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丁々発止が鳴り止まない。改訂版  作者: ArU
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月のない夜に 10

 月のない夜に


 村を出て、二日が経った。


 銀狼を送った後、リオに牙を返し、一晩休み、報酬の代わりに飯を食い、そして出発した。次の行き先は決めていない。北に行けば山間の村がある。東に行けば海に近い集落がある。どちらでもいい。商品はまだ残っている。行く先には困らない。

 だが、体が重い。

銀狼戦の傷は全て治っていた。左腕も動くし、背中の痛みもない。いつの間にか、体は元に戻っている。理由は分からない。重いのは別のところだ。


 銀狼の声が、まだ耳の奥に残っている。


「俺は透明な檻の中に閉じ込められている」。「お前たちの国は、俺のような者にも居場所を与えるのか」。「覚えていてくれ」。


 そして、首を差し出した時の静かな気配。あの獣は最後まで静かだった。怒りも恨みもなく、戦士として死を受け入れた。


 今はまだ、あの重さを整理する言葉が見つからない。

夢魘も静かだった。いつもなら肩の上で軽口を叩くのに、銀狼を火葬してから、ほとんど喋らない。何かを考えている。「作られた存在」という言葉を、まだ噛み砕いているのだろう。あの夜、殻に閉じこもった夢魘を見た。あのまま戻ってこないのではないかと、一瞬だけ思った。

だが翌朝、夢魘は私の肩に乗っていた。片目を閉じて、もう片方で前を見ている。いつもの半睡。それだけで少し安心した。


 壊れてはいない。揺れてはいるが、折れてはいない。


                  §


 三日目の夜。小高い丘の上に野営を張った。


 見晴らしがいい場所だった。丘の頂上から、どの方向にも地平線が見える。遠くにドームの薄い輝きがいくつか点在している。あれが人の暮らしだ。小さな光の粒が、暗い大地に散らばっている。

焚き火を起こし、干し肉を焼いた。馬に水をやり、荷台の商品を確認した。香辛料の小瓶がいくつか割れていた。銀狼に吹き飛ばされた時に壊れたのだろう。損失としては軽い。命が残っているのだから、小瓶のいくつかくらい安いものだ。


 夢魘は焚き火の傍の石の上に止まって、炎を見つめていた。橙色の光が黒い羽を染めている。

沈黙が長い。三日目になると、さすがに重い。こいつが黙っていると、世界が一回り静かになる。いつもの軽口がないだけで、こんなにも空気が薄くなるのかと思う。


「夢魘」


「......なんだ」


「三日も黙ってると、逆に怖いわよ」


「......別に黙ってるわけじゃねぇよ。考えてるんだ」


「何を?」


 夢魘が炎から目を離し、こちらを見た。黒い瞳に焚き火の光が映っている。


「......色々だ。銀狼のこと。猫のこと。俺のこと。それと、お前のこと」


「私のこと?」


「ああ。お前のこと」


 夢魘がこちらをまっすぐに見ていた。いつもの軽口の構えではない。真剣な目だ。何かを聞こうとしている。ずっと聞きたくて、でも聞けなかったことを。


                  §


「闡釐。お前のこと、聞いていいか」


 来た。いつか来ると分かっていた。りょうとの殺し合いで不死身が露呈し、銀狼戦で刀の力を目の当たりにした。こいつの中に溜まった疑問は、もう限界だろう。


「......何が聞きたいの」


「全部。お前が何者なのか。なんで一人で旅してるのか。あの刀は何なのか。お前の過去に何があったのか」


 全部、と言われて少し笑ってしまった。全部を話すのは、一晩では足りない。一生かけても足りないかもしれない。


「全部は無理よ。でも、少しだけなら」


「......少しでいい」


 焚き火に薪を足した。炎が大きくなり、二人の影が丘の斜面に伸びた。


「私は傭兵団で育ったの。団長に拾われて、小さい頃から戦場にいた。人を殺すことしか知らなかった」


「傭兵団って......ガキの頃からか?」


「物心ついた時にはもう刀を持っていたわ。五つで木刀、八つで真剣。それが私の日常だった」


 夢魘が黙って聞いている。口を挟まない。聞く時のこいつは、驚くほど静かだ。


「強かった。強すぎた。十二で団長に勝って、十四で団の最強になった。......それが、良くなかったのかもしれない」


「良くなかった?」


「団長が、私を怖がるようになったの。育ての親が。最初は誇らしそうだったのに、いつの間にか目が変わっていた。怯えた目。私を見る度に、自分が育てた何かに怯えている目」


