第13話
窓の光が白かった。応接室の窓は南向きで、十一月の薄い日差しが床の石畳に模様を作っている。椅子が二脚。小さな卓に茶器が並んでいる。壁に棚はなく、代わりに東方風の織物が掛けられていた。
扉が開く前に、ハンスは立ち上がっていた。何をどうすればいいかわからなかったが、座ったまま迎えるのは違う気がした。
入ってきたのは二人で、先に立っているのは軍装の男だった。黒髪を短く整えた日焼けした浅黒い肌の青年で、派手さのない端正な顔をしている。目が落ち着いている。見覚えがあった。
「——あの時の」
声が出ていた。ハドニツァの戦線で見た顔だった。辺境伯の命を届けに来た士官。あの戦場にいた人間の顔は全部覚えている。
「ハンス・シルテン少佐です。ハドニツァにてお会いしました」
エルンスト大尉の表情が変わった。背筋が伸びて、軍人の顔になった。
「エルンスト・フォン・ベルク大尉です。少佐殿、ご無事で何よりです。——少佐殿のおかげで多くの兵が戻れました」
「自分は何もしていません。命令に従っただけです」
「それを言う方は、大抵それ以上のことをされています」
まっすぐな目だった。軍人の丁寧語だが、声に嘘がない。
「あとで兵に声をかけてやってください。喜びます。昨日から少佐殿の話で持ちきりで」
「……昨日のあれは、そういう」
「そういうことです。みな少佐殿に会いたがっていました」
敵意ではなかった。英雄を見たい兵士たちの目で、完全に読み違えていた。
「——あの」
声がした。低い声ではない。柔らかくて、少しだけ棘がある。ハンスとエルンスト大尉が同時に振り返った。
明るい栗色の巻き毛。淡い青の大きな瞳。色白の肌。淡い青のワンピースに、リボン留めのトルコ石がひとつ。小柄だった。ハンスからは見下ろす形になる。辺境伯と同じ家の人間とは思えないほど柔らかい顔立ちをしている。
大きな目が真っ直ぐこちらを見ていた。
「これは私と彼の縁談の席なのだけれど? あなたが彼と結婚するのかしら、エル」
エルンスト大尉が石になった。ハンスも止まった。
「あ——すみません」
「ベロニカ・ベル・メルンヴァルトですわ。はじめまして、シルテン少佐」
笑っていた。からかっている声だが、怒ってはいない。大きな淡い青の目が真っ直ぐ見つめてくる。見つめられると、嘘がつけなくなるような目だった。
「ハンス・シルテンです。よろしくお願いします」
「お掛けになって。お茶が冷めてしまいますわ」
座った。椅子が小さく感じた。卓も低く、自分の体が場に合っていない。エルンスト大尉は壁際に立っている。護衛の配置だった。縁談の席で護衛に立つというのは、どういう心持ちなのだろう。その表情からは何も読めなかった。
ベロニカが茶を注いでくれた。手つきが慣れている。
「お父様から少佐のお話は伺っていますわ。殿で多くの兵を救ったと」
「命令に従っただけです」
「そうおっしゃるだろうとも言われていましたわ」
ベロニカが小さく笑った。辺境伯と同じ笑い方で、豪快さはないが、相手の反応を見ている目が似ている。
「普段はどのようなお仕事を?」
「……護衛です。フォルテシエラ侯爵家でお嬢様の護衛をしています」
「護衛。ずっと護衛を?」
「はい。五年になります」
五年。口にして、長いなと思った。
「お仕事以外に、何かなさるの?」
「……体を動かすことくらいです」
「お好きなの?」
「いえ……習慣です」
会話が続かなかった。ベロニカの質問は柔らかいのに、ハンスの返答がそこで止まってしまう。何か聞き返さなければいけない。会話というのは交互に話すものだ。わかっている。わかっていて、何を聞けばいいか出てこなかった。
ベロニカが茶を口に運んだ。ハンスも飲んだ。茶の味がした。この沈黙をどうすればいいのか、まったくわからなかった。趣味を聞けばいいのか。好きなものを聞けばいいのか。聞いてどうする。何を話す。ぐるぐると頭の中を同じ疑問が回っている。エルンスト大尉が壁際に立っているのが視界の端に見えた。あちらに行って軍の話がしたかった。
