獣の村 8-2
ドームを出て東に向かった。
街道を外れると、すぐに風景が変わった。枯れた草原が広がり、所々に瓦礫が転がっている。空気が重い。大気の毒が肌を刺す。長居は禁物だ。
夢魘が上空を旋回して偵察する。暫くして降りてきた。
「見えたぜ。この先、丘の向こうに大きな廃墟がある。形が変だ。普通の建物じゃねぇ」
「どう変なの?」
「丸いんだ。建物自体が丸い。天井がドームみてぇな形をしてる。壁は半分崩れてるが、残ってる部分がやたら厚い。村のドームの膜とは全然違う、石と金属で出来た分厚い壁だ」
ドームのような形。村の膜とは違う、石と金属の壁。こんな建物は見たことがない。今の技術では作れない代物だ。
丘を越えると、その廃墟が見えた。
夢魘の言う通りだった。半球状の建物が、地面から突き出すようにして残っている。壁は石と金属の複合で、厚さが腕一本分はある。崩れた断面を見ると、層になっていた。外壁、隙間、内壁。二重構造だ。村のドームの膜が薄い布だとすれば、これは鎧のようなもの。同じ「外気から身を守る」という目的を、全く別の技術で達成している。こんなものを作れた人間が、なぜ今はいないのだろう。
建物の中は広かった。円形の空間に、太い柱が等間隔で並んでいる。壁の一面に金属の管が這い回り、天井には割れた透明な板がぶら下がっている。何かの施設だ。水の流れた跡がある管、空気の通り道のような溝。ここは人が暮らすための場所ではない。環境を制御するための装置だったのかもしれない。
「これは......村のドームと同じ目的の建物かもしれない。もっと古くて、もっと高度な」
「ドームの元祖ってことか。すげぇな、こんなもん作れたのに滅んだのか」
「滅んだからこそ、今のドームしか残っていないのよ」
床に足跡があった。巨大な四足獣の爪痕が、石の床面を抉っている。自警団長の言った通り――狼の足跡だ。だが、その大きさが異常だった。一つの爪痕が私の掌ほどある。
「ここにいるわね」
「ああ。匂いがする。獣の匂い。近い」
夢魘の目が鋭くなった。カラスの嗅覚は人間の比ではない。上空からの視覚と合わせて、この戦闘では夢魘の索敵能力が命綱になる。
刀に手を添える。鯉口を切り、呼吸を整えた。
静寂。風の音。遠くで金属が軋む音。それ以外は何も聞こえない。
見えない。何も見えない。だが、いる。
空気が震えている。何かが、この空間の中で呼吸をしている。
§
最初の一撃は、左から来た。
見えなかった。風が動いた、と思った次の瞬間には体が宙を舞っていた。腹に衝撃。崩れた金属管の残骸に叩きつけられ、管の端が背中に食い込む。肺から空気が抜ける。
速い。見えないだけではない。速い。これだけの巨体が、音もなく間合いを詰めてくる。
「闡釐!上!」
夢魘が叫んだ。反射的に転がった。一瞬前まで私がいた場所の石の床が、粉々に砕けた。何かが踏み砕いたのだ。何かの足が。巨大な、見えない足が。
立ち上がる。刀を抜く。構える。だが――何を斬ればいい。何も見えない。空気の中に敵がいるのに、私の目はそれを捉えられない。
「右斜め前、五歩!」
夢魘が上空から叫ぶ。五歩先を斬った。刀が空を切る――当たらない。
「速い!もう動いた!後ろ!」
振り向いた瞬間、頭上から圧力が落ちてきた。前足の一撃。咄嗟に刀で受けたが、そのまま床にめり込んだ。膝が砕けそうな重さ。腕が痺れる。
重い。信じられないほど重い。この魔物は巨大なだけではない。一撃一撃が、岩を叩きつけるような質量を持っている。