 声が平坦になっていることに気づいた。感情を込めると崩れる。だから事実だけを並べる。商人が帳簿を読み上げるように。


「十四の時に、団長が仲間を連れて私を殺しに来た。三十二人で」


「......三十二人?」


「全員殺した。団長だけ逃がした」


夢魘の爪が肩に食い込んだ。痛い。でも、痛みがあった方が話しやすい。現実に繋ぎ止めてくれる。


「......なぜ逃がしたのかは、自分でもよく分からない。その団長が、昔、ある言葉を教えてくれたの。死に逝く者が生きる者に託す言葉。それが理由だと思いたいんだけど......本当にそれだけだったのか、今でも分からない。殺せなかったのか、殺さなかったのか。その区別がつかない」


 夢魘は何も言わなかった。ただ、爪を緩めた。食い込ませていたことに気づいたのだろう。


「団長を逃がした後、一人で戦場を渡り歩いたわ。十四から十六まで。何も感じなかった。食べ物の味がしなかった。笑えなかった。人を殺しても、生き延びても、何も変わらなかった」


「味がしない......」


「そう。何を食べても砂を噛んでいるようだった。体は動く。刀は振れる。でも、それだけ。私は動く死体みたいなものだった」


焚き火の炎が、パチリと爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がり、星に混じって消えていく。


「十六の時に、戦場で倒れているところを商人に拾われた。その人が......恩人」


「香辛料の?」


「ええ。国光巡という人。......何て言えばいいのかしら。この人のことを説明する言葉が見つからないの。怖がらなかった、この目も、この髪も。それだけは確か。私が『味がしない』と言ったら、泣けって言った。泣いたら味が分かるようになるって」


 声が少し揺れた。この人のことを話そうとすると、いつもこうなる。


「商売を教わった。笑い方を......笑い方を教わった、というのも変ね。誰かに教わるものじゃないでしょう、笑い方なんて。でも、半年かけて笑えるようになった。味が少しずつ戻った。あの人がいたから」


「......いい人だったんだな」


「ええ。......ええ」


「今は?」


「死んだわ。私が十九の時に」


 短く言った。それ以上の言葉が出てこなかった。あの日何があったのか、自分の中でもまだ整理がついていない。ただ、あの人が死んで、私が生きている。その事実だけが残っている。

