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ヴィオレット・マリー・アルヴァレード・フォルテシエラの日記

4月14日


 今日はよく晴れた。

 朝、書斎の窓を開けたら、山の稜線が青く澄んでいた。この季節にしては珍しい。雪解けの風がまだ冷たかったけれど、庭の木々にはもう若葉がついている。


 リナリアが、まだ咲かない。

 去年は四月の初めには色づいていたはずだけれど、今年の春はどうにも遅い。朝の冷え込みがまだ残っているせいだろう。蕾はもうついている。あと数日もすれば、きっと。


 北部鉱区の四半期報告に目を通した。硝石の産出量が前年同期比の七分を割り込んでいる。第二坑道の排水路に亀裂が入ったとのことで、鋳鉄管の交換が必要らしい。報告書をまとめてお父様にお渡しした。改修に着手するなら雪解け水が落ち着く五月以降が良いのではないかと進言したところ、お父様は頷いてくださった。

 来週、坑道の監督官と打ち合わせることになる。鋳鉄管の手配先と工期を詰めなければならない。忙しくなりそうだけれど、こういう仕事は嫌いではない。


 午後は刺繍を少し。ネリーナに見せたら「以前より後退しておいでです」と言われた。反論はしない。事実だから。刺繍に向かうと糸の色ばかり気になって指が進まないのだ。私は書類に向かっている方がよほど性に合っている。向き不向きは認めるべきだと思う。


 窓から庭を見ていたら、あの人が石畳を直していた。

 割れた石を退けて、新しい石を据え直している。園丁に頼まれたのだろう。頼まれれば何でも引き受ける人だから。

 大きな手で、ひとつひとつ、丁寧に据えていた。日が傾いて手元に影が落ちる頃になっても、まだやっていた。あの人は何をするにも丁寧だ。急がない。けれど手を抜かない。

 窓から見ているだけで、なんだか安心する。理由はわからないけれど。


 夕食は鱒の香草焼き。今年初めての鱒。美味しかった。




 「硝石の件、五月着工でよろしいかと。……それと、刺繍は後退ではなく横ばいです」




            *




 5月2日


 東方国境の警備増強に伴い、第三師団へ動員令が下った。あの人も、これに含まれる。


 昨夜のうちに、お父様にお願いして支給品の不足分を整えていただいた。東方の補給線は細いと聞く。現地で困ることのないよう、できる限りのことはしたつもりだ。もう少し早くわかっていれば、もっときちんと準備ができたのにと思う。けれど動員令とはそういうものだと、お父様が仰っていた。

 それはわかっている。わかっているけれど。


 昨夜は、少し眠れなかった。

 窓の外で、出立の荷をまとめる音が聞こえていた。荷馬の蹄の音と、低い話し声。それが途切れてからも、なかなか眠れなかった。


 今朝、あの人が発った。

 門前でお見送りをした。出立の隊列が、東の街道へ向かっていく。朝靄がまだ残っていた。白い靄の向こうに、あの人の姿が見えた。背が高いからすぐにわかる。いつも、すぐにわかる。


 行ってらっしゃい、と申し上げた。


 あの人は少し驚いた顔をされて、それから深く頭を下げた。何か仰ろうとして、口を開きかけて、けれど結局何も仰らないまま、隊列に戻っていかれた。

 あの人はいつもそうだ。肝心なときに、言葉が出てこない。


 不器用な人。


 門の上から見ていた。街道が南東に折れるところまでは、ここからでも見える。あの大きな背中が、だんだん小さくなっていく。他の人たちはすぐに見分けがつかなくなるのに、あの人だけはいつまでもわかった。背が高いから。

 それだけのこと。

 街道の曲がり角を過ぎて、林の向こうに消えた。もう見えない。

 見えなくなってからも、しばらく門の上にいた。風が吹いていた。朝の風だった。


 お昼前に書斎へ戻った。扉を開けて、廊下を見た。あの人がいつも立っているところに、誰もいない。当たり前だ。今朝、発ったのだから。当たり前のこと。

 けれど足が止まった。少しだけ。


 机に向かった。改修工事の進捗確認が溜まっていたはず。書類の束を探したけれど見つからない。ネリーナに尋ねたら、昨日の時点で私がすべて処理していたらしい。そうだったろうか。覚えていない。


 刺繍に手を伸ばした。糸を通して、三針ほど縫って、やめた。糸の色が気になるのではなくて、今日は指が動かなかった。

 本を読もうとした。ページを開いて、同じ行を何度か辿って、閉じた。内容が頭に入ってこない。


 庭を歩いた。

 リナリアが咲いていた。薄い紫の、小さな花。先週はまだ蕾だったのに。あの人がいた頃は、まだ蕾だったのに。

 誰に見せることもなく咲いている。


 石畳が綺麗に並んでいる。あの人が直してくださったところだ。ひとつも歪んでいない。あの大きな手で、ひとつひとつ、丁寧に据えた石。踏んで歩いた。端から端まで、ゆっくり歩いた。ひとつも歪んでいなかった。


 あの人は、丁寧な人だった。


 丁寧な人、だ。


 書斎に戻って、窓を開けた。庭が見える。石畳のあたりに、夕陽が落ちている。あの人が石を据え直していたところ。あの場所に、今は誰もいない。

 五月の風は、四月より少しだけ温かい。


 あの人がいた頃の風と、何が違うのだろう。温度は同じはずなのに。


 夕食は。


 何だったか、思い出せない。




 「……リナリア、咲いたのですね」

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