最終章:語り継ぐもの ― ふたりで、彼を胸に抱いて
数日後、月岡家の奥にある客間には、重苦しい静けさが漂っていた。
中央に据えられた漆塗りの卓を挟み、月岡家当主とさくら、その傍らに控える柊。そして対面には、朝倉家当主と征士郎が並んでいた。
張りつめた空気の中で、当主たちの表情には慎重さと、どこか悔恨にも似た影が浮かんでいた。
月岡家当主の目が、ゆっくりと娘へと向けられる。
「……紫乃。何も伝えずすまなかった」
その言葉に、さくらのまつ毛がわずかに揺れる。
隣の柊も小さく息を呑んだ。
月岡家当主は続けた。
「奴らはすでに捕らえられた。計画は、月岡家と朝倉家が縁を結ぶという噂を耳にした者たちによって、仕組まれたものだった」
その低く重い声に、場の空気がさらに沈む。
「未然に察知はしていたのです。ただ、それが誰の企てかは掴めず、護衛を増やす以外に手が打てませんでした。もっと早くに警告すべきだったと……悔やんでおります」
そう続けたのは朝倉家当主だった。言葉の端々に、責任を共有する意志がにじんでいる。
さくらは唇をきゅっと結び、じっと卓上を見つめていた。柊の手が静かに背を支える。
「本来ならば、二人に真実を隠すべきではなかった。だが……騒ぎ立てれば敵を刺激することにもなると判断し、あえて何も知らせなかった。許してくれ」
さくらは何も言わず、ただじっと当主たちを見つめていた。
朝倉家当主が視線を向ける。
「こんな時に申し訳ないが……それでも、我々は縁談を進めたいと考えている」
静かに、だが確固たる決意を持った言葉だった。
さくらは顔を上げ、征士郎の横顔を見た。彼は視線を逸らさず、正面を見据えていた。
口を開こうとした瞬間、征士郎が先に声を発した。
「……少し、二人で話す時間をいただけますか」
その声は穏やかで、しかし迷いのない響きだった。
さくらも続くように言う。
「私も、そうしたいと思っていました」
その瞬間、二人の心が通じ合ったことを、そこにいた全員が理解していた。
柊が小さく頷き、当主たちもそれを黙って受け入れる。
「では、外の縁側にでも出て話すといい」
障子が静かに開け放たれ、陽の光がやわらかく差し込む。
二人は並んで縁側へと向かった。背中に、静かな視線と、見守る者たちの気配を感じながら。
**
縁側には午前の光がやわらかく差し込んでいた。
風が欄干をなでるように吹き抜けるたび、庭の枝葉がさらさらと音を立てる。ふたりは並んで腰を下ろしたものの、言葉はなかなか出てこなかった。
その沈黙を破ったのは、征士郎だった。
「……さくら」
その声に、さくらの肩がわずかに揺れた。驚いたように彼の方へ顔を向ける。
その音――名前の響きが、頭の奥にある誰かの声と重なって、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……さくや)
あの夜、その名を呼んでくれた声が耳の奥に残っている。
その変化に征士郎はすぐに気づいた。視線をそっと向け、少しだけ目を細めて言った。
「……本当の名前で呼んだ方がいいですか?」
その問いに、さくらはほんの一瞬だけ戸惑い、それから首を横に振った。
「……いいえ。“さくら”と呼んでください」
征士郎は「わかりました。」と頷くと、視線を前に戻して、小さく息をついた。そして、不意に笑みを浮かべる。
「……にしても、“さくら”って顔じゃねぇよな」
冗談交じりのその一言に、さくらは思わず目を見開いた。
「……は?」
素がこぼれたその声に、征士郎は笑いを堪えるように肩を揺らした。
「二人きりなんだし、別に誰にも聞かれてねぇよ」
その口ぶりは、どこかあっけらかんとしていて、いつもの冷静沈着な朝倉家の若き当主とはまるで違っていた。
(本当に……征士郎さま?)