「ご出身はどちらですの?」
ベロニカが助け舟を出してくれた。会話を諦めていなかった。
「……フォルテシエラ領の端の、小さな村です。名前は多分ご存じないと思います」
「お父様のところにいらしたの?」
「養父上のところに来たのは十三のときです。それまでは村にいました」
「まあ。では辺境の暮らしには慣れていらっしゃるのね」
「……慣れているのかどうか、自分ではよくわかりません」
ベロニカが笑った。笑い方が自然だった。お嬢様の微笑みとは違う種類の笑顔で、隠すものがない。見たまま笑っている。
「少佐は剣をお使いに?」
「……一応は使えます」
「ご謙遜ですわ。——少佐は貴族の帯剣についてはご存じ?」
「……あまり」
「女性が自分の剣を預けるのは、身を預けるのと同じ意味ですの。婚約の証に帯剣を渡して、剣を返すというのは」
ベロニカがわずかに微笑んだ。
「——破談を意味しますわ」
ハンスは茶を飲んだ。
「護衛のお仕事のこと、もう少し聞かせてくださらない?」
ベロニカが身を乗り出した。大きな淡い青の目が、真っ直ぐこちらを見ている。
「フォルテシエラのお嬢様は、どんな方ですの?」
お嬢様のこと。答えようとして、言葉が少し増えた。自分では気づかなかった。
「……頭のいい方です。領地の実務を任されていて、帳簿も法令も。判断が早い」
「まあ、ご優秀なのね」
「硝石の納入交渉も自分でやってました。商人相手でも引かないし。——あと、デイジーさんが水をやりすぎるといつも止めてます」
最後の一言は余計だった。なぜ言ったのかわからない。ベロニカが目を丸くして、それから笑った。
「デイジーさんというのはお侍女?」
「はい。明るい子で。天気がいいと歌ってます」
「楽しそうなお屋敷ですわね」
「……そうですね。騒がしいですけど、悪くないです。——銀髪の方なので、遠目でもすぐわかるんです。庭にいても、廊下の向こうにいても」
言ってから、なぜそんなことを口にしたのかわからなかった。ベロニカの大きな淡い青の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「あら。——髪が変わって婚約が解消された方もいらっしゃるそうですわ。フォルテシエラのお嬢様も、昔は栗毛だったそうで」
栗毛。
頭の中で、何かが引っかかった。
栗毛。お嬢様が。——栗毛。
引っかかりが広がっていく。音が遠くなった。ベロニカの声が聞こえなくなった。
栗毛の女の子がいた。
十一歳の夜。嵐の中を走っていた。木の枝が折れる音。雨。雨の匂い。暗い林の中に、しゃがみ込んでいる小さな影があった。五歳くらいの、栗毛の髪の女の子。紫の目。雨に濡れて、泣いていた。手を引いた。走った。木のウロに身を隠した。狭い場所だった。女の子の肩が震えていて、大丈夫、と言った。何が大丈夫なのかわからなかったが、それしか言えなかった。風が唸って、何かが飛んできて、女の子をかばって——
額の傷。普段は前髪に隠れている傷跡。あの夜のものだ。
目が覚めたら誰もいなかった。名前を聞けなかった。栗毛で、紫の目で、綺麗な顔をした子だった。十六年間、ずっと探していた。栗毛で紫の目の子。サリーさんに笑われても、デイジーさんに呆れられても、ずっと。
——栗毛だった。
お嬢様は銀髪だ。初めて会った日から銀髪だった。五年間、毎日見ていた。銀の髪と、紫の——
紫の、目。
映像が重なった。五歳の女の子の紫の瞳と、お嬢様の紫の瞳が、同じ色をしていた。帝国中に紫の瞳を持つ人間がどれほどいるか。ほとんどいない。ほとんどいないのに、五年間毎日見ていて——
記憶が走り始めた。止まらなかった。
着任初日。銀髪のお嬢様が執務机に座っていた。紫の目がこちらを見た。何も感じなかった。栗毛ではなかったから。髪が違うから弾いた。目の色が同じだと気づかなかった。同じ色が五年間、毎日目の前にあったのに。
