第9話
領都の市場は昼過ぎから急に暗くなった。
お嬢様の視察に随行して、午前中から市場を歩いていた。秋の収穫が出回る時期で、乾燥豆や燻製肉や蜂蜜漬けの瓶が木箱に並んでいる。お嬢様は値札を見て、帳簿を開いて、商人に二言三言話して、また次の店に歩いていく。ハンスはその二歩後ろを歩いていた。
護衛としては楽な仕事だった。市場の人間はお嬢様の顔を知っている。危険はない。ハンスがやることは荷物を持つことと、背の低い商人の陳列棚をお嬢様が覗き込む時に後ろで突っ立っていることくらいだった。
空が鳴った。
見上げると、西から黒い雲が流れてきていた。さっきまで薄曇りだったのが、あっという間に空の半分を覆っている。風が変わった。湿気の匂いがする。
市場の商人たちが天幕を引き始めた。
「降りますね」
「そうね」
お嬢様が帳簿を閉じた。馬車は市場の東門の外に待たせてある。ここからだと通りを三本ほど戻る必要がある。
間に合わなかった。
最初の一滴が石畳を叩いた瞬間、堰を切ったように降り始めた。雨粒が大きい。秋の大雨だった。視界が白く曇って、十歩先の屋台が霞んで見えた。
ハンスはお嬢様の腕を取って、一番近い軒先に飛び込んだ。靴屋の軒だった。革の匂いと雨の匂いが混じった。
「すみません、咄嗟に」
お嬢様の腕を離した。勝手に触れたのは護衛としてはまずかった。お嬢様は腕を引いたが、何も言わなかった。
「……いいのよ。濡れるよりは」
軒先は狭い。二人並ぶとほとんど肩が当たる距離だった。ハンスは半歩下がって、お嬢様との間に隙間を作った。
雨は強まる一方だった。石畳を流れる水が市場の通りを川のように走っている。雨音が大きくて、普通の声では聞こえないくらいだった。
「しばらく止みそうにないですね」
お嬢様は答えなかった。
雨を見ていた。軒先から落ちる水の幕の向こう側を、黙って見ていた。帳簿を胸に抱えている。指が帳簿の角を握っている——関節が少し白い。
いつもの顔と違う気がした。目がどこかを見ているようで、どこも見ていないような。雨の音を聞いているのか、雨の向こうの何かを見ているのか。
「お嬢様、雨が怖いんですか」
「……いいえ。怖くはないの」
声が静かだった。否定しているのに、否定の声ではなかった。何かを押さえ込んでいるように聞こえた。——体調が悪いのかもしれない。朝から歩き通しだった。
「座れる場所があればよかったんですが」
「立っていられるわ」
お嬢様が小さく息を吐いた。雨を見ている横顔は白くて、銀髪が湿気で少しだけ額に貼りついていた。
雨の音を聞いていた。
「……こんな雨の日があったな」
口に出していた。雨の音が記憶を引っ張り出した。
「昔、こんな雨の日に——嵐だったんですけど。自分がまだ子供の頃に」
お嬢様がこちらを見た。
「子供の頃に、迷子の子を見つけたことがあって」
紫の目が暗がりで光っていた。雨の中で。五歳くらいの子供だった。木のウロに座り込んでいて、膝を抱えて泣いていた。声は聞こえなかった。嵐の音が大きすぎた。だが肩が震えていたから、泣いているとわかった。
「栗毛の子で……紫の目をしていて。綺麗な子でした。泣いてたから——大丈夫って、言ったんです」
声が自分でも柔らかくなっているのがわかった。あの子の話をする時だけ、喉の力が抜ける。なぜかはわからない。
「大丈夫って言ったら、もっと泣かれました。嵐がすごくて、怖かったんだと思います。自分も怖かったけど、その子の方が小さかったから」
雨音が軒先を叩いている。あの夜もこんな音がしていた。木のウロは狭くて、二人で身を寄せていた。小さな手が自分の袖を掴んでいた。
