届いた。金属がぶつかる音。そして短い叫び声。男の声だ。大人の男の叫び。


 あそこにはセンリしかいない。


 血の気が引いた。脚が勝手に動いた。前線を離脱するのは傭兵団長として致命的な判断だ。だが、構わなかった。その瞬間、俺の中では団長より先に、あの子を拾った夜の記憶が動いていた。

走った。息が切れる。足元の土を蹴り上げながら、木立を抜けて後方の荷駄場に向かった。嫌な匂いがした。血と土が混ざった、戦場の匂い。


 たどり着いた時、三人の男が地面に転がっていた。大人の傭兵だ。武装している。革鎧を着て、剣を持っている。それが三人とも倒れていた。一人は首筋を裂かれ、一人は腹を突かれ、一人は喉を横に切られていた。


 斬り口を見て、順番が分かった。俺は傭兵だ。死体を見れば分かる。最初に首筋を裂かれた男が先に倒れた。次に腹を突かれた男。最後に喉。一撃ずつ。無駄がない。

 その中央に、センリが立っていた。俺の古い短剣を握っていた。あの短剣はいつの間に持ち出していたのか。荷物の中に入れていたはずだ。この子は、自分が戦う可能性を想定していたのか。八歳で。


 返り血で全身が赤かった。目も赤かった。元々赤い目が、血でさらに赤く見えた。

笑っていなかった。泣いてもいなかった。震えてもいなかった。

ただ立っていた。三人の大人を殺した八歳の子供が、怯えも泣きもせず、無表情で、俺を見ていた。


「グレン。終わったよ」


 その声の平坦さに、寒気が背筋を走った。

 だが、それよりも先に体が動いていた。駆け寄って、センリの肩を掴んだ。血で滑る。構わず掴んだ。小さな肩だった。骨の位置が手のひらで分かるほど、細い。こんな体で。


 何を言うべきか分からなかった。「よくやった」か。違う。「大丈夫か」か。大丈夫に見える。それが一番怖い。


 数秒の沈黙があった。センリの赤い目が俺を見上げていた。何も映っていない目だった。どこも見ていないような、全部見ているような。

なぜその言葉が出たのか、自分でも分からなかった。口が勝手に開いた。


「センリ。死に逝くものがお前に教える事がある。お前は死ぬんじゃねぇぞって事だ」


 偉そうなことを言ったものだ。目の前で人を殺した八歳の子供に、死生観を語って聞かせた。俺自身がその言葉の意味を分かっていたかも怪しい。

 だが、あの言葉を口にした瞬間、センリの目が変わった。変わった、と言うほど大きな変化ではない。ただ、それまでどこにも焦点の合っていなかった赤い目が、俺の顔の上で止まった。焦点が合った。俺の顔が、あの目に映った。


 唇が微かに動いた。何かを反芻するように、口の中で転がしているように。音にはならなかった。

届いた、と思った。何がどう届いたのかは分からない。だが、確かに受け取った顔だった。


 この子に死んでほしくなかった。それだけだった。それだけが本当のことで、あとは全部、後から取り繕った理屈だ。


                 §


 十三の頃に、ある依頼が来た。

紫紺の瞳を持つ民族が住む村を一掃する仕事だ。依頼主の名前は覚えていない。覚えたくもない。紫紺の瞳の村を潰せ。男も女も子供も。全員だ。理由は「この土地に彼らがいると、領主の事業に差し障る」。

それだけだった。それだけで、人が死ぬ。


 俺は引き受けた。傭兵だ。仕事を選んでいたら飯が食えない。引き受ける自分に吐き気がしたが、吐き気では腹は膨れない。


 センリも連れて行った。この頃のセンリは既に、戦闘において最も信頼できる戦力だった。十三歳の子供が、大人の傭兵三十二人の中で一番強い。異常だ。だが事実だった。


 道中、団員たちが話していた。「紫紺の連中は人間じゃねぇ」と言う声が聞こえた。忌み子の話と同じだ。見た目が違う。だから人間ではない。だから殺していい。その論理を、忌み子を育てている俺が聞いて黙っていた。黙っていた自分が一番卑怯だった。


 村に着いた。小さな村だった。ドームの膜が薄く、中の緑もまばらだった。貧しい村だ。家は十数軒。畑がいくつかあって、家畜は痩せていた。道端に子供の玩具が落ちていた。木を削って作った、動物の形をした小さな人形。


 紫紺の瞳を持つ住民たちが出てきた。男も女も老人も。目が合った。紫紺の瞳。綺麗な色だった。怯えた顔。何が起きるか分かっている顔。武器を持った者はほとんどいなかった。

