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第6話

 天井の染みに見覚えがある。左端の大きいのと右寄りの細長いのと、窓の近くに三つ並んだ小さいの。五年間ずっと同じ天井を見て起きてきた。

 体を起こす。腕の傷がまだ引き攣るが昨日よりはましだった。身支度をして従者の制服に袖を通してベルトを締める。鏡に映った自分の顔が妙に間が抜けて見えた。戦場にいた頃はこんな顔をしていなかったような気がするがたぶんこれが普段の自分の顔だ。


 廊下に出ると絨毯の厚みが足の裏に伝わってくる。塹壕の泥の感触がまだどこかに残っていてこの柔らかさが少しだけ不思議だった。

 使用人とすれ違うたびに挨拶をする。おはようございます。昨日の帰還の余韻がまだあるのか皆が少しだけ長く目を合わせてくる。笑顔で返した。


 お嬢様の部屋の扉の前でノックをしようとして、しなかった。手が扉を押していた。なぜノックを忘れたのかわからない。ぼんやりしていたとしか言いようがない。


 ネリーナさんがドレスの背中の紐を結んでいるところだった。お嬢様の肩が露出している。銀の髪が片方に流されて首筋から肩甲骨にかけてのラインが見えている。朝の光が窓から差して肌の上に薄い影を落としている。鎖骨の角度、肩甲骨の位置、髪が光を反射する角度。目が全部拾っている。見ようとしているわけではないのに目に入ったものを頭が勝手に記録していく。


 化粧台の上に短剣が置いてあった。緩やかに湾曲した刀身で金細工の鞘に紫の宝石が嵌め込まれた柄がついている。出征前にはなかった。着替えの途中でも手の届く場所に置いてある。護身用だろうか。


「ノックというモノを、ご存知ですか? 少佐殿」


 ネリーナさんの声が廊下の温度を五度ほど下げた。青い瞳がこちらを射抜いている。


「も、申し訳ありません——」


 慌てて一礼した。角度が深すぎて前に倒れそうになる。


「……おはよう、ハンス」


 お嬢様の声がして振り返ってしまった。振り返ってはいけないのだが声のする方を向いてしまった。お嬢様が少しだけ横を向いている。目がこちらを見ていない。


「廊下で待っていなさい。すぐに支度を終えるから」


 扉が閉まった。心臓が跳ねている。なぜ跳ねているのかよくわからないがとにかくまずかった。ネリーナさんの説教が後で来る。


「あ、ハンスさん!」


 軽い足音が廊下の向こうから近づいてくる。蜂蜜色の髪が跳ねている。


「おはようございます、デイジーさん」


「おはようございます! あれ、ハンスさん顔赤くないですか? もしかしてまた着替え——」


「……はい」


「あちゃー」


 困った顔をしたがすぐに笑った。昨日泣いていた子と同じ子だとは思えないくらい元気だった。


「じゃあ私でよければいくらでもみせてあげますよぉ?」


 胸を張った。物理的に。


「ありがとうございます。では、遠慮なく」


「えっ」


「黙りなさい」


 ネリーナさんの声が扉の向こうから響いた。壁越しでも氷点下だった。


「この人に冗談は通じないんだから、からかわないの」


「からかってないですー!」


「戦場ボケがひどい少佐殿ですもの。何を言っても無駄よ」


 デイジーさんが膨れた。本当にからかっていなかったのだろう。この人はいつも善意しかない。



    *



 三歩後ろを歩く。ネリーナさんがお嬢様の隣にいてデイジーさんがその後ろにいる。いつもの配置だった。五年間ずっと同じ配置で歩いてきた廊下を今日も同じように歩いている。窓の外で庭師が枝を切る音がして体が一瞬固まった。鋏の音が金属の打ち合う音に聞こえた。すぐに違うとわかったがまだ足の裏が塹壕の泥を探している。


 朝食の間でお嬢様が紅茶を飲んでいる。ネリーナさんが注いでデイジーさんがパンと果物を運んでくる。ハンスは壁際に立っている。いつもの朝だった。カップがソーサーに触れる音が静かすぎて耳が変な感じがする。ここ数日ずっと砲声と怒号の中にいたから、この静けさにまだ体が馴染んでいない。


 お嬢様がいつも通りに微笑んでいる。声のトーンが普段より微かに高いような気がしたが気のせいだろう。紅茶のカップを持つ指がいつもより少し硬いような気がしたがそれも気のせいだろう。昨日あれだけ泣いたのだから気持ちの整理はついたのだろう。


「ネリーナ、いいのよ。私は気にしてないから」


 何を気にしていないのかはわからなかったがお嬢様がそう仰るなら気にしていないのだろう。ネリーナさんが小さく溜息をついた。


「お嬢様、最近よく笑いますね!」


 デイジーさんが明るく言った。お嬢様の手がカップの上で一瞬止まった。ネリーナさんが目を伏せた。デイジーさんだけが首を傾げている。


「……ええ。いい朝だから」


 お嬢様はそう言って窓の外を見た。ハンスからは横顔しか見えなかった。



    *



 午後、庭園の東屋で茶会の準備をする。デイジーさんがテーブルの配置を指示してくれる。丸テーブルを一脚運び込んで椅子を四脚。テーブルクロスは白の刺繍入り。


「えっと、カップはこの棚の——」


「白地に藍の細い線が三本入ったものですね。六脚あります。取っ手に欠けがあるのが一つ、右側の付け根に」


「……ハンスさん、いつ見たんですか」


「先週——いえ、出征前ですね。食器棚の整理を手伝ったときに」


「取っ手の欠けまで覚えてるんですかー?」


「見えていたので」


 デイジーさんが不思議そうな顔でこちらを見ている。見えたものが頭に残っているだけのことなのだがどうやら普通はそうではないらしい。


「じゃあじゃあ、ソーサーの配置は? カップから何センチとか決まってるんですけど」


「カップの右下にソーサー。間隔は指二本分。ティーポットは中央やや奥。砂糖壺はポットの右。ミルク入れは砂糖壺の隣。ナプキンはカップの左に三角に折って——」


「一回しか言ってないですよー? というか言ってないですよー?」


「以前デイジーさんが準備しているのを見ていたので」


「全部覚えてるんですかー? すごいすごーい!」


 デイジーさんが手を叩いて喜んでいる。人の能力を素直にすごいと言える人だ。

 テーブルの準備を二人で進める。ハンスが食器を配置していくとデイジーさんが一つずつ確認して全部合っていることに驚いてまた手を叩く。


 ふとお嬢様の泣いている顔が浮かんだ。涙で歪んだ目と震える唇。頭の中に入ってきて動かなくなったあの顔。

 ティーポットを置く手が一瞬止まった。


「ハンスさん? どうかしました?」


「いえ。何でもありません」


 ティーポットを中央やや奥に置いた。指二本分の間隔。正確だった。

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