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第8話

 窓の外は鈍い曇り空だった。十一月に入ってから、晴れた日の方が少ない。木々の葉はほとんど落ちて、侯爵邸の庭は枝ばかりが目立つようになっていた。

 巡回の順路は身体が覚えている。東棟から北棟への渡り廊下、書庫の前を通り、中庭に面したテラスを回る。五年間、ほぼ同じ道を歩いてきた。


 前線にいた頃のことが嘘のように、毎日が静かだった。泥と硝煙の匂いが石鹸と蝋燭の匂いに変わった。殺意の代わりに庭師の鋏の音がする。


 靴音が廊下に響く。自分の足音だけしかしない。日常というのはこういうものだった、と思い出しかけているところだった。腕の傷はほとんど痛まなくなった。食事は美味い。夜は眠れる。——ほぼ眠れる。


 胸のあたりの重さだけが消えない。


 何なのかはわからない。体の不調ではなさそうだった。ネリーナさんに聞いたら「知りません」と言われた。医務室に行くほどではない。行ったところで何と説明すればいいのか。胸が重い、としか言いようがない。

 仕事に集中している時はあまり気にならない。だが、ふとした瞬間に重さが少し強くなる。

 よくわからない。


 テラスを曲がると、中庭にデイジーさんの声が聞こえた。


「——だからネリーナさんが、花壇のここからここまでって言ったんですけどー、お嬢様があっちの端の方も見てって」


 デイジーさんが中庭の花壇の前にしゃがんで、枯れかけた株を引き抜いている。冬支度だろう。蜂蜜色の髪が風に揺れて、エプロンに土がついていた。

 その少し後ろで、ネリーナさんが腕を組んで立っている。デイジーさんの作業を無言で見ている目が冷たい。


「手が止まっているわよ」

「はーい」


 デイジーさんが慌てて株に手を戻した。土が少し飛んで、エプロンの端に散った。


「あ、ハンスさん。おはようございまーす」


 手を振りかけて、土だらけの手袋に気づいて引っ込めた。そのまま顔だけでにこにこしている。目が細くなるデイジーさんの笑顔を見て、ハンスは少し安心した。戦地から戻ってもこの笑い方が変わっていないのは、ありがたいと思う。


「おはようございます。冬支度ですか」

「そうなんですよー。枯れた子を抜いて、土を入れ替えるんです。ネリーナさんがすごい厳しいんですよ、ここの深さが足りないとか」

「ネリーナさんが言うなら合ってますよ」

「ですよねぇ……」


 デイジーさんが溜息をつきながら土を掘った。掘り方が少し雑だった。ネリーナさんの目が細くなっている。


「あ、そうだ。ハンスさん」


 デイジーさんが土を掘る手を止めて、振り返った。ヘーゼルの瞳がまっすぐこちらを見ている。


「前から聞きたかったんですけどー」

「何ですか」

「ハンスさんって、見たものぜんぶ覚えてるんですよね?」

「まあ、だいたいは」

「じゃあなんで勉強できないんですかー?」


 純粋な目だった。首を傾げている。悪意の匂いが一切ない。蜂蜜色の前髪が横に流れて、肉球のチャームが揺れた。


「……覚えるのと、わかるのは違うよ?」

「えー、でも覚えてたらわかるんじゃないですかー?」

「いや、うーん。たとえば本の文字は全部覚えてるけど、それが何を言いたいかってなると別の話で……」

「ふーん」


 デイジーさんがあまり納得していない顔をした。ハンスも自分であまりうまく説明できたとは思わなかった。記憶するのは勝手にできる。だがそこから何かを引き出す作業は、自分にはどうにも向いていないらしい。昔からそうだった。試験は暗記だけで突破できたが、論述になるとどうにもならなかった。

 ネリーナさんが一度だけ「目だけは良いのですから」と言ったことがある。何のことかよくわからなかったが、褒められた気はしなかった。


「だからずっと栗毛栗毛って言いながら婚期逃しておっさんになったんですかー?」


 跳躍がすごい。


「——待ってくれデイジーさん、今の話どう繋がった?」

「だって、覚えてるのにわかんないんでしょー? 子供の頃に会った栗毛の子のこと覚えてるのに見つけられないのも、それじゃないですかー?」

「…………」


 十五歳に図星を突かれている気がする。いや、図星なのかどうかもよくわからない。あの子の髪の色も、瞳の色も、泣いた顔も、全部残っている。だが見つけていない。十六年経って見つけていない。記憶にあるのに見つけられないというのは——どういうことなのだろう。

