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第10話

 お嬢様が玄関広間で迎え、ハンスはその後ろに立っていた。ネリーナさんが扉の脇に控えている。帝都から馬車が着いたのは、昼前だった。

 馬車から降りてきたのは細身の青年で、栗色の髪をしていた。目の色がお嬢様に似ている。紫ではなく、紫がかった灰色——兄妹だとわかる色だった。背はハンスより頭ひとつ低い。肩幅も細い。軍人の体ではなかった。

 旅装を解く前に、お嬢様の方へ歩いてきた。足が速い。


「ヴィオレット、元気そうだね。通信で聞いた時は心配したんだけど——あ、あなたがハンスさんですか!」


 お嬢様の肩に手を置きかけたところで、こちらを見た。表情が変わった。


「ハンス・シルテン少佐であります。お初にお目にかかります」


 背筋を伸ばして敬礼した。お嬢様のお兄様である。礼は正しくしなければならない。


「ルイスです。堅くしないでください。妹から聞いてます、いろいろと」


 手を差し出された。握手。貴族が平民に先に手を差し出すのは珍しい。握る力は弱いが、掌が乾いていた。学者の手だった。お嬢様が隣で小さく溜息をついた。


「兄さん、まず荷物を下ろしたら」

「あ、うん。そうだね。——ハンスさん、後でお時間いただけますか。聞きたいことが山ほどあるんです」

「山ほどは困ります」

「大丈夫、二時間で足ります」

「足りませんよ」


 お嬢様の声が平坦だった。経験則で言っている声だった。


「……三時間?」

「兄さん。荷物」


 ルイス様が従者に促されて広間を出ていった。廊下に消える背中を見て、お嬢様がこちらを向いた。


「ごめんなさいね。兄は悪い人ではないの。ただ——」

「はい」

「止まらなくなることがあるから。辛かったら言ってちょうだい」


 お嬢様の声に苦笑が混じっていた。何度も同じ目に遭ってきた声だった。


 応接室に通された。ルイス様が向かいの椅子に座った。テーブルの上にノートと羽根ペンを広げている。到着から一時間も経っていない。旅の疲れはないのだろうか。

 お嬢様は「好きにしなさい」と言って書斎に戻っていった。


「では、お聞きしてもいいですか」

「はい」

「ハドニツァ川の戦闘について。殿戦闘の時の話を聞かせてください」


 ハンスは答えた。部隊の配置、地形、川幅、敵の兵数。報告書に書いたことと同じ内容を、同じ順序で話した。ルイス様はメモを取りながら頷いていた。時折「ふむ」「なるほど」と声を挟む。普通の質疑だった。

 ルイス様のメモの取り方は独特だった。文字ではなく、図が多い。川の断面図のようなものを描きながら数字を書き込んでいる。学者のノートだった。


「渡河前に通信を行ったと聞きました。杭を使ったと」

「はい。川の対岸に杭を打ち込んで、振動で合図を送りました」

「杭の素材は」

「鉄です」

「鉄だけですか」

「いえ。木の杭も使いました。あと、銅の釘を打った杭も一本」


 ルイス様の羽根ペンが止まった。


「……違いはありましたか」

「鉄は細かく震えます。木は鈍い。銅は鉄より伝わりが速い気がしました」


 ルイス様がこちらを見た。目が変わった。さっきまでの「ふむ」「なるほど」の顔ではない。ペンを置いた。


「太さで変わりましたか」

「太い方が鈍かったです」

「木の種類で違いは」

「樫は硬くて鋭い。松は柔らかくて鈍い」

「銅の釘を打った木の杭と、鉄の杭では」

「銅の方が——なんというか、響きが澄んでいました」

「手で触って感じた? 目で見た?」

「手です。指先の方がよくわかりました」


 質問が速くなっている。ルイス様は前のめりになっていた。椅子の背もたれから体が離れて、テーブルの端に両手をついている。メモを取っていない。取る暇がないのだろう。


 ルイス様の手が震えていた。


 テーブルの上に置いた手が、小刻みに揺れている。目がこちらに据えられたまま動かない。興奮している——と思った。怒っているのではない。何かに打たれたような顔をしている。