目の前にいるのは、年相応の、少し口の悪い青年――そう思った瞬間、さくらの心にふっと何かが灯った。
この人もまた、家柄や責務に囚われながら、自分にできる形でその役割を全うしようとしていたのだ。
「……それもそうね」
さくらの頬に、ようやくほんの少し笑みが浮かぶ。
縁側を渡る風が、二人の間にあった見えない壁をほんのわずかだけ溶かしていく。
少し緊張がほぐれたのを見計らうように、征士郎がぽつりと呟いた。
「……俺にはさ、弟がいたんだ。」
その言葉に、さくらはまばたきを一つしただけで、表情を変えなかった。
けれどその胸の奥では、はっきりと、名前が浮かんでいた。
さくや。
征士郎の“弟”――それが誰なのかもう知っている。
だからさくらは何も言わず、ただ耳を傾けた。
征士郎は少し体勢を崩すようにして、両手を後ろにつき、足を投げ出した。ほんのわずかにためらってから、視線を落とし、かすれた声で言った。
「俺が十二のときだ。父と雨宿りした山小屋の中で倒れてた。泥と血まみれで、息もろくにしてなかった」
ゆっくりと過去をなぞるように語る声。けれどその目は、やや俯きながら、それでも胸の奥に刺さる記憶を静かに見つめているようだった。
「父がうちまで運んで、医者を呼んで……。名前も、言葉もわからなかった。でも――生きててくれて、嬉しかったなぁ」
その言葉を口にするときだけ、征士郎はふと空を見上げて、小さく微笑んだ。懐かしむような、それでいて切なさの滲む笑み。
――そうだよ。俺は、お前に生きていてほしかった。
(なにやってんだよ、ばかやろう。)
空へ向けるように、誰にも届かない想いが胸の奥でつぶやかれる。
言いにくい話だった。できることなら、さくらに聞かせたくないとさえ思っていた。
けれど――それでも、話さなければならない。
彼が、確かに生きていたこと。自分の名を持ち、心を取り戻して、誰かを想ったこと。
それを知ってほしい。たとえ、どんなに残酷な過去でも。
静かに唇が動いた。
「俺の弟は……ひどい虐待を受けてた。傷だらけだったよ、身体も、心も」
その言葉に、さくらの指が膝の上でそっと握られる。
征士郎はふいに視線を落とし、ぽつりと続ける。
「……目を覚ますとひどく怯えてたんだ。」
さくらは微動だにせず、ただ言葉を失っていた。
征士郎は静かにその様子を見つめ、言葉を続ける前に、少しだけ目を伏せた。
「……もう、誰の話をしてるか分かってるよな」
さくらは震える指先を膝の上でぎゅっと握りしめながら、かすかにうなずいた。
征士郎はそっとさくらの顔を覗き込み、少しだけ眉を下げる。
「……続けても、いいか?」
顔を上げたさくらは、目を赤くしながらもしっかりと頷いた。
征士郎は短く息を吐いて、語り始めた。
「少し経ってからわかったんだが……あいつ、記憶をなくしてた。でもな、怒鳴り声や足音、罵声……そういうもんは身体が覚えてて、ちょっとした音に怯えてた。」
「……ひどい」
小さく漏れたさくらの声は、怒りと悲しみが混じって震えていた。肩も小刻みに震えている。
「だよな。俺、最初に聞いたときは……ただただ怒りしか湧かなかった」
「……」
「だから、俺も両親も……あいつを家族に迎え入れた。戸籍なんてなかったけど、それでも俺は弟ができたことが嬉しかった。さくやと出会えたこと、あいつとふざけ合うのが楽しくて仕方なかった」
その目はどこか遠く、思い出の中を眺めていた。
「それで……記憶が戻ったのが、あの雨の日。」
言葉の意味が胸に突き刺さり、さくらは目を閉じた。唇をぎゅっと噛み締める。
心の中で、点と点が繋がっていく。あのとき見せた、彼の表情――崩れ落ちるように、取り戻してしまった過去。
ポロポロと涙がこぼれる。
あんなに優しい人を――なぜ、あんな表情になるまで追い詰め、傷つけてしまったのか。
怒りと悔しさが胸の奥からこみ上げてくる。唇を噛み締め、震える指先をぎゅっと握る。
