第3話
西の空に赤い線が残っていたのも束の間で、闇が東から押し寄せてきて塹壕の中を呑み込んでいく。松明をいくつか灯したが照らせる範囲は足元がせいぜいで、林の向こうは何も見えない。
音だけになった。銃声の方向と間隔。足音。枝を踏む音。怒号が上がってすぐ途切れる。どこからが敵でどこまでが味方なのか、目では判らない。
七度目の波が来た。
もう散兵線ではなかった。闇の中から足音がまとまって近づいてきて、松明の光の端に人影が揺れた瞬間に銃声が弾ける。至近距離だった。塹壕の縁に取りつかれてそのまま白兵になった。
サリーが左翼で怒鳴っている。
「左、押されてる。オレが抑える。正面は任せたぞ」
ハンスは正面の塹壕線にいた。暗がりの中を目で追うが闇が濃すぎて人影の動きを捉えられない。数も配置もわからない。昼間なら全部見えていたものが見えない。
だが音はわかる。足音の密度。銃声の間隔。怒号の位置と移動。それを頭の中で繋げていく。教科書にある陣地防御の図と、耳が拾った情報を重ねる。見えなくても聞こえれば繋がる。
「正面、第二中隊は塹壕から出るな。銃声の方向だけ撃て。照準はいらない。音に向けて撃て」
銃声が暗がりの中で不規則に鳴る。当たったかどうかはわからない。だが前進の足音が鈍って、やがて止んだ。
八度目の波はさらに深く食い込んできた。塹壕線の左端を突破されて第一中隊の一角が崩れかけ、サリーが予備の兵を投げ込んで押し返したが、その間に右翼の塹壕を一本失う。
九度目は正面と左翼の同時攻撃で兵が足りない。塹壕線を維持するには幅が広すぎて、端を捨てて中央に兵を集めるしかなかった。
波が来るたびに塹壕線が縮んでいく。押されて一つ捨て、粘ってまた一つ捨てる。各段階で動ける兵を渡河点に送り、残った者だけで次の線を守る。人数は六百を割っていた。
闇の中で声が途切れた。さっきまで左翼で撃っていた兵の声が聞こえない。名前が浮かぶ。マティアス・ブルーナー。御厨侯の第三中隊にいた二等兵で、二十歳。遺書の宛先は母親だった。
止まれない。止まったら全員死ぬ。
十度目の波を退けたとき、砲撃が止んでいることに気がついた。夜になってから砲撃が減っている。闇の中では味方にも当たるからだろう。その代わり歩兵の圧力が増して波の間隔が短くなっている。渡河点を取りに来ている。
*
本陣の塹壕線、もう後ろがない。ここから渡河点まで走って四半刻。人数は六百を切っている。
サリーが泥だらけの顔で戻ってきた。左腕を布で巻いている。斬られたか掠ったかしたらしい。
「左翼は保ったが、あと二回来たら終わりだ」
ハンスは黙って前方を見ていた。闇の中に敵の松明の光がいくつか揺れている。集まっている。次の波の準備に入っている。
このまま全員で粘っても夜が明ける前に潰される。五百では塹壕線を維持できない。退いても追撃される。渡河中に背を撃たれたらもっと死ぬ。手は一つしかない。
「サリー中尉。決死隊を出します。五十名で追撃部隊に突っ込んで混乱させる。その間に全員を渡河させてください」
「誰が率いる」
「俺が行きます」
「……」
「レイ・サリー中尉。次席指揮官として指揮権を委譲する。残存部隊を率い渡河撤退せよ。復唱」
サリーが動きを止めた。
泥だらけの顔でハンスを見ている。左腕を押さえたまま暗がりの中に立っている。松明の明かりが顔の半分だけを照らしている。
止めなかった。止めたらこの五百人が全員死ぬことをわかっている男だ。
「レイ・サリー中尉。指揮権を引き継ぎ、残存部隊を率い渡河撤退します」
軍の手続き通りの復唱だった。
だがそのあとに声が変わった。いつもの荒っぽい声ではない。二十年の戦場で身につけた声が全部消えていた。
「預かります」
「六十時間が過ぎたら退いてください」
「ああ」
「兵の名前は——」
「覚えてる。お前が一人ずつ呼んで編成したんだ。オレも覚えた」
サリーは振り返って兵を渡河点に向けて動かし始めた。五年前より白いものが増えた頭が、闇の中に消えていく。
*
志願を募る。名前の通りの決死隊、五十名ほどは必要だ。追撃部隊に夜襲をかけて混乱させる。帰れる保証はない。
リボルバーのシリンダーを確認する。六発。換えのシリンダーが三つで合わせて二十四発。サーベルを抜いて刃を確かめる。重いが振りやすい。
暗がりの中で隊を整えて声を落として指示を出す。二列縦隊で先頭がハンスで、松明は持たない。音を立てずに近づいて合図で一斉に突入する。敵を崩して時間を稼げればいい。
闇の中を進む。足元の草を踏む音だけが聞こえる。風が止んでいて星が出ていたが月はない。
百歩先で追撃部隊が集結している。焚き火のそばで座り込んでいる兵が見える。敵も疲れている。一日中攻め続けてあちらも限界に近いのだろう。だがまだ数がある。
五十歩で松明の光の中に入った。
「突撃!」
決死隊全員の絶叫が止まらなかった。走りながらリボルバーを構えて撃つ。一発。二発。三発。闇の中で銃口が火を噴くたびに人影が崩れる。四発。五発。六発。単発銃の世界で六発が立て続けに鳴った。
走りながらピンを抜いた。空のシリンダーを前に引き抜いて腰の袋に落とし、装填済みのシリンダーを押し込んでピンを戻す。サリーに叩き込まれた手順が指に染みついている。三度やって見せて二度目で覚えた、あの手順だ。また六発。換えてまた六発。シリンダーの換えがなくなるまで撃ち切った。
大きな男が大きな刃物を振り回して闇の中から現れる。それがどう見えるかは考えない。考える余裕がない。目の前に人がいる。振る。重い刃が肉を断つ感触が柄を伝ってくる。次。また振る。業物の刃は刃こぼれしない。サリーが大鉈みたいだと言った剣が大鉈のように振るわれていく。
決死隊の兵が後ろに続いている。ハンスが切り開いた穴に飛び込んで広げてさらに奥に押し込む。
追撃部隊が崩れ始めた。夜の陣地に突然連射が響いて巨体が斬り込んできたら、どれだけの規模の夜襲か判断できない。暗がりの中では五十三人も五百人も区別がつかない。松明が倒れて火が消え、闇が戻ってきて怒号と悲鳴だけになる。混乱が混乱を呼んで同士討ちが始まった。
止まらない。止まったら死ぬ。止まったら渡河中の五百人が死ぬ。
サーベルを振る。何人斬ったかわからない。振って、当たって、次。足元が滑る。何かを踏んだ。見ない。
後ろで声が途切れていく。銃声が減る。足音が減る。五十三人が減っていく。名前を知っている兵が一人ずつ消えていく。
どれだけ走ったかわからない。
気がつくと周囲に敵の気配が消えていた。銃声が遠い。追撃部隊が散り散りになって一箇所に固まれなくなっている。
決死隊の残りを数えた。暗がりの中で声をかけて、返事があったのは二十と少し。
息が上がっている。サーベルを地面に突き立てて両手で柄にすがる。膝が笑っている。手が震えている。寒さではない。リボルバーのグリップに泥と何かがこびりついている。
遠くで川の音がする。ハドニツァ川だ。渡河点の方角。サリーがあちら側に兵を渡している頃だろう。――全員無事に渡れただろうか。




