吾輩は犬である②…令和版・生類憐れみの令
❥吾輩は犬である②
…令和版・生類憐れみの令
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★第一章 SNSの女主人と、
生体販売禁止のニュース
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吾輩は犬である。名前はまだない。
最初のご主人は、
都会のワンルームに暮らす若い女であった。
声は柔らかく、朝の眠そうなあくびみたいに、
どこか頼りない。
でも、スマホを握った瞬間、
その顔から血の気が引いていく。
ある夜、彼女はキッチンの床にへたり込み、
指先だけ妙に元気に動かしながら、
SNSにこう書いた。
「狂犬病ワクチン、高すぎませんか?
貧乏人は、
犬を飼っちゃいけないんですか?」
吾輩は流し台の下からその顔を見上げた。
それは、笑っているようで、
泣いている顔だった。
スマホの画面は、すぐに燃え始めた。
「ペットの命を軽く見るな!」
「だったら飼うな!」
「あんたみたいな人がいるから
犬が不幸になるんだ!」
通知音は夜通し続き、
部屋の蛍光灯は、いつまでも消えなかった。
しばらくして、
彼女はテレビのニュースをつけた。
ぼんやりとしたアナウンサーの声が、
部屋に流れ込む。
「アメリカ各地で、
ペットの生体販売を禁止する条例が
拡大しています…。」
「ミズーリ州、イリノイ州をはじめ、
五百以上の自治体が
犬猫の店頭販売を取りやめました。」
画面には、
空になったペットショップの
ショーケースが映る。
ガラスの中には、
かつて子犬がいたスペースだけが、
白い蛍光灯で
むなしく照らされていた。
「パピーミルと呼ばれる
大量繁殖の実態が明らかになり、
動物福祉の観点から
生体販売をやめる動きが
広がっています…。」
それを聞きながら、彼女は小さく笑った。
「ほらね、アメリカはもう、
“犬を買っちゃいけない国”に
なり始めてる。」
「そのうち日本も真似するよ。
貧乏人はペットを持つなって、
世界中で言い始めるんだ。」
吾輩は、彼女の足もとに頭を寄せた。
しかし、スマホの光は吾輩ではなく、
遠い国の炎上と統計だけを
照らしていた。
数日後、彼女は仕事を失った。
家賃が払えなくなり、電気も止まり、
スーパーの見切り品だけが
夕食になった。
最後の夜、
彼女は吾輩を抱きしめて言った。
「ごめんね。
ワクチン代は、もう払えないの。」
翌朝、
吾輩は段ボール箱の中に入れられた。
雨の匂いがする裏通りだった。
シャッターが閉まる音を聞きながら、
吾輩は一つだけ理解した。
彼女は悪人ではなかった。
ただ、この国のルールと物価とSNSに、
静かに押しつぶされただけなのだ。
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★第二章 江戸の生類憐れみの令を
思い出す
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段ボールの底は冷たく、
身じろぎするたびに、
薄い壁がかすかにきしんだ。
吾輩は、そこでなぜだか、
遠い昔の話を思い出していた。
江戸の世、五代将軍・徳川綱吉。
彼が出した
「生類憐れみの令」というお触れは、
人々に「命を大切にせよ」と命じた。
表向きは立派な言葉である。
しかし、庶民の暮らしに降りかかると、
話は変わる。
町人は、
道ばたで犬を追い払っただけで捕まり、
農民は、
畑を荒らす犬を追い立てたとして処罰された。
病気の馬を休ませれば
仕事が止まり、
しかし鞭を振るえば
「生類を憐れまぬ」と責められた。
犬をかくまうために仕事を失い、
罰金で家を手放した者もいたという。
「犬公方のおかげで、
人間より犬の方が偉くなった。」
そんな皮肉が、
当時の江戸には飛び交った。
だけど、
犬が本当に幸せだったわけではない。
野犬は増え、餌は足りず、
病も広がった。
「命を大切にせよ」という立派な言葉が、
制度に変わった瞬間、
板挟みになるのは、いつも庶民である。
吾輩は段ボールの中で、
その構図を思った。
時代は変わり、
欧米人の考え方も変わってきた。
まるで江戸時代の
「生類憐れみの令」のような法律が、
世界のあちこちで生まれはじめた――。
フランスでは
「動物保護先進国」を名乗る
法律が次々と生まれ、
アメリカでは
ペットショップのショーケースが
空洞になる。
江戸の役人が町人の暮らしを見ずに