夢魘はそれ以上聞かなかった。死んだ、という言葉の重さを、黙って受け止めてくれた。


                  §


 沈黙が降りた。焚き火がパチパチと鳴っている。馬が遠くで鼻を鳴らしている。

暫くして、夢魘が口を開いた。


「なぁ、闡釐。もう一つだけ聞いていいか」


「......何?」


「......闡釐。無理に話さなくていいんだぜ」


 優しい声だった。この話を切り上げる機会をくれている。でも、今日ここで止めたら、次はもっと話せなくなる。


「......でもね、一番辛かったのは別のことよ。ある村で、取り返しのつかないことをした」


 声が、自分でも驚くほど小さかった。


「取り返しのつかない?」


「傭兵として、任務を遂行した。その結果、ある子供の人生を壊した。殺しはしなかった。でも、殺すより残酷なことをしたかもしれない」


 それ以上は言えなかった。言葉が喉で固まって、出てこない。あの村の匂い。母親の体。掴んで離さなかった死体の手。小さな女の子。


 帰り道で、手が震えていた。


「......今はまだ、全部は話せない。でも、いつか話す。話さなければいけない日が来ると思う」


 夢魘は頷いた。それだけだった。「話してくれてありがとう」とも「大変だったな」とも言わなかった。ただ頷いた。


 その静かさが、今の私にはちょうどよかった。慰めの言葉よりも、ただそこにいて、聞いて、頷いてくれることの方が、ずっと救われる。


                  §


 話が途切れて、しばらく二人とも黙っていた。焚き火が弱くなってきたが、薪を足す気にならなかった。暗くなっていく方が、楽なこともある。

 ふと、馬の方を見た。荷台の傍で静かに立っている。三年一緒に旅をしている馬。名前のない馬。

あの最初の夜に、私はこの馬に名前を付けていないと思った。名前を付けるのは、相手を失った時に呼ぶものがあるということだ。失うものは増やしたくない、と。

 でも、もう増えている。気づかないうちに、増えていた。大切なものが。失いたくないものが。


 今更、名前の一つを惜しんでどうする。


「夢魘」


「......んぁ?」


 半睡のまま返事をした。片目が薄く開いている。


「馬に名前をつけようと思うの」


「......今?寝かけてんだけど」


「今じゃなくていいわ。でも、つけようと思って」


 夢魘が少し目を開けた。こちらを見て、ふっと笑った。寝ぼけた、柔らかい笑み。


「いいじゃねぇか。何にするんだ」


「まだ決めてない。考える」


「俺に名前つけた時みたいに、悪夢系にすんなよ」


「悪夢系って何よ」


「お前のネーミングセンスは信用してねぇからな......」


 少しだけ笑って、それから沈黙が戻った。温かい沈黙だった。


                  §


 夢魘が不意に空を見上げた。


「なぁ、闡釐」


「何?」


「......月って、見たことあるか?」


 月。


 また、あの言葉。探検家夫婦の村で宿に泊まった夜にも、同じことを聞いた。あの時は「そもそも月なんてあった?」と返した。夢魘は「あったはずだ」と言った。


「前にも聞いたわね。私はない。星しか見たことがない」


「ああ......。俺もな、分かんなくなってきた。あったはずなんだ。夜空にデカくて丸い光が。でも、どんなに探しても見つからねぇ」


 夢魘の声が、焚き火の残り火のように揺れていた。


「銀狼に言われたんだ。お前も作られた存在かもしれない、って。もし俺が作られた存在なら、月の記憶も誰かに植え付けられたものかもしれねぇ。ありもしないものを覚えさせられて、それを探し続けている。それって......かなりキツい」


 作られた記憶。ありもしない月を探して夜空を見上げ続けるカラス。それは確かにキツい。


「でもよ」


夢魘が嘴を上げた。星が散らばる空を見上げている。


「もし俺の記憶が嘘だったとしても。月がなかったとしても。探すのはやめねぇ」


「なぜ?」


「探してる間は、空を見上げてるからだ。下を向いてるよりマシだろ?」


 ......こいつは時々、こういうことを言う。冗談みたいな声で、冗談ではないことを。軽い口調で、世界の重さを受け止めるようなことを。


「それに、月が本当にあったとしたら。俺はそれを見つけて、お前にも見せてやりたい。お前は月を知らないんだろ?なら、俺が見せてやる」


「見つかるか分からないものを?」


「見つかるさ。見つけるまで探すからな」


 夢魘がニヤリと笑った。いつもの笑み。銀狼に揺さぶられ、三日間黙り込み、過去を語る私の肩の上で震えていた、あの夢魘が。笑っている。


「約束だぜ。月を見せてやる」


「......いつ?」


「分かんねぇ。でも、約束する」


 約束。また一つ増えた。いつ果たされるか分からない、でも確かに交わされた約束。


「......楽しみにしてるわ」


 そう答えた時、不思議と寒くなかった。焚き火はもう消えかけているのに。


 いつか塞がる日が来るのだろうか。それは分からない。でも、今はこのままでいい。


                  §


 夢魘が片目を閉じた。もう片方で空を見ている。月を探している。


 私も目を閉じる。


 今日、少しだけ軽くなった。声にして外に出したことで。夢魘が聞いて、黙って、頷いてくれたことで。


 明日はまた旅をする。

星の下を。


 月のない空の下を。

いつか月が見つかる日まで。


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