第2話
木々の隙間を縫うように低い姿勢で散兵が林の中から前進してくる。一人ずつばらばらに動いて、止まっては撃ち、撃っては走る。正規の散兵戦ではなかった。
「右翼、来るぞ」
サリーの声が飛んだ。ハンスには既に見えていた。右翼の林縁から回り込もうとしている一団が三十から四十。本命はこちらだ。正面の散兵は足を止めている。
「右翼に火力を集めろ。正面は牽制だけでいい」
兵が動いた。塹壕から銃身が突き出されて右翼に向けて一斉に火を吹くと、散兵が伏せた。一人が倒れ、二人目が転がるように後退して、残りは木の陰に散って動かなくなった。
正面の散兵も動きを止めていた。右翼の突破が止まったのを見て無理をしなくなったのだろう。
矢が飛んできた。塹壕の縁の矢盾に当たって弾かれたが、次の矢が頭上を越えて後方に落ちた。続けて石つぶてが飛んで、拳大の石が土壁の縁をかすめサリーの肩口を掠った。
「……兜があったほうがよかったな」
サリーが肩をさすりながら言った。甲冑を脱いで銃兵に切り替えたのはハンスの判断だった。身軽になった分だけ動きやすいが頭も肩もむき出しだ。
「すみません」
「謝んな。当たってねぇ」
散兵が引いていった。第一波。これで終わりではない。砲撃を挟んでまた来る。
波が引いた隙に弾薬を確認した。銃は足りている。問題は矢だった。荷車の中身を確かめると弾薬箱ばかりで矢筒がほとんどない。
「矢が少ない」
「渡河支援部隊の荷だからな。銃と工兵資材に偏ってんだ。弓兵はどうする」
「銃を配ります。弓兵にも撃たせてください」
「弓兵に銃を?」
「矢がないんですから、仕方ない」
サリーが一瞬だけ眉を上げたが何も言わずに弓兵を集めた。リボルバーではなく単発の小銃だ。装填の手順を叩き込んで塹壕の各所に散らした。
*
次の波今度は正面と右翼の同時攻撃で、散兵の密度が上がっている。先ほどより踏み込みが深い。
ハンスは正面を見ていた。散兵の動きの中にかたまりがある。三人、五人と固まって前進してくる連中がいた。
「正面、密度が上がってる。かたまりを狙え。銃を集中して撃て」
銃声が重なった。一斉にではなく塹壕の各所からばらばらに、だがほぼ同時に撃った。かたまりの中心にいた散兵が倒れた。魔力の防御壁を張っていたはずだった。単発なら弾かれる。だが複数の弾が同時に当たると壁が持たないらしい。
「……抜けた?」
「抜けました」
「銃を集めて撃ったら抜けるのか」
「みたいですね」
理由はわからない。だが抜けた。ならばそうすればいい。
「集まってるヤツを狙え。銃は一箇所に集中して撃て」
サリーが怒鳴った。兵が従った。次のかたまりに向かって銃声が集中してまた一人倒れると、散兵の前進が鈍った。
だが問題が出た。弓兵に持たせた銃の装填が遅い。弓の要領で構えようとするから手元がもたつく。撃ってから次の弾を込めるまでの間が空きすぎて、その隙に散兵が詰めてくる。
「装填が間に合ってねぇぞ」
サリーが舌打ちした。ハンスは弓兵たちの手元を見ていた。撃つのはできる。引き金を引くだけだ。遅いのは装填の方で、弾を込めて突き棒で押し込んで火薬を注して火蓋を起こす、その手順に慣れていない。
「弓兵は装填だけやってください。撃つのは銃兵がやります」
「あ?」
「銃を三丁ずつ組にします。銃兵一人に弓兵二人をつけて、弓兵が装填した銃を銃兵に渡す。銃兵は撃つだけ。撃ったら渡して、次の装填済みの銃を受け取って撃つ」
サリーが一瞬止まった。
「……休みなく撃てるってことか」
「装填を待たなくていいので」
サリーは何も言わずに走った。弓兵と銃兵を組ませて三人一組を作り、塹壕の各所に配った。
次の散兵の波が来たとき、塹壕から途切れない銃声が上がった。一人が撃つ。空の銃を脇に渡す。装填済みの銃を受け取る。撃つ。渡す。受け取る。撃つ。単発銃なのに射撃が止まらない。
散兵が足を止めた。正面のかたまりが崩れて後退し始めた。
*
三度目の波を押し返したところで砲撃が再開し、頭上を衝撃波が通り過ぎていく。土壁が振動して砂がぱらぱらと落ちる。塹壕の中にうずくまって、ただ過ぎるのを待った。
この部隊が粘れているのはおかしなことだった。御厨侯の隊が崩壊して流れ込んできた敗走兵と、ハンスの渡河支援中隊。所属も練度もばらばらの千百八十七名の寄せ集めが、三度の散兵戦を押し返している。
砲撃が始まるまでのことを思い出していた。
御厨侯の隊は辺境伯閣下の本隊から離れた位置で側面を守っていた。その側衛が崩壊した。魔法砲撃で横隊を潰されたと聞いたが直接は見ていない。距離があった。
