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第12話

 馬車が揺れるたびに、ネリーナさんの本の頁が音を立てた。


 出発から二日目。街道は北東に延びている。窓の外は丘陵が低く連なるだけの景色で、フォルテシエラ侯爵領の柔らかな土地とは明らかに違っていた。石が多く、木が少なく、風が乾いている。馬車の車輪が石を踏むたびに車体が跳ねて、荷台の革鞄が鳴った。

 向かいの座席で、ネリーナさんが本を読んでいた。足元に荷物鞄。膝の上に分厚い革装の本。目を落としたまま一度も窓の外を見ていない。生まれ育った土地のはずだが、懐かしむ様子がなかった。


「ベロニカ様はどんな方なんですか」


 聞いてみた。ネリーナさんは本から目を上げなかった。


「気さくな方よ。退屈はしないと思うわ」


 頁をめくる音がした。


「もう少し何かありませんか」

「何を知りたいの」

「……何を話せばいいか、まったくわからないんです」

「構えないこと。構えたらベロニカ様が退屈する」

「構えるなと言われると構えますが」

「だからあなたは面倒なのよ」


 溜息がひとつ。それから、ネリーナさんが少しだけ顔を上げた。本から指を離さないまま、窓の外を一瞬だけ見て、また目を落とした。


「お嬢様のことは、サリーに任せてあるから」


 その一言のあとに間があった。一拍だけ。ネリーナさんが何か言いかけてやめたように見えた。視線が本に戻る。

 ハンスは窓の外に目をやった。お嬢様を離れることが気になっているのだろう。ネリーナさんにとって、お嬢様のことが何よりも先に来る。それはフォルテシエラにいた頃から変わらない。

 馬車の車輪がまた石に乗り上げて、大きく揺れた。ネリーナさんの本が膝から滑り落ちそうになって、指が頁を押さえた。


 鍛冶の音が聞こえてきたのは、三日目の午後だった。遠くから聞こえてくる金属の打音は、フォルテシエラでは聞かない種類のもので、重く乾いた響きが街道まで届いている。脇を軍服の男たちが歩いている。荷車に積まれているのは木材ではなく武器で、兵站の集積地を通り過ぎるとき槍の穂先が日差しを反射した。ここは貴族の領地というより、軍事拠点に屋敷がくっついた場所だった。

 石壁の門を抜けると練兵場が目に入った。広い。侯爵家の庭園がまるごと入るような面積がある。兵士の号令が響いていて、馬車の中まで声が届いた。整列。分隊行動。隊列が動いている。前線の空気とは違うが、平時の空気でもない。訓練の密度が高かった。

 馬車が減速した。門前に人影がひとつ立っている。


 軍装の男が立っていた。黒髪をやや長めに後ろへ流し、口髭と顎鬚を蓄えている。暗い褐色の瞳に浅黒い肌。胸板が厚い。ハンスほどの大きさはないが身体の厚みが違う。鎧を着けていないのに胸の輪郭が軍装の上から出ている。そして両手に深紅の手袋をしていた。鞣し革に銀糸の文様が走っている。他は完璧な軍装で、その一点だけが異質だった。


 馬車が止まると、男が歩み寄って扉を開けた。動作に無駄がない。


「ペドロ・ラ・ニエブラ大佐です。閣下の命でお迎えに上がりました」


 挙手敬礼。ハンスも降りて返した。


「ハンス・シルテン少佐です。お世話になります」

「長旅お疲れさまでした、少佐殿。お荷物はこちらで預かります」


 笑顔を見せた。陽気で人当たりがいい。声も柔らかい。だが目が笑っていなかった。視線がハンスの肩から腰、足元へと一瞬で流れている。歩幅。重心。腰の剣の位置。ハンスの体格と動きを職業軍人の目で計っている。戦闘報告は読んでいるのだろう。文字で読んだ人間を実物で確認する目だった。

 ハンスもペドロ大佐の動きを見ていた。歩き方が滑らかすぎる。足音がほとんどしない。大佐の階級で、この体の使い方をする人間を前線では見たことがなかった。指揮官の動きではない。斥候か、それに近い何かだった。


「ネリー、久しぶり」


 ペドロ大佐の声が変わった。ネリーナさんに向ける声だけが、わずかに柔らかい。


「……ええ。元気そうで何より」


 ネリーナさんの声が違った。フォルテシエラでは聞いたことのない温度だった。冷たさが消えたのではなく、種類が変わっている。よそ行きの冷たさが抜けて、慣れた距離がそのまま出ていた。


「幼馴染なんだから、普通にすればいいのに」

「これが普通だ。軍人の作法で迎えるのが一番落ち着く」


 ペドロ大佐が笑った。今度も目は笑っていなかった。笑顔がよく動く。だが笑顔の奥が見えない。何を考えているのか、まったく読めなかった。


「少佐殿、こちらへ。閣下は待つのが嫌いなので」


 屋敷に向かう道を歩いた。練兵場の脇を通る。号令の声と木剣の打ち合う音が重なっている。兵士たちの視線がこちらに集まった。一人、二人ではなく、列ごとこちらを向いている。目が鋭い。訓練の手を止めた者もいた。教官が怒鳴って列を戻している。