「……あなた、今のを全部、見たまま——いや、触ったまま答えていますね」


「見えていたので。……触れていたので」


 ルイス様が息を吐いた。長い息だった。椅子の背に体を預けて、天井を見た。


「……すごい」


 ハンスはどう返していいかわからなかった。聞かれたことに答えただけだった。鉄は細かく震えて、木は鈍くて、銅は澄んでいた。それは触ったまま答えただけで、すごいかどうかはよくわからない。デイジーさんにも同じようなことを言われたが、あの時もよくわからなかった。


「ハンスさん」


 ルイス様が天井から視線を戻した。目に火がついている。


「魔力を込めて杭を打ったんですよね。どうやって殴ったか——やってみてくれますか」

「え? ここで? でも殴るものが——」

「俺を!」


 一人称が変わっていた。


「……え?」

「だって、今まで誰も体を張って検証してこなかったんですよ。体験しないとわからない」


 ルイス様が立ち上がって、両腕を広げた。どうぞ、という姿勢だった。お嬢様のお兄様を殴れるわけがない。


「あの、ルイス様、それはさすがに」

「いいから! 加減していいから。魔力を乗せて手のひらを叩いてくれればいい」


 ハンスは立ち上がった。断る選択肢がなさそうだった。ルイス様が右手を差し出している。覚悟が据わった目だった。助手が辞めるわけだ、と思った。

 ハンスはルイス様の手のひらに自分の手を合わせて、軽く魔力を込めて叩いた。抑えた。かなり抑えた。


「——なるほど!」


 ルイス様の声が裏返った。手を押さえている。赤くなっている。だが顔は笑っていた。痛みより先に何かが来ている顔だった。


「振動が残る……手のひらの中を伝ってくる。これが——これか!」

「大丈夫ですか」

「大丈夫です大丈夫です。もう一回いいですか」

「……お嬢様に怒られませんか」

「怒られます。いいからもう一回」


 三回叩いた。三回目にはルイス様の右手が赤く腫れていた。ルイス様はそのままペンを握ってメモを取り始めた。腫れた手で書いている。字が震えていた。


「ハンスさん」


 身を乗り出した。


「妹から聞きました。覚えるのと、わかるのは違う——あなたがそう言ったと」

「……デイジーさんに聞かれて、そう答えました」

「正確です。あなたは覚える側だ」


「わかる側は——僕がやります。あなたが覚えたものを、僕が理論にする。素材で振動が変わる。周波数だ。物質ごとに対応する共鳴がある。これ、体系にできます」


 早口だった。声が上ずっている。さっきまでの学者の落ち着きが消えて、子供がおもちゃを見つけた時のような顔をしている。


「あの……ルイス様、自分はただ聞かれたことに答えただけなんですが」

「それがすごいんです。あなたは記録している。正確に、精密に。しかも意識していない。これは——」


 扉が開いた。


「兄さん、壊さないでね」


 お嬢様が顔だけ出した。穏やかな声だったが、目がルイス様を見ていた。侍女がお茶を運んできて、テーブルに置いた。


「壊さないよ。壊すわけないだろう」

「前にも同じことを言って、大学の助手を三人辞めさせたでしょう」

「あれは助手の方が耐性がなかっただけで——」

「ハンス、辛かったら遠慮なく出てきなさい」

「いえ、自分は大丈夫です」


 お嬢様がこちらを見て、少し困った顔をした。何かを言いかけて、やめた。


「……お茶を持たせたから。少し休みなさい」


 お嬢様が扉を閉めた。ルイス様が少しだけ萎んだ。


「……妹には勝てないな」


 独り言のようにそう言って、お茶を一口飲んだ。カップを置くと、すぐにペンを取り上げてメモを書き始めた。さっきの質疑の内容を、記憶を頼りに書き起こしている。手が速い。羽根ペンの先が紙を引っ掻く音が、静かな応接室に響いていた。


「ハンスさん。明日も時間をもらえますか」

「お嬢様がよろしければ」

「もらいます。必ず」


 ルイス様の目がまだ光っていた。何かを見つけた人間の目だった。ハンスにはそれが何なのかわからなかった。

 聞かれたことに答えるだけなら、明日もそうする。それだけのことだった。


 廊下に出ると、窓の外は夕暮れだった。いつの間にか三時間が経っていた。お嬢様の予言が当たっている。

 自分のお茶は、冷めたまま手をつけていなかった。ルイス様のカップは空だった。


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