第1話
――地面が揺れた。
頭の上を衝撃波が抜けていく。空気が引き裂かれる音がして、続けて土の壁がばらばらと崩れた。泥の塊が肩に落ちたが払う暇はない。
「しかし、えらいことになったな少佐殿」
隣で背を土壁に預けたサリー中尉が、泥を手の甲で拭いながら言った。五年前より白いものが増えた頭を軽く叩いて土を落としている。
「さっきまで中尉だったんですが……ねぇ? 中尉」
「特進の前渡しだ。縁起でもネェ」
また地鳴りが来て轟音が落ちた。衝撃波が頭上を抜けて、今度は少し近い。塹壕の縁に積んだ矢盾が軋む。
少し離れた場所で、御厨侯の敗走兵たちが頭を抱えてうずくまっていた。砲撃のたびに体を丸くして目を固く閉じている。密集隊形のまま横合いから魔法砲撃を撃ち込まれ、隊が崩壊してここに流れ込んできた連中だ。
衝撃波が過ぎると、土の壁の向こうで何かが燃える匂いがした。矢盾の上から覗くと二十歩ほど先の地面が黒く焦げている。だが塹壕の中は無事だった。
敗走兵のひとりが恐る恐る目を開けた。自分の体を見下ろして、隣の仲間を見て、もう一度自分の体を見た。
「……あれ?」
死んでいない。穴の中にいるだけで、死んでいない。
ハンスには当たり前のことだった。土の壁が城壁の代わりになっている。衝撃波は壁に当たって、内側にいる人間の頭上を抜けていく。城壁の内側が安全なのと同じ理屈で、教科書にもそう書いてある。
「むやみやたらに撃ちやがって」
サリーが壁に背を預けたまま空を見上げた。
「本隊はとっくに川渡ってるっつーの。マヌケどもが」
辺境伯閣下の本隊はもう対岸にいる。ハドニツァ川を渡った。ハンスの部隊だけがこちら側に残っている。本隊が距離を稼ぐまでの殿だ。総員千百八十七名。御厨侯の敗走兵を吸収してこの数になった。
砲撃が止んだ。
急に静かになると耳が痛い。さっきまで轟音で埋まっていた空間に風の音と遠くの川の音が戻ってきて、どこかで誰かが咳をしていた。
「波だな。次が来るまで少し間がある」
サリーが首を鳴らした。砲撃の間隔を体で覚えている男だった。二十年の戦場がそうさせたのだろう。ハンスにはまだわからない。
「しかしまぁ、五年ぶりに会ったと思ったら穴の中だ」
「すみません」
「謝るトコロが違ぇよ。お前が着いたと思ったら地面に線引いて『掘りましょう』だ。何事かと思ったぞ」
「地形を城壁に見立てただけですから。上物を建てる暇がなかったので、壁だけ掘り出した形です」
「掘っただけ、ねぇ」
サリーは壁を手で叩いて乾いた音を立てた。
「まぁ、おかげで生きてるがな」
それきりその話はしなかった。サリーが黙ってハンスの腰に目を落とした。
「そのモン、見せろ」
ハンスはサーベルを抜いて差し出した。サリーが受け取って刀身を眺め、刃を爪で弾き、柄の重さを確かめた。
「……業物じゃねぇか。大鉈みてぇだ。お前が持つと佩剣が短刀に見えるからか?」
「重いですけど、振りやすいです」
「振りやすいじゃねぇよ。お前これがナンボするかわかってんのか」
「すみません。いただきものなので」
サリーがサーベルを返しながら腰のリボルバーを顎でしゃくった。
「そっちもか」
「はい。支給品の補充だと聞きました」
「補充ねぇ……」
リボルバーを手に取ってくるくると回し、シリンダーの装填を覗き込んだ。
「連発銃だ。帝都の工房モンだろ、コイツは。補充でこんなモン回ってくるワケがねぇ。誰かがカネ出してる」
ハンスは黙った。お嬢様が侯爵閣下にお願いして整えてくださった支給品の中に入っていた。支給品の補充だと思っていた。
「使い方は」
「一応、訓練で」
「一応じゃ死ぬぞ。いいか、コイツは六発撃ったらおしまいだ。軸のピンを抜いてシリンダーを引っこ抜く。装填済みのシリンダーを突っ込んでピンを戻す。この手順だけ体に入れろ。戦場でもたついたら終わりだ」
サリーがシリンダーの脱着を実演した。ピンを抜き、空のシリンダーを前方に引き抜いて、換えを押し込む。三度やって見せてからハンスにやらせると、ハンスは二度目で手順を覚えた。
「……覚えんの早ぇな」
「すみません」
「謝んな」
リボルバーを返しながら、サリーはハンスの顔を見ていた。何か言いたそうな目だった。あの頃はもっと単純に怒鳴っていた。ハンスは二十二歳の叩き上げの伍長で、サリーはその上に立つ曹長だった。五年経ってハンスは少佐になっている。カレンダーを捲るように昇進した少佐だ。侯爵家の護衛なら、そうなる。
風が塹壕の中を抜けていった。土と火薬の残り香が混じった風だった。サリーが水筒の蓋を開けて一口飲み、ハンスに差した。ぬるい水だった。
「嫁は」
「いないです」
「二十七だろ。遅ぇだろ」
「探してる子が、いるので」
サリーが水筒の蓋を閉めた。
「探してる」
「はい。栗毛で、紫の目の子で」
「紫? ンな目の女、滅多にいねぇだろ」
「だから見つからないんですよ」
「……いつの話だそれ」
「十六年と四ヶ月です」
サリーが黙った。水筒を膝の上に置いてしばらくハンスの横顔を見ていた。
「十六年。ガキの頃か」
「十一のときです。嵐の夜に会って、名前を聞けないまま別れました」
「名前も知らねぇのか」
「はい」
「名前も知らねぇ、十六年前の、栗毛の、紫の目の女」
「はい」
「お前、アタマ大丈夫か」
「よく言われます」
サリーが額に手を当てた。
「お前な。十六年だぞ。しかもその条件で見つかるワケがねぇだろ。相手だってガキだったんだろう。今は全然違う顔になってるかもしれねぇ」
「髪です」
「あ?」
「顔は変わるかもしれません。でも髪の色は変わらないでしょう。栗毛の、綺麗な髪でした」
サリーが何か言いかけてやめた。口を閉じて、もう一度ハンスの横顔を見てから前を向いた。
「……まぁ、死ぬなよ」
「はい」
陣地の脇に小さな花が咲いていた。紫がかった細い花で、名前は知らない。こんなところにも花が咲くのかと思った。
そのとき、杭が鳴った。
カン、カン。
土の中を伝わる乾いた音が二つ。
サリーの目が変わった。
「来たぞ」
ハンスは立ち上がっていた。考えるより先に体が動いて、塹壕の縁から前方を見た。林の向こうに散兵の影が動いている。まだ遠いが近づいてくる。
人数。配置。間隔。進行方向。地形との関係。全部見えた。
「右翼の林縁から散兵。四十から五十。正面にも動き。陽動の可能性あり」
自分の声がさっきまでと違うことにハンスは気づいていなかった。
「第二中隊は右翼に展開。第三は正面維持。御厨の兵は後方で予備」
サリーがハンスを見ていた。二十年戦場にいた男の目が少しだけ変わった。
「……聞いた通りだ」
サリーは走った。