お触れを出したように、
現代の政治家と官僚と活動家たちは、
まるで江戸時代の
悪代官と越後屋のようだ。
その足もとで、吾輩のような犬と、
吾輩のような犬を愛したい貧しい人間が、
静かに追い詰められていく。
「貧乏人は麦を食え!」
「貧乏人はペットを飼うな!」
「お前たちに住む家はない!」
「あんたに家族を持つ資格なんかない!」
そんな声だけが、
時代を越えてこだましている。
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★第三章 フランスの炎と、移民第3世代
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やがて吾輩は、別の人間に拾われた。
六十七歳の老人だった。
高血圧で、
医者に塩を減らせと言われているらしい。
古びたアパートの一室で、
いつもテレビの音がついている家だった。
ある晩、画面にはパリの街が映っていた。
バイクで夜の路地を走り抜ける若者。
背中には有名ブランドのロゴ。
SNSのフォロワーは百万人を超える、
「移民第三世代のヒーロー」だという。
彼がショーウィンドウを蹴り割る映像に、
スタジオのコメンテーターが眉をひそめる。
「これだから移民三世は信用できない。」
「動物を大事にできないやつが、
人間を大事にできるわけがない。」
いつの間にか、窃盗の話は
不思議なことに「動物虐待」の話と
結びつけられていた。
キャスターは、
嬉しそうに言葉を重ねる。
「フランスは、
世界でも指折りの
“動物保護先進国”です。」
ニュースは、
フランスの誇る制度を並べ立てる。
・ペットショップでの犬猫の生体販売禁止
・犬猫を飼うには、年収・住居の条件
・一日に最低三時間の散歩と遊び
・ケージの大きさ、床材の種類まで細かく規定
・違反すれば罰金と、SNSでの公開処刑
さらに、
他の「生類憐れみ」も紹介する――。
・シャチやイルカのショーは禁止
・サーカスのライオンや象も廃止
・毛皮農場は閉鎖
・水族館は「海の牢獄」と呼ばれ、
新しいイルカの展示は禁止に近い状態
表向きは、美しい言葉が並ぶ。
「これで動物たちは、
ようやく尊厳を取り戻したのです。」
しかし、
郊外の狭いアパートに住む若いカップルは、
肩をすくめる。
「じゃあ、うちらみたいな
ギリギリ家賃を払っている人間は、
犬も猫も飼うなってことだよね。」
画面は、さきほどの暴動に戻る。
移民三世の少年が暴れるたびに、
別のコメンテーターがこう言う。
「彼らは、動物の命の重さを知らない。
野蛮な人種です。
だから人間を簡単に傷つけるのです。」
テレビの前で、拾い主のおじいさんが、
リモコンを握りながらつぶやく。
「ほうかのう。
わしには、
“安いアパートの人間ごと黙らせたい”
ってニュースに見えるけどな。」
ルーブル美術館から
ナポレオンの宝飾品を盗んだとされる、
あの「ヒーロー」の映像も流れた。
彼は「移民差別への抵抗」を叫んでいた。
しかし、政府が急いで通した法案は、
「移民の貧困」ではなく
「犬猫の保護」に向かっていた…。
暴動の原因は、
移民と失業と住宅不足と、
行き場のない怒りのはずなのに、
政治の矢印は、
なぜか「かわいそうな犬」へと
向かっていく。
吾輩は首をかしげた。
――もしかすると、
江戸の生類憐れみの令というものは、
ご飯も満足に食べられない庶民の不満を
そらすための
「苦し紛れの的」だったのかもしれぬ。
そして今、フランスでも、
同じような的が
用意されているのではないかと。
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★第四章 インドネシアとインドの狂犬病
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アパートの裏庭には、
インドネシア出身だという老犬がいた。
難民ならぬ「難犬」として
日本に流れ着いたらしい。
ある日、彼は小さな声で吾輩に語った。
「何十年か前、インドネシアのある島では、
狂犬病が猛威をふるったことがあるんじゃ。」
「貧困とワクチン不足で、
多くの犬が予防接種を受けられず、
噛まれた人間は、
水を怖れ、泡を吹いて、
家族の目の前で死んでいった…。」
彼の記憶は、
生気をなくした病院の廊下の出来事だった。
簡易ベッドに横たわる男が、
コップの水を前にして、
恐怖で身体をそらしている。
「WHO の介入は、
宗教や政治の反発で難航したんじゃ。」