 戦闘にもならなかった。抵抗できない人々を、俺たちは殺した。仕事だから。依頼だから。


 俺も殺した。


 その事実から逃げるつもりはない。俺は自分の手で、紫紺の瞳を持つ人間の命を奪った。何人か。数えたくない。覚えてもいない。覚えていないことが最も罪深い。

 広場で作業を終えた時、センリがいないことに気づいた。さっきまで近くにいたはずだ。見回すと、村の奥の方に向かう足跡があった。血の足跡だ。小さい。センリのものだ。


 俺は広場から動かなかった。他にもやることがあったし、センリは一番強い。心配する理由はなかった。


 だが、あの時動いていれば。


 どのくらいの時間が経ったのかは分からない。仕事が全て終わった後、引き上げの準備をしている時に、村の奥からセンリが歩いてきた。


 刀を提げていた。血がついていた。だがそれはいつものことだ。


 俺が見たのは、村の奥の方に一瞬だけ目を向けた時のことだ。

家が一軒あった。入口の近くに女が倒れていた。死んでいた。その家の中は暗くて見えなかったが、小さな影がうずくまっているように見えた。距離があって、よく分からなかった。


 センリの血の足跡が、その家の中まで続いていた。足跡はある地点で止まり、向きを変えて戻ってきていた。何かの前で立ち止まり、何かをして、引き返した。


 センリの手を見た。刀を握っている右手ではなく、左手。指先に血がついていた。刀で人を斬る時、指先はあんな汚れ方をしない。刃を握ったのでもない。もっと繊細な——何かに触れた時の汚れ方だった。


 女の子の目の辺りに何かをした。そう見えた。だが距離があって、よく見えなかった。

聞くべきだった。「お前の手は何をした」と。「あの家の中に何がいた」と。


 聞かなかった。


 帰り道のことは鮮明に覚えている。

センリの背中が震えていた。


 足は真っ直ぐだった。歩調も乱れていない。表情を確認するために一度だけ横に並んだが、いつもの無表情だった。変わらない。

 だが背中だけが震えていた。微かに。ほとんど見えないほどに。肩甲骨の間が、呼吸とは別のリズムで動いている。


 他の団員は誰も気づいていなかった。俺にだけ分かった。十三年間この子を見てきたから分かった。あの背中は泣いている。声も涙も出さずに、背中だけが泣いている。


 その時、はっきりと思った。この子にも何かが残っている。人間の部分が、まだある。あの無表情の奥で何かが動いている。

 だが、俺はそれを確かめようとしなかった。声をかけなかった。「何があった」と聞かなかった。「大丈夫か」とも言わなかった。


 なぜか。答えを聞くのが怖かったからだ。あの家の中で何を見て、何をしたのかを聞いたら、それに対して俺は何か言わなければならない。親として、何か。その「何か」が見つからなかった。見つけようともしなかった。


 センリの手の震えが止まるまで、半日かかった。その半日の間、俺はずっと隣にいて、一言も声をかけなかった。


                 §


 十四の頃。全てが壊れた。


 その前に、壊れ始めていたことを白状しなければならない。

十三を過ぎたあたりから、俺の中で何かが変質していた。センリを見る時、目がいつの間にか刀の位置を確認するようになっていた。こいつが刀を抜いたらどうなるか。こいつが本気で俺を殺しに来たらどうなるか。そういう計算が、無意識に頭の中を走るようになった。


 恐怖だ。


 俺は、自分が育てた子供を怖がっていた。

それは忌み子への迷信とは違う。銀色の髪が怖いのではない。赤い目が怖いのではない。あの無表情が怖いのだ。何を考えているか分からない。何を感じているか分からない。人を殺しても目の色が変わらない。紫紺の村で震えていた手は、数日で元に戻った。あの震えは、使い果たされる程度のものでしかなかったのか。


 背中を向けられなくなった。夜、センリが隣で眠っている時に、俺は眠れなくなった。目を閉じると、暗闇の中で赤い目が光っている想像が消えない。あの子が寝返りを打つ気配がするたびに、体が硬くなった。


 ある日、団の中で「化け物だ」と、誰かが呟くのを聞いた。俺はそいつを殴った。だが殴った拳が震えていたことに、俺自身が気づいていた。化け物だと思っているのは、俺も同じだった。


 そんな中、センリの両親がドームの外で魔物化した。珍しいことではない。大気汚染で人が魔物になることは日常的に起きる。ただ、それがセンリの血の繋がった親だった、というだけの話だ。