二年目の冬。お嬢様が窓辺に立っていた。逆光で銀の髪が光っていて、紫の瞳だけが暗い中に浮いていた。あの瞳を見たとき胸が動いた。一瞬だけ。すぐに消えた。栗毛ではなかったから。
大雨の夜。お嬢様の顔が歪んだ。泣いていた。あの泣き顔を見たとき胸が詰まった。何かを思い出しかけた。思い出せなかった。栗毛の子の泣き顔と、銀髪のお嬢様の泣き顔が、重ならなかった。髪の色が違うから。ずっとそれだけの理由で、重ならなかった。
あの夜から胸が重かった。名前がつかない重さだった。何かを思い出しかけて、思い出せなくて、そのまま抱えていた。あれは——あの子の泣き顔とお嬢様の泣き顔が同じだったからだ。同じ顔だった。同じ人の顔だった。
五年分の映像が一枚ずつ裏返っていく。お嬢様の横顔。お嬢様の指先。書類に目を落とす紫の瞳。怒った顔。笑った顔。デイジーさんを叱る声。帳簿を閉じる手。窓辺に立つ後ろ姿。朝の光の中で髪を耳にかける仕草。指が裾を握っているときの白い関節。銀の髪の下にある紫の目が、全部同じ色をしている。十一歳の夜に見た紫と、同じ色。
あの子が、お嬢様だった。
「——聞いてます? 少佐?」
ベロニカの顔がぼんやり見えた。大きな瞳が、心配そうにこちらを見ている。
「少佐。お顔の色が悪いですわ。少佐?」
返事ができなかった。口が動かない。頭の中でまだ映像が走っている。止まらなかった。止め方がわからなかった。
ベロニカが腰のあたりから小瓶を取り出して、ハンスの手に押し込んだ。
「気付けですわ。飲んで」
受け取った。指が小瓶を握っている。握っているだけだった。
ベロニカが椅子から立った。
「今日はお開きにしましょう。——エル、少佐をお部屋まで」
声が穏やかだった。見合いを閉じる言葉としては丁寧で、壊した側の責任がそこに乗っていた。エルンスト大尉が壁から一歩出て、ハンスの横に立った。
「少佐殿、こちらへ」
立ち上がった。椅子が鳴った。ベロニカの目がこちらを見ていたが、何を映しているのか、もうわからなかった。
廊下を歩いた。エルンスト大尉が半歩前を歩いている。何も言わなかった。壁の石が冷たかった。手が壁に触れているのがわかった。足が動いている。体は動く。頭だけが止まらない。
玄関で大尉が足を止めた。
「外の空気を吸われた方がいいかもしれません」
頷いた。声が出なかった。
外に出た。風が冷たかった。十一月の風。練兵場が目の前に広がっている。号令の声。木剣の音。兵士の列。昨日も同じものを見た。昨日は敵意だと思った。
「——あんた、シルテン少佐か?」
声をかけてきたのは兵士だった。三十前後の、日焼けした顔の男。軍装が砂で汚れている。
「ハドニツァにいた者です。第三中隊の。——あんたの殿がなけりゃ、俺は帰れなかった」
別の兵士が寄ってきた。もう一人。もう二人。囲まれた。敵意ではなかった。昨日のざわつきが再生された。あれは、これだった。
「少佐殿に会いたいって、みんな言ってたんです」
「でけぇな、噂通りだ」
「酒! あとで飲みましょうよ少佐殿」
軍人同士の空気だった。階級がある。上官と部下がある。だがその下に、同じ戦場にいた人間の距離がある。侯爵領では従者として見られていた。ここでは軍人として。場所が違えば、見られ方が変わる。
体が応じていた。頷いて、言葉を返して、名前を聞いて、答えている。軍人としての動作が勝手に出てくる。頭の中はまだ止まっていない。映像がまだ止まらない。あの子の顔とお嬢様の顔が重なったまま離れない。なのに体は笑って、兵士たちと話している。
しばらくして、兵士たちが散っていった。教官が呼び戻した。練兵場の隅に立っている。ひとりになった。
小瓶をまだ握っていた。ベロニカが渡した気付け薬。飲まなかった。
頭の中で同じ映像がまた走った。栗毛の髪。紫の瞳。銀の髪。紫の瞳。同じ目。同じ人。五年間、毎日、目の前にいた。
今夜は眠れないだろうということだけが、はっきりとわかった。