 ——平民風情が辺境伯の次女に縁談しに来やがった。

 そういう目だと思った。ハンスは視線を前に向けたまま歩いた。背中に刺さる視線の数を数える癖が出ている。前線と同じだった。敵意の密度を無意識に計算してしまう。

 ペドロ大佐は何も言わなかった。視線に気づいていないはずがないのに、表情を変えずに歩いている。


「少佐殿の話はこちらでも聞いておりますよ」


 ペドロ大佐が歩きながら言った。世間話の口調だった。


「あの殿で生きて帰ってくるとは思いませんでした。閣下も驚いておられた」

「運が良かっただけです」

「運だけで殿は務まりませんよ」


 ペドロ大佐が笑った。三度目の笑顔だった。三度とも目が笑っていない。この男は笑顔を使っている。道具として。


 石造りの建物が見えた。華美さはなく、壁が厚くて窓が小さい。城塞を屋敷に改装した建物だった。門柱にメルンヴァルト家の紋章が刻まれている。


 執務室は広かった。天井が高く、柱の間に影が溜まっている。石壁に大きな地図が二枚。帝国東部の地勢図と辺境伯領の詳細図で、地図の縁には書き込みが重なっていた。窓が大きく、練兵場が見下ろせる。窓の反対側は棚と帷帳で仕切られていて、奥が見えない。部屋の入口から死角が多い。客を座らせる位置も、窓を背にした机の位置も、計算されている。

 机の上に書類が積まれていた。琥珀の文鎮。トルコ石を嵌め込んだ燭台。革張りの椅子の背には毛皮が掛けてある。派手というより、この男の色で塗り潰されている部屋だった。その奥に男が座っていた。


 白いものが混じった短髪。髭。浅黒い肌。トルコ石色の瞳が書類の上からこちらを見た。細い身体だが、椅子に座っているだけで部屋の空気が全部この男に寄っている。ハンスより明らかに小柄なのにそう感じなかった。ペドロ大佐の圧とは種類が違う。ペドロ大佐は隠している。この人は隠していない。全部出していて、それでも底が見えない。

 革のベルトに琥珀の飾りがついている。マント留めは革の台座にトルコ石を嵌め込んだもので、目の色と呼応していた。服装は正しいのに、一人だけ異質だった。中央の貴族とはまるで違う色彩をしている。

 四十年以上戦い続けた男の身体に、傷がひとつもないのが見えた。


「貴様があの時の指揮官か」


 声がデカかった。部屋中に響いて、机の上の書類が揺れた気がした。


「——デカいなお前」


 立ち上がって机を回り、近づいてきた。見上げる形になっているのに、圧が変わらなかった。トルコ石の瞳が下から真っ直ぐこちらを見上げている。


「メルンヴァルト辺境伯コンラートだ。こういう形式ばったのは得意じゃない。——これだ」


 木箱を開けた。功勲爵第五等の勲章。金属の重さが手のひらに乗った。


「貴様のおかげで兵を損ねずに済んだ」


 声が変わった。デカかった声が急に低くなって、静かで重い音になった。さっきまでの豪快さが消えている。目が据わっていた。武人が武人に向ける声だった。


「——感謝する」


 ハンスは勲章を握ったまま背筋を伸ばした。


「自分は命令に従っただけです」

「あのような命令をされて、やり遂げる者はそうそうおらん」


 辺境伯が一歩退いた。腕を組んだ。トルコ石の瞳が細くなっている。


「まして生きて帰ってくる者はな」


 何かを計っている目だった。ペドロ大佐の値踏みとは桁が違う。ペドロ大佐が計っていたのは兵士としてのハンスだ。辺境伯が見ているのは、もっと別のものに見えた。何を見ているのか、わからない。わからないのに、見られていることだけが正確に伝わってくる。


 沈黙が落ちた。窓の外で号令の声がしている。辺境伯が先に動いた。机に戻って椅子に腰を下ろし、書類を一枚取り上げて、それをまた置いた。


「で、本題だが」


 声が戻っていた。デカい声だった。


「——明日、娘に会え。長旅で疲れているだろうから、今日は休め」


 最初からこの一言のために呼ばれたのだとわかった。辺境伯は既に書類に目を落としている。品定めが終わったのか、それとも始まってすらいないのか。ハンスにはわからなかった。


 ペドロ大佐に案内されて客室に向かった。廊下の窓から練兵場が見えた。日が傾き始めている。兵士たちの影が長く伸びていた。


「ゆっくりお休みください。明日は長い一日になりますから」


 ペドロ大佐がそう言って、扉を閉めた。

 一人になった。客室は簡素で、石壁に木の寝台と小さな机がある。窓を開けると、冷たい風が入ってきた。練兵場の号令はまだ続いている。

 明日、ベロニカという名前の女性に会う。栗色の髪。綺麗な人。瞳の色は、まだわからない。


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