弾き返せない。受け流すしかない。刀を滑らせて力の方向を逸らし、横に飛ぶ。直後、床が陥没した。踏み砕かれている。
息を整えながら、ふと思った。
「夢魘、なんで貴方には位置が分かるの?見えないんでしょう?」
「見えねぇよ!でも分かるんだ!風が動く、床が震える、匂いが流れる......。何でかは知らねぇけど、全部が頭の中で繋がるんだよ!」
夢魘自身にも理屈が分からないらしい。ただ感覚が繋がる。視覚で捉えられないものを、それ以外の全ての感覚を統合して「見ている」。
普通のカラスに、そんなことが出来るだろうか。
だが今はそれを考えている場合ではない。こいつの感覚が頼りだ。理屈は後でいい。
「闡釐、こいつデカすぎる!体長は馬四頭分はあるぞ!」
馬四頭分。想像を超えている。見えない巨体が、この狭い廃墟の中を動いている。壁が揺れ、天井から壁材の欠片が降ってくる。建物自体が悲鳴を上げている。
考え方を変える。見えないなら、見えなくていい。足音を拾う。振動を感じる。空気の流れを読む。傭兵時代、夜襲で闇の中を戦ったことがある。あの時と同じだ。
目を閉じた。
床を伝わる振動。左前方。三歩。重心が沈んでいる――跳ぶ前の溜めだ。
踏み込んだ。居合いの速度で一閃。手応えがあった。刀が何かに触れた。硬い。毛皮の下に鋼のような筋肉がある。浅い。皮膚を撫でた程度だ。
「当たったぜ!でも浅い!こいつの皮膚、尋常じゃなく硬い!」
続けて二の太刀。同じ場所を狙う。傷口を抉れば深くなる。だが刀を振った先に、もう獣はいなかった。一撃を入れた瞬間に、体を引いている。痛みではなく判断で動いている。
「動いた!右に回り込んでる!柱の裏だ!」
柱に向かって走った。回り込む。居合いの構えから袈裟に斬り下ろす。
空振り。
三歩後ろから、風が割れた。背中に殺気。振り向く余裕がない。前に跳んで躱した。直後、私がいた場所の柱が根元から砕けた。太い金属の芯が入った柱を、一撃で。
戦慄した。あの打撃力が人間の体に当たれば、上半身と下半身が泣き別れる。
しかもこいつは、私が逃げる方向を読んでいた。柱の裏に来ると分かった上で先回りし、私が躱すことまで織り込んで柱を壊した。次の逃げ場を潰すために。
不可視で、巨大で、硬い。しかも賢い。
今まで戦った中で、最も手強い。
§
空気が動いた。
右からの横薙ぎ。尻尾か前足か分からない。避けきれず、左腕で受けた。骨が軋む音が耳の中で響いた。体が壁に叩きつけられ、壁が砕ける。壁に私の形の窪みが出来た。
痛い。左腕が動かない。折れているかもしれない。視界がぼやける。口の中に血の味が広がる。
「闡釐!!」
夢魘の悲鳴が遠い。
壁から体を剥がして立ち上がろうとした。膝が笑っている。力が入らない。右手に刀はまだ握っている。手放してはいない。それだけが救いだ。
見えない敵が近づいてくる。床が軋む。一歩、また一歩。振動が伝わってくる。巨大な獣が、ゆっくりと間合いを詰めている。
なぜ急がない。殺す気なら、今の私は殺せる。左腕は使えない。足も覚束ない。一撃で終わるはずだ。
なのに、急がない。観察しているのだ。こちらを。傷を負った獲物が、まだ立ち上がるかどうかを、見ている。
――この魔物、知性がある。
直感がそう告げた。ただ暴れる獣ではない。考えている。判断している。獲物の状態を見極めて、次の行動を選んでいる。
「闡釐、逃げろ!こいつは格が違う!」
夢魘が叫んでいる。正しい。逃げるべきだ。今の私にこれを倒す手段はない。見えない敵に、正面からの剣戟は通用しない。
だが。
リオの牙が、胸元で揺れている。