「大人が来るまでずっと一緒にいたんですが、自分の方が先に——まあ、いろいろあって。結局、名前も聞けないままでした」
お嬢様が動かない。帳簿を抱えた指の関節が、さっきより白い気がした。
「それきり会えてなくて。あの子、元気にしてるといいんですけど」
お嬢様の横顔を見た。雨を見ていた——いや、雨を見ているようで、目の焦点がどこにも合っていないように見えた。唇が薄く開いている。何か言いかけている顔だった。
帳簿を持つ手が、微かに震えている。寒いのだろうか。
「……実は——」
お嬢様の声が途切れた。
雨の音だけが鳴っていた。長い間だった。お嬢様の唇が動いて、止まって、また動こうとして——。
「——いえ、なんでもないの」
取り繕った声だった。いつものお嬢様の声に戻っていた。穏やかで、静かで、隙がない。
「……そうね。きっと元気にしているわ」
少しだけ笑った。笑ったように見えた。目が笑っていたかは、横顔からではわからなかった。声が少しだけ——震えていたような気がした。気のせいかもしれない。雨の音が大きかったから。
「大丈夫ですか? 顔色が悪い」
「大丈夫よ」
お嬢様が雨の幕を見たまま言った。その声は言葉ほど平気には聞こえなかったが、それ以上聞くのは躊躇われた。体調が悪いなら、早く馬車に戻った方がいい。
軒先の水の流れが少し弱まった。雨脚が落ちている。
「止みそうですね。行きましょう」
軒先から出た。雨はまだ細かく降っていたが、さっきの豪雨に比べればどうということはなかった。
問題は足元だった。市場の通りは石畳だが、東門に向かう道は半分が土だった。水たまりが繋がって、ぬかるみになっている。ハンスの軍靴なら問題ないが、お嬢様の靴では三歩で泥だらけになる。裾も駄目になる。風邪を引く。
「お嬢様、失礼します」
言うより先に体が動いていた。お嬢様の膝裏と背中に腕を入れて、持ち上げた。前線で負傷兵を運んだ時と同じ要領だった。
「——っ」
お嬢様の体が強張った。
「道が悪いので。馬車まで運びます」
軽かった。——いや、そういうことではない。ぬかるみの中を歩く時は荷物を高い位置で保持するのが基本だった。お嬢様の靴が泥に浸かれば足を冷やす。馬車まであと通りを二本。
「顔が赤いですよ? 熱があってはいけない」
お嬢様の顔が近かった。赤い。額の辺りにも色が出ている。雨に当たって冷えたか、逆に歩き通しで熱が溜まったか。
「……下ろして」
小さい声だった。
「もう少しです。あの角を曲がれば敷石に出ます」
「下ろしなさい」
「敷石に出たら下ろします」
お嬢様が黙った。顔を逸らした。帳簿を胸に押しつけるようにして、こちらを見なくなった。怒らせたかもしれない。勝手に抱え上げたのはまずかったか。だが泥の中を歩かせるよりはいい。
角を曲がった。敷石が見えた。
「着きました」
お嬢様を下ろした。靴が敷石に着いた。お嬢様はまだこちらを見なかった。帳簿を抱えたまま、馬車の方へ歩いていく。足取りが速い。
「お嬢様、お足元——」
振り返らなかった。馬車の扉を自分で開けて乗り込んだ。
ハンスは立ったまま、雨に打たれていた。何かまずいことをしただろうか。勝手に触れたのがいけなかったのだろう。朝にも腕を取ったし、今度は抱え上げた。護衛の判断としては間違っていないはずだが、お嬢様が嫌だったなら——。
胸が重かった。さっきまでとは少し違う重さだった。
馬車の窓は閉まっている。中は見えない。お嬢様は大丈夫だろうか。——大丈夫ですよ、と言おうとして、言わなかった。なぜ言わなかったのかはわからない。ただ、言ってはいけない気がした。
雨がまた少し強くなった。軍靴が水たまりを踏んだ。ハンスは馬車の横に立って、御者に出してくれと合図した。