「“犬を殺すな”“命は平等だ”
その信仰は尊い一方で、
結果として
多くの人々の命を失うことになった…。」
さらに彼の話は、
伝え聞いたインドの都市へと移る。
寺の階段を、
数えきれない犬たちが歩いている。
僧侶がパンを与え、
子どもたちが笑いながら撫でている。
「インドでは、犬や牛、猿など、
多くの動物に魂が宿るとされておる。
むやみに殺すことを
良しとしない信仰が広くあっての。」
「それでも今でも、
この国では毎年、およそ2万人が
狂犬病で命を落としておるらしい。
世界の狂犬病死者の
3分の1近くがインドなんじゃと。」
生類を憐れむこと、
それ自体は、美しい。
だけど、貧困とワクチン不足と行政の
機能不全が重なると、
「憐れみ」は、
ときに「地獄」に変わる。
「ワクチンを打つお金がない。」
「動物は殺したくない。」
法律も信仰もバラバラの方向を向き、
最終的に犠牲になるのは、
いつも金のない庶民と、
そして、路上の犬たちであった。
吾輩は、
日本でSNSを炎上させられた女主人を思い出した。
「貧乏人は、
犬を飼っちゃいけないんですか?」
あの問いは――
インドネシアの村にも、
インドの寺院の階段にも、
どこか、ぴったりな気がした。
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★第五章 アメリカのショッピングモールと
ホームレスの橋
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老犬は、アメリカの話もしてくれた。
友達がアメリカにいるらしい。
あるショッピングモールの風景を
彼が教えてくれた。
空きテナントの並ぶ廊下の奥で、
ペットショップだった場所だけが、
妙に眩しかったという。
ガラスのケースはからっぽ。
「閉業しました」と書かれた紙が、
テープで雑に貼られている。
「生体販売禁止法の施行により、
多くのペットショップが
閉鎖に追い込まれたんじゃ…。」
老犬は、
「パピーミルの悲惨な実態」を説明しながら、
人間社会の前進であるかのように語る。
彼の話は止まらない。
アメリカの高速道路の高架下の
景色を思い出す…。
濡れた段ボール、破れたテント、
ショッピングカートに積まれた荷物。
その隣で、痩せた犬が一匹、
縄につながれて寝ていた。
「ホームレスの犬飼いは、
新しい動物福祉条例に
抵触する可能性があるんじゃ…。」
「十分な居住スペース、
定期的なワクチン接種、
毎日の散歩とケアを証明できない場合、
あの犬は行政に保護されるかもな。」
ホームレスの男は小さく笑う。
「この子は俺よりちゃんと食ってるよ。
だけど役所は“犬を守るため”だと言って、
いつか連れていくだろうな。
俺から、最後の家族を。」
犬を守るための法律が、
犬としか生きられない貧しい人間から、
その犬を取り上げる。
そして、ホームレスを取り巻く
デモ隊のプラカードには、
大きくこう書かれている。
「犬にも生きる権利がある」
吾輩は、身震いした。
アメリカの大きな橋の下で震える同胞と、
日本の高架下で捨てられた吾輩自身が、
どこかでつながっているように感じた。
「貧乏な人間には、
生きる権利もないのか?」
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★第六章 東京タワーマンションとペアローン
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ときどき吾輩にエサをくれる通りすがりの人が、
スマホで日本のニュースも見せてくれた。
東京では、ペアローンを組んだパワーカップルが、
金利上昇と物価高とリストラに
追い詰められていた。
高層マンションの夜景はきらびやかだが、
中では電気を消して過ごす家も増えているという。
「毎月、夫30万、妻30万。
二人で返せば大丈夫だと思ってた。
でも、給料は増えないどころか減って、
固定にしなかった金利はじわじわ上がる。
もうすぐ7パーセントだってよ。
子どもを育てる余裕もない。
ペットどころじゃないよ。」
「タワーマンションなんて
買わなきゃよかった!」
インタビューの声は、
ため息まじりに笑っていた。
ペット可マンションのパンフレットには、
芝生のドッグランと
笑顔の家族が描かれている。
「幸せそうな家族…。」
しかし実際には、
修繕積立金と共益費と電気代が、
じわじわと彼らの首を絞めている。
「狂犬病のワクチン?