血の繋がり。センリにとって、それがどれほどの意味を持っていたのか。あの子は両親を覚えていないはずだ。生まれてすぐに引き離されたのだから。


 魔物化した両親が、偶然にも俺たちの野営地を襲った。運が悪いとしか言いようがない。人間の形をかろうじて残した二体が、木立の間から現れた。


 俺が声を上げる前に、センリが動いていた。刀を抜く音がした。


 二体の魔物——かつての父と母を、三合で斬り伏せた。


 一合目で父親。二合目で母親。三合目で、まだ動いていた父親に止めを刺した。


 躊躇がなかった。

いや——躊躇がなかった、と断定していいのか。俺がそう見たのは確かだ。だが、あの一瞬に何があったのか、本当のところは分からない。ただ一つ、見えたことがある。魔物が姿を現した瞬間、センリの目が一瞬だけ細くなった。あの動きは「認識」だったと俺は思った。父と母だと分かった。分かった上で殺した。


 だがそれは俺の解釈だ。あの一瞬の目の動きが何を意味していたのか、確かめる術はない。

確かめる気もなかった。確かめたら、俺の恐怖に答えが出てしまうからだ。


 血溜まりの中に立つセンリを見た時、俺の中で何かが決まった。決まった、と言うより折れたのかもしれない。これ以上、この子のそばにいることに耐えられないと思った。


                 §


 その夜、俺は団員を集めた。全員を。


「あいつを殺す」


 俺が言った。団長命令だ。

理由を聞く者はいなかった。全員が、同じ恐怖を抱えていたからだ。あの子が怖い。あの目が怖い。あの強さが怖い。俺が言い出さなくても、いつかこうなっていたのかもしれない。


 だが、言い出したのは俺だ。育ての親が。

あの決断に迷いがあったかと問われれば——なかった。恐怖が迷いを焼き尽くしていた。怖いから殺す。それだけだった。センリが両親を三合で殺した時と、構造は同じだ。俺は、あの子を恐れて殺そうとした。あの子の両親が、あの子を恐れて殺そうとしたのと同じように。


 最初にそう気づいたのは、全てが終わった後だった。


 センリは寝ていた。野営地の隅で、刀を抱いて横になっていた。

三十二人で囲んだ。松明はつけなかった。星すら見えない夜だ。暗闇の中で、男たちの息遣いだけが聞こえた。


 誰かの足音で目が覚めた。赤い目が開いた。暗闘の中でも分かった。あの赤だけは、どんな闇でも光る。


 センリが起き上がった。ただ起き上がっただけだ。だがそれだけで、最前列の三人が動揺して斬りかかった。こちらが三十二人。向こうは一人。それでも、起き上がるだけで三人が怯えた。


