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第5話

 天幕の中で目を覚ました。薄い布越しに光が差していて外で人が歩く音がする。体を起こそうとしたら全身が軋んで腕の傷が引き攣れた。包帯が巻かれている。

 最後の記憶は朝の青い空で、その前が「すみません」で、その前は辺境伯隊の陣地まで歩いたことだけがぼんやりと残っている。


「起きたか」


 天幕の入口にサリーが立っていた。左腕の包帯が新しくなっている。


「すみません、ご迷惑を」


「三日寝てた。飯食え」


 粥を持ってきてくれた。食べながら経緯を聞く。陣地に着いた直後に倒れたこと、辺境伯の軍医が手当てをしたこと、部隊の兵は負傷者を含めて全員が後方に移送されたこと。


「明日、隊ごと帰還する。お前はまだ寝てろと軍医が言ってたが」


「歩けます」


「知ってる。言っても聞かねぇだろ」



    *



 五百二十三名がそれぞれの所属に戻っていく。御厨侯の兵は御厨侯のもとへ、徴募された義勇兵は故郷へ。一人ずつ名前を呼んで見送った。呼べる名前と、もう呼べない名前と。


 侯爵領に帰るのはフォルテシエラの兵だけだった。百五十名のうちの生き残りで、数えたら六十八名。半分以上が負傷している。荷車に乗せられる者は荷車に乗せて、歩ける者は歩く。

 街道を西に向かう。風景が変わっていく。前線の荒れた野原が遠ざかって街道の両脇に畑が見え始める。壊されていない家が建っていて洗濯物が干してある。子供の声が聞こえる。戦場と同じ空の下に壊れていない世界が広がっている。

 見知った土地に入ったのは二日目の午後で、街道の向こうに侯爵領の丘陵地が見えたとき後ろを歩いていた兵が声を上げた。帰ってきた、と誰かが言った。


 門衛の詰所が見えてきたあたりでサリーが列を止めた。


「並べ。列を整えろ」


 六十八名がボロボロの体で列を作る。包帯の巻かれた腕、杖をついた足、泥と血の跡が残った軍服。それでも列を作った。


「歩調が合わねぇ。歌え」


 歌が始まった。行進曲だった。声が揃うまで少しかかったが揃い始めると足が揃う。負傷して片足を引きずっている兵も歌に合わせて歩調を取り始める。歩調がバラバラだった列が一つの隊になる。

 六十八名がボロボロの姿で歌いながら整然と歩いてくる。門衛が出てきて立ち止まった。街道沿いの家から人が出てきた。歌が聞こえたのだろう。見ている人の顔がハンスの目に入ったが何の表情かわからなかった。

 サリーは前を向いて歩いている。歩調を整えるために歌わせただけだ。凱旋の意図はない。負傷兵が多くて歩調が合わないから歌で揃えた。それだけのことだった。


 軍司令部で帰還報告を済ませた。報告して受理されてそれで終わりだった。周囲の目が奇妙だったが死んだと聞いていた兵が歌いながら歩いて帰ってきたのだから無理もない。



    *



 見慣れた並木道を歩いて石畳の道を抜けると侯爵邸の門が見えてくる。出立の朝、ここでお嬢様に頭を下げた。朝靄の中で何か言おうとして結局何も言えなかったあの門を、今くぐろうとしている。


 門を入ったところで庭師のヘルマンと目が合った。水遣りの桶を持ったまま固まっている。幽霊でも見たような顔だった。


「ただいま戻りました」


「……シルテンさん。あんた、生きて」


「はい。ご心配をおかけしました」


 ヘルマンの目が赤くなった。桶を置いて何か言おうとしたが言葉にならなかったらしく何度も頷いて背を向けた。

 屋敷の中に入ると厨房の方から足音がして料理番のマルタが廊下に出てきた。ハンスの顔を見た瞬間に両手で口を押さえてその場にしゃがみ込む。馬丁のフランツが駆け寄ってきてハンスの手を握って離さなかった。