「……はぁ……」
大きく息を吐き出し、鋭い睨みを落とすようにして、さくらは低くつぶやいた。
「許せない」
その言葉に、征士郎も眉をひそめ、重くうなずいた。
「――同感だよ」
少しだけ沈黙が落ちたのち、征士郎が続けた。
「今までもな、外に出るのを怖がってたから……俺はできるだけ、あいつが安心できるように守ってきた。畑仕事とか、そういうことを少しずつ任せて、外の空気に慣れさせて。でも――買い出しに行かせたのは……俺の間違いだったと思った。あれで記憶がよみがえって、心をまた閉ざしたから」
「……」
「でもな、そのすぐあとに……とんでもない客が来たんだよ」
少し顔をしかめて、肩をすくめる。
「毎日毎日しつこくさくやに"会わせてくれ”って。断っても断っても来たんだ......9日間も!……あれは厄介な客だった」
ふいに、征士郎がさくらの顔をじっと見て、わざとらしく言った。
「……ほんと、しつこかったなあ、あの人」
その瞬間、さくらの顔に怒気が走る。
「……悪かったですね! しつこくて!」
涙が引き怒りで立ち上がりかけるさくらに、征士郎は声をあげて笑った。
「やっぱり“さくら”なんて柄じゃねえよ!」
さくらも思わず吹き出し、笑いながら手のひらで征士郎の腕を叩いた。
「なによそれ……!」
さくらの怒った顔を見て、征士郎はクククと笑い声を漏らした。まるで子どもをからかうような調子なのに、どこか優しさが滲んでいた。
その気遣いに、さくらはふと肩の力を抜く。
――征士郎も優しい人だ。あの人みたいに。
ふふっと目線を落とし、小さく笑う。
「……さすが兄弟ね」
ぽつりと、思わずこぼれたその言葉に、征士郎が眉をひそめた。
「ん? なんか言ったか?」
さくらはふいに顔を上げ、いたずらっぽく笑ってみせた。
「なにも?」
「おい、絶対なんか言っただろ……」
征士郎がぐっと身を乗り出すようにして問い詰めてくる。その顔が妙に真剣で、思わず笑いそうになる。
「教えなーい!」
ぷいっとそっぽを向くさくらを見て、征士郎は呆れたように笑った。
その横顔を見たとき、不意に胸の奥にあたたかい感情が湧き上がる。
……さくやが惹かれるの、なんとなくわかった気がした。
ざざっと風が吹いた。
やさしく、心地よい風。
葉が揺れ頬に触れる空気が、少しだけ涼しい。
胸の奥のざわめきがそっと撫でられていく。
征士郎はふと真剣な表情になった。
空気が変わったのを、さくらはすぐに感じた。
征士郎が、ゆっくりと口を開く。
「……想ってたよ。お前のこと」
「え……?」
征士郎は目を伏せ、小さく息を吐いた。
――あの夜のことを、口にするのは初めてだった。
闇に紛れた影に襲われたあの晩。
さくやーーいや、千歳は、命をかけて征士郎を守った。
迷いも恐れもなかった。ただまっすぐに。
その命が尽きる、その瞬間まで。
そして――
「……最後に言ったんだ。“さくら”って。お前の名前をちゃんと呼んだ」
さくらの視線が、そっと征士郎を見つめる。
「千歳」
「ち、とせ……?」
「弟の本当の名前は朝倉千歳。……そう名乗った。あいつが自分の意志で、自分の名前を」
少し間を置いて、征士郎は言葉を継いだ。
「……あとな、あの晩千歳はちゃんと行くつもりだったよ。」
もう、堪えきれなかった。
嗚咽がこぼれ、全身が震える。
さくらは征士郎の胸にすがりつき、そのまま泣き崩れた。
征士郎の手がそっとさくらの背中を撫でる。
その声に気づいたのか、襖の向こうで動きがあった。柊、そして両家の当主が駆けつけようと襖を開けかけ――
けれど、その姿を目にして立ち止まる。
征士郎の胸に抱かれ、泣いているさくらの姿。彼の大きな手が、優しくその背をなでている。
その光景に、誰もが言葉を失いそっと襖を閉じた。
――この二人なら大丈夫だ。
柊は胸の奥でそう呟いた。
あの2人があそこまで……それほど彼が――大切な存在なのだ。
