廃墟の声5-2
廃墟の奥に進むにつれて、空気が変わった。
湿り気が増し、温度が下がっている。光が届かない領域に入りつつある。壁の隙間から細く差し込む日光だけが頼りだ。
「闡釐、止まれ」
夢魘の声が鋭くなった。肩の上の爪が食い込む。
「前方、二十歩先。何かいる。動きが遅い。でかい」
暗闇の中に、影が動いた。
魔物だ。四足歩行で、背中に棘のような突起が並んでいる。体長は馬ほど。涎が床に垂れ、ジュウッと音を立てた。石が泡を吹いて溶けている。酸性の体液。面倒な相手だ。
「首の裏に棘がねぇ。あそこだけ乾いてる」
それだけで十分だった。
魔物が酸を吐いた。緑色の液体が弧を描く。私は横ではなく前に踏み込んだ。酸は私がいた場所を通り過ぎ、壁を溶かす。その間に壁を蹴り、梁を足場にして頭上を取った。魔物が見上げる。遅い。体が大きすぎて首が回りきらない。
落下しながらの一太刀。首の裏、棘のない一点に刃を叩き込んだ。深い。骨に当たる感触が腕を伝う。魔物が崩れ落ちる前に跳び退き、着地した時には既に鞘に刀を戻していた。
魔物は数度痙攣した後、動かなくなった。酸を一滴も浴びていない。
「......お前さ、怖くねぇの?」
夢魘が降りてきて、呆れたような声を出した。
「怖いわよ。でも怖がってる間に食べられたら意味がないでしょう」
嘘だ。怖くはなかった。こういう戦いは体に染み付いている。八歳の頃から刀を振ってきた手は、頭より先に動く。考える前に終わっている。それが良いことなのか悪いことなのか、もう分からない。
§
魔物を倒した部屋の奥に、さらに通路があった。
本来なら引き返すべきだ。魔物がいた以上、奥にもいるかもしれない。でも、通路の先から風が流れてきている。外に繋がっている可能性がある。だったら突っ切った方が早い。
通路を進むと、突き当たりに小さな部屋があった。
壁の一面に、金属の箱が並んでいる。引き出しのような形で、ほとんどは錆びて開かない。しかし一つだけ、少し引き出せるものがあった。
中に入っていたのは、掌に乗るほどの小さな金属片だった。あの探検家夫婦と見つけたものに似ている。表面に細かな刻印が並んでいるが、錆と傷で潰れていて読めない。
もう一つ、その下に長方形の金属片があった。表面に模様と記号が刻まれている。あの曲線的な文字の仲間だ。
「何それ?」
「分からないわ。レナータへの土産にはなるでしょう」
懐に入れた。
部屋の反対側に、出口があった。光が差し込んでいる。やはり外に繋がっていた。
§
出口を抜けると、廃墟の裏手に出た。
瓦礫が散らばる空き地に、午後の光が降り注いでいる。目が眩んで、しばらく立ち止まった。暗闇に慣れた目が、急な明るさに抗議している。
視界が戻った時、最初に見えたのは――猫だった。
瓦礫の上に座っている。灰色の毛並みで、体は普通の猫より一回り大きい。金色の目がこちらをまっすぐに見ていた。
猫自体は珍しくない。ドームの外にも野生の猫はいる。ただ、この猫は逃げなかった。人間を前にして、微動だにしない。
目が合った。数秒。猫は私を見て、それから夢魘を見た。
その時だ。
短い、低い声が聞こえた。言葉だった。意味は聞き取れなかったが、確かに言葉だった。
周囲に人はいない。
声の出処は、猫だった。
心臓が跳ねた。刀に手を伸ばした。夢魘と、同じだ。
猫は一瞬だけこちらを見た。それから踵を返し、瓦礫の向こうに消えた。音もなく。
一瞬の出来事だった。追いかける暇もなかった。
「......今の、聞こえたか?」
声が震えていた。私ではない。夢魘だ。
肩の上の爪が、さっきの戦闘の時より強く食い込んでいる。
「聞こえたわ。猫が喋った」
「......俺だけじゃねぇのか」
夢魘の声は低く、掠れていた。驚き、ではない。もっと深い何か。衝撃と、困惑と、そして――自分の中の何かが軋んだ音。
「夢魘?」
「......いや、何でもねぇ。行こう」
夢魘はそう言ったが、しばらく猫が消えた方向を見つめていた。肩の上の爪が緩まない。
§
廃墟を離れ、街道に戻った。
しばらく無言で歩いた。馬の蹄の音だけが、乾いた空気の中に響いている。
沈黙を破ったのは、夢魘だった。
「なぁ、闡釐」
「何?」
「俺がなんで人の言葉を喋れるのか、お前は聞かねぇよな」
「聞いても答えられないでしょう?」
「......まあな。俺にも分かんねぇ」
短い答え。それ以上は言わなかった。でも、いつもならすぐに冗談で繋ぐこいつが黙っている。それだけで十分だった。
「でもよ、他のカラスは喋れねぇ。猫は喋れた。なんで俺と猫だけなんだ?偶然か?それとも......」
言葉が途切れた。
沈黙が続いた。夢魘が何かを掴もうとして、指がすり抜けている。あの祠の前と同じ顔だ。
「......分かんねぇ」
「忘れ物?」
夢魘が振り向いた。
「......ああ。なんでお前にそれが分かる?」
「前に祠の前で同じことを言っていたから。この世界にいて何かがしっくりこない、忘れ物をしているみたい、って」
夢魘は暫く黙った。それから、少しだけ笑った。寂しそうな笑みだった。
「お前、よく覚えてるな」
「商人は人の言葉を覚えるのが仕事よ」
「......ありがとな」
覚えているだけだ。でも、それが夢魘にとっては意味のあることらしい。
§
夕暮れの中、次の村に向かう道を進んでいる。
馬の首筋を撫でた。この子は廃墟の匂いを嫌がって鼻を鳴らしている。死んだ場所の匂いが、まだ私たちの服に染みついているのだろう。
「闡釐」
「何?」
「今日の廃墟、面白かったな」
「面白かった?あなた、猫を見てからずっと暗い顔してたでしょう」
「暗い顔はしてねぇよ。カラスの顔は元から暗いんだ。黒いからな」
......くだらない。でも、少しだけ笑ってしまった。
「でもよ、あの廃墟には確かに何かがあった。俺たちがまだ知らない何かが。あの看板も、旗も、文字も。全部叫んでんだよ。俺はここにいたんだぞ、って」
廃墟の声。死んだ文明の、最後の叫び。
星が一つずつ灯り始めた空の下、私は手綱を握り直した。
明日はまた、知らない場所に行く。知らないものを見て、知らない声を聞く。
それが旅だ。少し前までは、退屈な繰り返しだと思っていた。今は少しだけ違う。
隣に、一羽の悪夢がいるから。