そんなの、“生活が落ち着いたら”でしょ。」
そう言いながら、
誰かはきっと、
ワクチンを先延ばしにしていく。
「バレなきゃいい。」
「日本に狂犬病なんて流行らないよ。」
「このマンション売って
田舎に引っ込めばなんとかなるよ。」
そんな空気が、
新幹線のような速さで
東京に広まりつつある。
彼らのスマホのどこかには、
かつて吾輩の女主人が書いた投稿と
よく似た言葉が流れているはずだ。
「貧乏人は、
犬を飼っちゃいけないんですか?」
「幸せな家庭を、ワンちゃんと一緒に
築く予定だったのに…。」
「生きちゃダメな人って
私のこと?」
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★第七章 田舎の空き家と、
田んぼの上のデータセンター
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テレビの画面は、
今度は日本の田舎の風景を映した。
山と川、錆びた駅、
そして「空き家バンク」という看板。
「都会を離れ、
犬や猫と静かに暮らしたい人々が、
地方の空き家に移住するケースが
増えています。」
そこには、たしかに希望があった。
ペアローン地獄から抜け出した夫婦が、
古い平屋を直し、
庭で犬を遊ばせている。
しかし、カメラが少し引くと、
その背後に奇妙な建物が見えた。
窓のない巨大な箱。
無機質な壁と、屋上の冷却設備。
「一方で、減反政策で使われなくなった
田んぼの上には、
巨大なデータセンターが
建設されています。」
「膨大なコンピューターを
冷やすため、
大量の地下水が
汲み上げられています。」
村の老人が言う。
「この辺の井戸の水圧が、
最近ちょっと弱うなったんよ。
田んぼもしまい込んでしもうたし、
政府は、
米よりサーバーの方が大事なんじゃろ。」
都会から逃げてきた若い夫婦は、
最初こそその建物を
「なんかすごいね」と笑っていた。
だが、ある夏の日、水道からの水が細くなり、
電気料金がさらに上がり、
村に一つだけあった小さなスーパーが閉まったとき、
彼らはようやく気づく。
「最近頭痛がひどい。
医者に行っても
原因が分からない。」
「地下水から汲み上げた
はずの水道水が、
最近なんだか臭う。」
「なぜか周りの森が枯れていく。
近くでは山火事が発生したみたいだ。」
なんたることか。
自分たちは都会から逃げたつもりで、
もっと大きな
都会の仕組みの下に
入り込んだだけなのだ。
庭を走る同胞の犬だけが、
何も知らずに
嬉しそうに尻尾を振っていた。
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★終章 吾輩は犬である ― ぬくもりの行き先
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こうして吾輩は、
女主人のワンルームから、段ボールの路地裏へ。
そこから別の家へ渡り歩きながら、
先輩犬たちの話や、世界のニュースを聞いて学んだ。
・江戸の生類憐れみの令。
・フランスの暴動と動物福祉法。
・インドネシアとインドの狂犬病。
・アメリカの生体販売禁止と橋の下。
・東京のタワーマンションとペアローン。
・田舎の空き家と、田んぼの上のデータセンター。
どの時代も、どの国も、
看板に書かれている言葉は、だいたい同じだ。
「命を大切に。」
あるいは、少し気取って
「夢を大切に。」
しかし、その言葉が
法律やビジネスや
イメージ戦略に変わった瞬間、
いつも一番苦しむのは、
月末の支払いに追われる人。
家を追い出された人。
橋の下で眠る人。
病気の犬を抱えたまま、
ワクチン代を工面する人。
そういう「名もなき庶民」であった。
吾輩は犬である。
名前はまだない。
だが、人間たちの口から
「命を大切に」とか
「夢を大切に」と聞くたびに、
心のどこかでこう思う。
「貧乏人は、
犬を飼っちゃいけないんですか?」
ほんとうは、答えは
そんなにむずかしくないのかもしれない。
貧しい人のまわりには、
いつも何かの「ぬくもり」が残っている。
・ぎりぎりの家賃を払いながら、
それでも膝の上で眠る犬の体温。
・空き家バンクで手に入れた古い家に、
ポット一つの湯気と、
尻尾を振って迎えてくれる同居人。
・橋の下で震えながら、
自分より先に犬にパンをちぎって渡す手。
世の中が0か1かでしか物事を決めなくなっても、
そこだけは、まだあいまいで、
あったかい。
江戸時代のお偉いお坊さまが
もし令和のニュースを見たら、
こう言うかもしれない。
「えらい人間も、貧乏人も、
みんな迷っている最中じゃ。
せめて、そばにおる者のぬくもりだけは
見失うな。」
吾輩も、そう思う。
高いワクチンも、
立派な法律も、
巨大なデータセンターも、
タワーマンションも、
いつか形を変えるだろう。
けれど、
膝の上で眠る犬の重さと、
その体温に救われる夜は、
きっとこれからも続いていく。
もし、この物語を読んでいる誰かが、
今日、スマホをいったん机に置いて、
自分の足もとにいる
生き物の温かさを
そっと確かめてくれたなら――
それだけで、
吾輩が段ボール箱の中で見た
小さな夢が、一つ叶うのかもしれぬ。
吾輩は犬である。
夏目漱石のいなくなった国で、
それでも誰かを思いやろうとする
不器用な人間たちを、
もう少しだけ
この適度なぬくもりを
信じてみたいと思っている。
――了。