そしてーー
朝倉家と月岡家の間にて、正式に縁組の話がまとまり、二人は婚約の儀を交わすこととなった。
慎ましくも格式ある席にて、双方の家中が見守る中、二人は向き合い、互いに深く頭を下げる。
「末永く、よろしくお願い申し上げます」
***
春の風が、ふと頬を撫でていった。
ほころび始めた桜の花が、ざわりと揺れる。咲き誇るにはまだ早いこの時期、枝の合間からこぼれるような淡い花びらが、春の訪れをそっと告げていた。
――もう一年か。
湖の再会から、幾度かの季節を経た。千歳の記憶をたどる日々。話し合い、泣き、笑い合い、やがてお互いの隣にいる未来を自然に思い描くようになった。
祝言は静かに、けれど温かく執り行われた。にぎやかさよりも、寄り添う心が何よりの贈り物のようだった。
そして今――
さくらは縁側に座り、柔らかな夜風の中に身を預けていた。
ふと空を仰ぐ。雲の切れ間から覗く、細く、静かな三日月。
それはまるで、あの夜の光景そのままのようで――
「……三日月」
小さく漏れた声に、後ろから近づいてきた征士郎が足を止めた。
「……行きたいのか? 湖に」
声は、どこか遠慮がちだった。二人だけの特別な場所。それを壊すことになるのではと、彼なりに気にしているのだろう。
「なにそれ。やきもち?」
少し意地悪に笑いながら振り返ると、征士郎はあからさまに眉を寄せた。
「そ、そんなわけあるか!」
むきになって否定するその顔に、思わずくすりと笑ってしまう。
「ふふっ、かわいい」
そのまま立ち上がり、彼の手をそっと取る。
「夜明けの三日月がとても綺麗なの。......一緒に行かない?」
征士郎の目が、一瞬見開かれる。そして、ふっと優しく細められた。
「……ああ」
ほどなくして、柊の付き添いのもと、三人はあの湖を目指した。
小道を抜け、やがて静寂に包まれた湖へと辿り着く。水面は風に揺れ、月の光を映して優しく煌めいていた。
あの時と変わらない、湖の景色。風の匂いも、波の音も、何もかもが、記憶に刻まれていたまま。
……いや、ひとつだけ違う。
今、隣にいるのは――千歳ではない。
それでも、彼はたしかに生きていた。
命を繋ぎ、そしてその想いを託してくれた。
長い沈黙が流れる。
「……もう少し、ここにいることはできる?」
さくらの問いに、征士郎は無言で頷いた。
「……あ、もうすぐよ」
さくらが湖の向こうを指差す。
何かを言いたげなその指先に、征士郎の視線が誘われる。
「……!」
息を呑む。
空にはまだ三日月と星々が残っているのに、東の空はすでに夜明けの気配に染まりはじめていた。空は紺色から始まり、水色、黄緑へと少しずつ明るくなっていく。地平線近くでは、橙がにじみ出し、最後に赤が朝を知らせるように滲んでいた。
「なんだこれ……」
呟くように言った征士郎の声は、息そのものだった。
さくらはふふっと笑った。
「でしょ?」
(あの時と同じ景色。……私と全く同じ顔してるわ。……ね、千歳もそう思わない?)
その瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
春を運ぶ風――まるで誰かの返事のように。
湖の水面が揺れ、空には、夜明けを待たずに虹のような光がにじみ、
三日月が、彼を思わせるように、静かに、力強く輝いていた。
さくらの目には、うっすら涙が浮かぶ。
「……改めまして――朝倉紫乃と申します」
そっと三日月に向かって、小さくつぶやくように言う。
征士郎が隣に戻り、彼女の手をそっと握った。
「……帰ろうか」
「……はい」
ふたりは並んで歩き出す。
「……じゃあ――」
「――またね」
どちらともなく重なった声が、湖に優しく響いた。
夜風が、木々を揺らしながら通り過ぎ、静かに水面をなぞる。
その奥で、三日月が――千歳のように、静かに、どこまでも優しく輝いていた。
──完。