あの子は「殺して」と言った。叔父の仇を取ってくれと。努力して、と。
あの子の怒りを引き受けた以上、ここで逃げれば私は嘘つきになる。報酬を貰っていない以上、商売上の義務はない。でも、あの目を見た。あの怒りを見た。見てしまった以上、引き返せない。
立ち上がった。左腕は垂れ下がったまま。右手だけで刀を構える。
「逃げないわ」
「馬鹿か!!死ぬぞ!!」
「死ににくいのよ、私は」
言った瞬間、空気が変わった。獣の気配が膨れ上がる。今までとは違う。こいつは、今まで本気ではなかったのだ。獲物の力を測っていただけだ。測り終えた。
空気が裂ける音。頭上から闇が落ちてくるような圧。前足の叩きつけ。先ほどまでとは質が違う。殺すための一撃。
受けた。右手一本で。刀がきしみ、腕が悲鳴を上げる。膝が床を割った。
受けきれない。力が足りない。刀が弾かれ、体が崩れる。
二撃目。横からの薙ぎ。避ける余裕はなかった。体が吹き飛ぶ。今度は崩れた壁の穴に背中から突っ込んだ。砕けた壁材の欠片が肌に食い込む。建物の外に投げ出された。
地面に叩きつけられる。砂利が頬に当たる。空が見えた。薄い雲が流れている。綺麗だな、と思った。
意識が薄れていく。体中が痛い。左腕は完全に動かない。右手の感覚も怪しい。刀は......まだ握っている。
国光が微かに光った気がした。
気のせいかもしれない。だが、体が少しだけ温かくなった。
左腕に鈍い痛みが走り、次第に引いていく。折れていたはずの腕が動いた。完全ではないが、刀を支える程度にはなる。
背中の壁材の欠片が、肉に押し出されるようにして落ちた。裂傷がじわりと閉じていく。
全身の打撲は治っていない。体のあちこちが痛む。立ち上がるのが辛い。でも、致命傷だけは塞がった。いつものことだ。理由は分からない。
「闡釐!!起きろ!!闡釐!!」
夢魘が顔の前に降りてきて、嘴で頬を突いている。痛い。やめて。でも、ありがたい。
「......大丈夫。まだ死んでない」
「大丈夫じゃねぇだろ!見ろ、あいつ出てくるぞ!」
廃墟の中から、床が軋む音が聞こえる。見えない獣が、ゆっくりとこちらに向かってきている。まだ終わっていない。こちらを殺すつもりだ。
体を起こそうとしたが、腕が言うことを聞かない。さっきの温もりはもう消えている。
初めてだ。こんなに圧倒的に負けたのは。りょうとの殺し合いは互角だった。廃墟の魔物は強かったが、倒せた。でもこいつは次元が違う。見えない、硬い、速い、強い。しかも知性がある。
正面からでは、勝てない。
認めたくないが、認めないと死ぬ。
「夢魘」
「なんだ!」
「......作戦を変えるわ。貴方の力が必要よ」
夢魘が一瞬黙った。それから、力強く頷いた。
「最初から言えよ、この馬鹿」
馬鹿と言いながら、その声は震えていなかった。覚悟を決めた声だ。
私も覚悟を決める。一人では勝てない。でも、二人なら――いや、一人と一羽なら。
廃墟の入口から、空気が歪んだ。見えない獣が、こちらを見ている。まだ急がない。仕留めるタイミングを計っている。
こいつは賢い。だからこそ、策が通じる可能性がある。
あと少し。あと少しだけ時間があれば、体が動く。致命傷は塞がった分だけ、動ける。
夢魘が空に舞い上がった。黒い翼が、曇り空に溶けていく。
胸元でリオの牙が揺れている。冷たくて、硬くて、獣の匂いがする。叔父の仇を取ってくれと言った十歳の子供の、小さな怒り。
その重さを、今だけは支えにする。
一人と一羽の戦いは、まだ始まったばかりだ。