側面が崩れた以上、本隊は渡河して退くしかない。辺境伯閣下の撤退は速かった。残されたのは渡河点のハンスの中隊と、側面から流れ込んできた御厨侯の敗走兵だった。上位の士官は戦死か負傷でいなくなっている。残ったのは下士官と兵だけで、中尉のハンスが周辺の最高位指揮官になった。サリーが「中尉殿の指示に従え」と怒鳴って敗走兵をまとめた。
名前を聞いた。一人ずつ、所属と階級と名前を。八百人を超える敗走兵の名前をハンスは全部覚えた。顔と名前と所属が頭の中に並んでいる。消えない。見たものは消えない。中隊と合わせて千百八十七名。大隊規模の寄せ集めになった。
辺境伯閣下からの伝令は短かった。ハンスの少佐昇進とサリーの中尉昇進。そして殿持久命令。六十時間。それを過ぎれば自由に退いてよい。
サリーが言った。
「敗残兵ばっかりでとても持ちそうにありません。若いのがかわいそうだ」
あの男にしては棘のない声だった。
ハンスは少し考えて言った。
「若い兵だけでも、逃がせませんか」
「脱走になります」
「伝令なら脱走にはなりません。本隊への連絡任務です。ついでに全員分の遺書も持たせれば、死んだときに補償の根拠になる」
サリーが黙った。
「遺書を書かせます。代筆ができる者を集めてください。字が書けない兵の分も書けるように。それから若い兵を伝令に出します。遺書を本隊に届ける任務で」
サリーはまだ黙っていた。ハンスの顔を見ていた。
「死兵は怖いって、教科書で読みました」
サリーの目が先ほどとは変わっていた。
「……全員分か」
「はい。千百八十七名分です」
「名前は」
「覚えています」
サリーは何も言わずに立ち上がって、代筆のできる下士官を集めに行った。
遺書は塹壕を掘る合間に書き終わった。若い兵を八名選んで伝令に出した。遺書の束を背負わせて渡河点の向こうの本隊に走らせた。八名とも泣いていた。逃がしてもらえると思わなかったのだろう。
残った兵は黙っていた。遺書を書いた。家族に届くと知った。それだけだった。それだけでこの寄せ集めは死兵になった。逃げる理由がなくなった。家族には届く。あとは戦って死ぬだけだ。
サリーが塹壕の土壁に背を預けてぽつりと言った。
「……イカれてやがる」
それが褒め言葉なのかどうか、ハンスにはわからなかった。
*
砲撃が止んで四度目の波――今度は規模が違った。散兵ではない。歩兵の横隊が林の向こうから姿を現して、二百は超えている。前進拠点の塹壕に取りついてきた。
「第一拠点、保てません」
兵の声が飛んだ。ハンスは迷わなかった。
「第一拠点を放棄。第二拠点まで後退。後退する兵の掩護は第三中隊」
前進拠点を一つ捨てた。兵を後退させて次の塹壕線に入れた。後退しながら撃ち、追いかけてくる歩兵の足が止まるまで撃って塹壕に飛び込んだ。
取り返しに出た。塹壕から飛び出して第一拠点を奪い返した。また押された。押し返されて再び失い、二度目の反撃は出なかった。弾が足りない。
「第一拠点は捨てます。第二線で持ちます」
サリーが頷く。
段階的後退、前進拠点を一つずつ捨てて本陣の塹壕線に近づいていく。各段階で後退できる兵は渡河点に送った。負傷兵を先に送り、次に疲弊した兵を送り、動ける者だけが残った。
人数が減っていく。千百八十七名が千を割り、九百を割った。死者と負傷者と渡河点に送った兵。残った者はまだ戦っている。
五度目の波を押し返したとき、ふいに声が聞こえた。声ではない。記憶だ。
——行ってらっしゃい。
お嬢様の声だった。門前で朝靄の中で手が震えていた。何かを言おうとして言えなくて、深く頭を下げただけだった。あのとき胸のあたりが妙に重かった。何かを言い忘れたような、よくわからない重さ。
——生きて帰りなさい。
ネリーナさんの声。
——お土産忘れないでくださいねー!
デイジーさんの声。あの人だけがいつも通りだった。
砲撃の音が記憶を断ち切った。
六度目の波。日が傾き始めていた。影が長くなって林の中が暗くなっていく。散兵の動きが見づらい。ハンスの目でも暗がりの中の人影を数えるのが難しくなってきた。
「日が暮れるぞ」
サリーが空を見上げてから前方を見た。
「夜になったらもっとやりづらい。敵もこっちも」
渡河点までの距離を見た。まだある。本陣の塹壕線から渡河点まで走って四半刻。暗がりの中でそれをやるのは賭けだった。人数は八百を割っている。
西の空が赤かった。赤い光が塹壕の土壁を染めて兵たちの顔に影を落としていた。泥と汗と血で汚れた顔が夕陽の中に並んでいる。
遺書を書いた顔だった。