 斬りかかった三人は、三秒で倒れた。


 その瞬間の、センリの顔を俺は見た。

仲間の死体が足元に崩れた直後、センリの表情が崩れた。崩れた、という言い方は正しくない。動揺でも怒りでも恐怖でもなかった。

 もっと底にある、何かだった。悲しみに近いが、悲しみとも違う。名前のない表情。この子がこんな顔をするのを、俺は十四年間で一度も見たことがなかった。


 口が動いた。声は聞こえなかった。だが唇の形で読み取れた——読み取れた気がした。


——どうして。


 本当にそう言ったのか。あるいは俺がそう読みたかっただけなのか。暗がりの中で、血と松明の光で揺れる視界の中で、俺にそれを正確に読む力があったとは思えない。

 だが、どうして、と読めた。読めてしまった。それが俺の答えだった。


 声が出なかった。喉が締まっていた。それでも言った。


「セン——あいつを殺せ」


 名前を呼びかけて、途中で止めた。名前を呼んだら、殺せなくなる気がした。


 戦闘は短かった。

あの子は、刀を抜いた時には既に戦闘が終わっている。そういう剣だった。振り始めてから斬るのではない。斬ると決めた時にはもう終わっている。


 最初に斬りかかった三人の後、残りの者が一斉に向かった。闇の中で銀色の髪が翻った。赤い目が残像を引いた。血飛沫が弧を描き、悲鳴が一つずつ消えていった。


 俺は動けなかった。腰が抜けて地面に座り込んでいた。自分が命じたことの結果を、自分の目で見ていた。逃げなかったのは、勇気ではない。体が動かなかっただけだ。


 一人の団員が俺の隣に倒れた。若い男だった。三年前に入団した。飯を食う時にいつも俺の隣に座っていた。その男の目が開いたまま、空を見ていた。星も見えない暗い空を。



 最後の一人が倒れた。三十一の死体が転がっている。

センリが俺の前に立った。呼吸すら乱れていない。返り血で全身が赤い。目だけが澄んでいた。


 刀の切っ先が、俺の喉に触れた。冷たかった。


 死ぬ、と思った。当然だ。殺されて当然だ。


 だがセンリは刀を引いた。


「......なんでだ」


 俺の声は掠れていた。


 センリの唇が動いた。掠れた声が聞こえた。聞こえた気がした。実際に耳に届いたのかどうか、今でも分からない。あの夜の全ては夢のように朧げで、確かなことは何一つない。

ただ、あの時聞いた音は、八歳の時に俺がセンリに贈った言葉だったと、俺は信じている。


 死ぬんじゃねぇぞ。


 あれを覚えていた。あの無表情の奥で、あの言葉だけは残っていた。だから殺さない。お前を殺したら、あの言葉を教えてくれた人間がいなくなる。だから殺さない。


 心がないのではなかった。

心があった。ずっとあった。ただ、表に出せなかっただけだ。出し方を知らなかっただけだ。

俺は、それを見る目を持っていなかった。怖さが先に立って、この子の中にあるものを見ようとしなかった。


                 §


 センリは背を向けて歩き出した。振り返らなかった。

闇の中に消えていく銀色の背中を、俺は地面に座り込んだまま見ていた。立ち上がる力がなかった。追いかける資格もなかった。


 あの背中は震えていたか。

紫紺の村の帰りのように、震えていたか。暗くて見えなかった。見えなかったことが、俺の罰なのかもしれない。


                 §


 あの夜から、俺はセンリを見ていない。

行商人になったと風の噂で聞いた。旅人が言っていた。「銀髪の行商人が東の街道を通った。馬に荷物を積んで、香辛料を売っている」。人を殺すのをやめて、小瓶を売って暮らしているらしい。

馬鹿な話だ、と最初は思った。あれほどの剣の才能を持つ人間が、商人をしている。

 いや、馬鹿なのは俺の方だ。あの子が刀を捨てたのは、俺のせいだろう。俺が恐怖したから。俺が襲ったから。あの子は自分の力を呪い、別の生き方を選んだ。


 もう一つ、旅人が言っていた。「笑っていた」と。


 笑っていた。あのセンリが。無表情のまま十四年を過ごしたあの子が、笑っていた。

それを聞いた時、体の奥で何かが軋んだ。嬉しさと、痛みが同じ場所から出てきた。


 俺は一度も、あの子を笑わせることができなかった。肉を一切れ乗せた時に見えた一瞬の唇の動きが、俺の十四年間の全てだった。


 俺はあの子の親だっただろうか。

親のつもりだった。飯を食わせ、剣を教え、戦場で背中を守った。それは親の仕事だと思っていた。だが本当の親は、子供が何になっても受け入れるものだろう。化け物になっても、人殺しになっても、笑わない子供でも。


 俺にはそれができなかった。怖くなって、逃げた。逃げる前に殺そうとした。

——それでも、あの子を愛していたと言っていいのか。愛していた、と頭で考えたあと、止めた。愛していたなら、なぜ殺そうとした。愛していたと言えば、あの夜の自分が少しだけ許される気がする。その「少しだけ」が欲しくて、愛という言葉に手を伸ばしている。卑怯だ。最後まで卑怯だ。


 親のふりをした飼い主だった。強い犬を育てて、強くなりすぎたから殺そうとした。それだけの話だ。


 紫紺の村のことも、思い出す。あの日、センリの背中が震えていた。あの手に血がついていた。刀の血ではない、指先の血。あの家の中で何を見て、何をしたのか。聞いていれば。聞いて、受け止めていれば。あの子の中にある人間の部分を、もっと早く見つけられたかもしれない。

見つけていれば、怖がらずに済んだかもしれない。怖がらなければ、襲わなかった。襲わなければ、団は全滅しなかった。


 全ての分岐点が「聞かなかった」に収束する。


 あの夜、刀の切っ先が俺の喉に触れた時、俺はセンリの目を見た。赤い目。十四年間見続けた目。

あの目に、何が映っていたのか。


 俺を殺したい顔だったのか。殺したくない顔だったのか。許している顔だったのか。許していない顔だったのか。それとも、もっと別の何かだったのか。


 分からない。十四年間育てて、最後まで分からなかった。


 指先の感覚が、また消えた。右手の薬指。さっきまであったものが、なくなっている。体の端から、俺でないものに変わっていく。この先に何が待っているか、傭兵なら誰でも知っている。

だが、まだ記憶は俺のものだ。あの赤い目の記憶だけは、最後まで俺のものだ。


 センリ。お前がどこかで笑っているなら、それでいい。


 俺は怖くても、そばにいるべきだった。


幕間一 了


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