 デイジーさんは立ち上がって、土だらけの手袋を腰で叩いた。肉球が跳ねた。


「しかもおっさんですよ?」

「二十七はおっさんじゃないだろう……」

「おっさんですよー。私のお父さんとそんなに変わらないじゃないですか」

「お父上はおいくつなんですか」

「三十八です!」

「十一も違う……」


「でもおっさんはおっさんですよー。それでずーっと栗毛の子がいいって言って、見つからないまま」


 デイジーさんが右手の人差し指を立てて、左右に振った。おじさんに説教する子供の仕草だった。


「栗毛だけで探してたら見つからないと思いますけどー」


「——栗毛だけじゃない」


 言い返していた。


「栗毛で、紫の瞳で、顔立ちが綺麗な子がいいの!」


 声が大きくなっていた。自分でもわかった。だが引っ込められなかった。あの子のことを「栗毛だけ」と言われるのは正確ではなかった。髪の色だけではない。暗がりの中で見た紫の瞳。涙で歪んだ輪郭。五歳くらいの子供だった。それでも綺麗な子だと思った。十一歳の自分がそう思ったのだから間違いない。

 ——二十七歳の少佐が中庭で声を張り上げている。冷静な部分がそう指摘したが、もう遅かった。


「そんな子いてももう売れてますよ? おっさん」


 デイジーさんがにこにこしていた。心の底から心配してくれている顔だった。


 返す言葉がなかった。常識的に正しい。栗毛で紫の瞳で顔立ちが綺麗な子がこの歳までどこにも嫁いでいないというのは、確かに考えにくかった。デイジーさんは正しい。十五歳の方がよほど世の中が見えている。


「おしゃべりしてないで仕事しなさい」


 ネリーナさんの声だった。冷たく、短い。


 ハンスがネリーナさんを見ると、腕を組んだまま中庭の花壇を見ていた。声だけがこちらに向いていて、顔は花壇に向いている。表情はいつものネリーナさんだった。何も変わらない。


「はーい。……あ、ハンスさん、元気出してくださいねー」


 デイジーさんが手を振って花壇に戻った。土の中に手を突っ込んで、また枯れた株を引き抜き始める。肉球が揺れている。さっきまで「おっさん」と呼んでいた口が「元気出してくださいね」と言っている。煽った自覚がないのだろう。たぶんない。


 ネリーナさんはまだ花壇を見ていた。


 中庭は静かだった。デイジーさんが土を掘る音と、遠くで鳥が鳴く声。ネリーナさんの横顔は白くて、表情が読めなかった。前からそうだ。この人の考えていることはわからない。

 何か言いかけた気がしたが、気のせいかもしれない。ネリーナさんの唇が少し動いた——ように見えたが、声は出なかった。結局ネリーナさんは何も言わなかった。ハンスは会釈して、巡回の続きに戻った。


 北棟の廊下を歩きながら、まだ胸が少し熱かった。


 言い返したのは別に怒ったからではない。——いや、少し怒ったのかもしれない。「栗毛だけ」と言われたのが嫌だった。あの子は栗毛だけじゃない。紫の目をしていて、暗い場所でも光って見えるような——。


 銀の光が視界を横切った。


 廊下の向こう側を、お嬢様が歩いていた。書類を抱えて、こちらに気づかずに書庫の方へ向かっている。午前の執務だろう。銀髪が窓からの薄日を受けて、一瞬だけ白く光った。


 紫の瞳がこちらを向いた。


「……おはよう、ハンス」


 お嬢様が軽く会釈した。いつもの穏やかな声だった。


「おはようございます。書庫ですか。お荷物をお持ちしましょうか」

「いいのよ。この程度は自分で持てるから」


 お嬢様が少しだけ笑って、通り過ぎた。書類を胸に抱えた後ろ姿が書庫の角を曲がって消えた。


 銀髪と、紫の瞳。


 足が止まっていた。


 さっきデイジーさんに言い返した自分の声がまだ耳に残っていた。栗毛で、紫の瞳で、顔立ちが綺麗な子がいいの。——自分で言ったくせに、今になって少し恥ずかしかった。二十七にもなって十五の子の前で声を張り上げた。サリーさんが聞いたら笑うだろう。


 あの子は——元気にしているだろうか。


 栗毛の髪。紫の瞳。泣いていた。大丈夫って言ったら、もっと泣いた。


 また胸が重くなった。理由はわからない。お嬢様が通り過ぎた廊下には、かすかに花の匂いが残っている気がした。この季節に何の花が咲いているのかは知らなかった。


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