 一人ずつ挨拶をして回る。ただいま戻りました、と何度も言った。泣く人がいて、固まる人がいて、何も言わずにただ頭を下げる人がいた。五年間この屋敷で暮らしてきた。この人たちの顔を毎朝見て毎晩見て名前を覚えて好物を覚えて体の具合を気にかけてそうして過ごしてきた。

 戦死の報がこの屋敷にも届いていたのだとこのときようやくわかった。



    *



 広間で侯爵に帰還の報告をする。ハンス・シルテン、帰還いたしました。自分の口から丁寧な言葉が出てくるのが少し不思議で戦場で出していた声とまるで違うのだがこれが自分の声だ。侯爵が労いの言葉をかけてくれた。


 お嬢様が侯爵の隣に立っている。銀の髪が肩にかかって背筋が真っ直ぐに伸びていていつも通りの完璧な微笑みを浮かべている。

 ただ指が裾を握っているのが見えた。関節が白くなるほど強く。目元の筋肉がわずかに引き攣って唇の端がかすかに震えている。

 帰還の報告を続けた。部隊は解散いたしました。負傷兵は——


 ネリーナさんはいつも通りの姿勢でお嬢様の後ろに控えている。何も変わらない。デイジーさんの目が赤い。唇を噛んで我慢しているのが見えるが場をわきまえて声にはしていない。


「おかえりなさい、ハンス」


 お嬢様の声は揺れていなかった。



    *



 窓から差す午後の光が石の床に模様を落としている廊下を歩く。五年間毎日歩いた廊下で何も変わっていない。変わっていないことがどうにも不思議だった。あの塹壕の泥と血と火薬の匂いが満ちていた場所と同じ世界に繋がっているとは思えない。

 石畳を直したところを通り過ぎた。出立の前にヘルマンに頼まれて据え直した石畳だ。ひとつも歪んでいなかった。


 後ろに足音がして振り返るとお嬢様がいた。ネリーナさんとデイジーさんが一緒にいる。さっきの微笑みはもうなかった。


 頬に衝撃が来た。

 何が起きたのかすぐにはわからなかった。お嬢様の右手が開いたまま上がっている。平手。小さな手で百九十を超える体に届くために腕を伸ばし切って少し跳んだのだろう。頬が赤くなるかもわからない程度の力だったが避けるという考えは浮かばなかった。


 お嬢様の顔が崩れていく。保っていたものが全部外れて目が潤んで唇が震えてそれから声が出た。お嬢様が声を上げて泣いているのをハンスは初めて見た。

 言葉にならない声の合間に断片が混じる。


「死んだと……報告が……」


 デイジーさんも泣いていた。両手で顔を覆って声を上げている。お嬢様の泣き方とは違う。よかった、帰ってきた、という安堵がそのまま溢れている声だった。


「ハンスさん……よかった……」


 ネリーナさんは泣いていない。お嬢様の横に立って無表情でお嬢様の背中を見ている。その顔に何があるのかハンスにはわからなかった。


 口が開かない。言葉を探しているのに何も見つからない。戦場では指示が出て判断が出て声が出た。だがここでは何も出てこない。泣いているお嬢様の前で自分の口から出てくるべき言葉が何一つ見つからない。


 廊下に泣き声だけが響いていた。窓の外から庭の鳥の声が聞こえる。午後の光が少しだけ傾いて床の模様が動いている。

 お嬢様が泣いている。デイジーさんが泣いている。ネリーナさんが黙っている。ハンスは立っている。それだけの時間が過ぎていく。


 やがてお嬢様の声が小さくなっていった。嗚咽が細くなって呼吸の音に変わっていく。デイジーさんがまだ少し鼻をすすっている。ネリーナさんがお嬢様の肩に手を置いた。何も言わずただ手を置いた。


 お嬢様が顔を上げた。

 涙で歪んだ目と震える唇と崩れた表情の全部が頭の中に入ってきて動かなくなった。こんな顔をさせた。戦死の報を受けてこの人にこんな顔をさせた。

 消えないだろうと思った。見たものは消えない。

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