第7話
来客――穀物の流通に関する契約の交渉で相手はフォルテシエラ領に出入りしている商人だった。五十がらみの男で愛想のいい笑顔を貼り付けているが額にうっすら汗をかいている。
お嬢様が契約書を読みこむ。しなやかなその指が紙の上を滑っていくが、表情は変わらない。
「お言葉ですが、この条項ですと流通の遅延についての責任が全て当家の負担になります」
穏やかな声だった。穏やかなのだが有無を言わさない何かがある。商人の笑顔が少しだけ固くなった。
「いえ、フォルテシエラ令嬢。これは一般的な——」
「一般的かどうかは存じません。当家にとって不利であることは確かです」
お嬢様の声が少しだけ低くなった。商人の瞬きが増えている。右手が契約書の端を何度も触っている。
「仮にこの条件を受け入れるとすれば、遅延の上限日数と違約金の上限額を明記していただく必要がございます。それがなければ当家は青天井のリスクを負うことになりますので」
商人が何か言いかけたがお嬢様が契約書の別の箇所を指した。
「こちらも。納品検査の基準が曖昧です。『双方合意のもと』とございますが、合意に至らなかった場合の処理が書かれておりません」
商人の額の汗が増えた。お嬢様は穏やかに微笑んでいるが目が笑っていない。交渉の中身は正直よくわからないが相手が押されているのはわかった。
「貴殿がこの二点にご納得いただけないのであれば、今回のお話は見送りとさせていただきます」
商人が折れた。条件を修正して再提出すると言って頭を下げる。お嬢様が「お待ちしております」と柔らかく答えた。
壁際に立っているネリーナさんの表情は動かなかった。
*
来客を見送った後、廊下をお嬢様と二人で歩く。ネリーナさんは書庫に用があると言って別の方に行った。
「ハンス」
「はい」
「さっきの人、何回瞬きした?」
お嬢様が首を少し傾げてこちらを見ている。穏やかな声だった。
頭の中に商談の光景が浮かぶ。応接室の椅子に座った商人の顔。瞬き。一回、二回、三回——映像を再生するようにして数えていく。
「……十七回です」
「そう」
短かった。お嬢様が前を向いて歩き始める。
「嘘をつく人は瞬きが増える。覚えておきなさい」
ただなぜそんなことを聞いたのか。商談の相手が嘘をついていたかどうかを知りたかったのだろうか。だとしたらお嬢様は商談中に相手の嘘を見抜いていてハンスの記憶で確認しただけということになる。
お嬢様は時々わからない。
お嬢様の横顔が見えた。銀の髪が廊下の窓からの光を受けて揺れている。穏やかな顔をしている。さっきの商談の鋭さが嘘のように穏やかな顔。
その顔に泣いている顔が重なった。涙で歪んだ目と震える唇。帰還の日の廊下で見たお嬢様の顔が今のお嬢様の顔に重なって離れない。
「……ハンス?」
「はい。何でもありません」
お嬢様がこちらを見ていた。目が少しだけ細くなっている。何かを探るような目だったがすぐに前を向いた。
*
「あ、ハンスさん! 商談終わりですかー?」
「はい。お嬢様は書斎に」
「おつかれさまです!」
デイジーさんが並んで歩き始めた。軽い足音が隣で鳴っている。
「ハンスさんって少佐なんですよねー」
「臨時の、ですが」
「でも少佐で、侯爵家の護衛で、背も高いし、顔も悪くないのに——なんで相手いないんですかー? もったいないですよー」
真面目に考えた。もったいないと言われても相手がいないものはいない。
「探している子がいるので」
「えー! どんな子ですかー?」
「栗毛で、紫の瞳で……昔会った子です」
「へー、ロマンチックですねー。見つかるといいですね!」
デイジーさんが笑って手を振って厨房の方に駆けていった。
*
自室の天井を見ている。左端の大きな染みと右寄りの細長い染みと窓の近くに三つ並んだ小さい染み。朝も見た。今また見ている。
眠れない。体は疲れている。傷もまだ少し痛む。だが頭が静かにならない。
砲声が蘇るわけではない。塹壕の悲鳴が聞こえるわけでもない。
お嬢様の泣いている顔が浮かぶ。
何度消しても浮かんでくる。涙で歪んだ目、震える唇、崩れた表情。あの廊下で見た顔。こんな顔をさせた。
泣いている顔を見ていると頭の奥で何かが動く。この顔を知っている。この泣き方を知っている。映像記憶がどこかの記録と照合しかけているのがわかる。だが像を結ぶ前に消えた。何と重なりかけたのか手を伸ばした瞬間にもう掴めなかった。
胸が重い。
あの顔をさせた罪悪感なのか何かを思い出せないもどかしさなのかそれとも別の何かなのか。わからない。名前がつかない。ただ胸のあたりに何かが沈んでいてそれが重い。
天井の染みを見ている。眠れない。胸が重い。
名前のつかない重さが静かに積もっていく。




