第8章:過去の痛みを越えて ― ぼくはもう、隠れない
新月の夜。
空は雲に覆われていたが、雨は降っていなかった。しんと静まり返った空気の中、さくやは一人、屋敷の縁側に立っていた。
――行こう。
だが、足を踏み出した瞬間、さくやの背中をぞくりとした気配が走り抜けた。闇に紛れて誰かがいる。じっとこちらを窺っている……そんな気がした。
「……誰?」
声をひそめ、気配の方へと向かう。月明かりすらなく、顔どころか姿すらよく見えない。だがその者はさくやを見るなり、すっと何かを抜いた。
「征士郎……見つけたぞ」
その言葉が耳に届いたとき、さくやの心臓が跳ねた。
――征士郎……?
瞬間、賊の腕が振り上がる。鋭い小刃が、月のない夜を切り裂くように煌めいた。
さくやの頭に、幼い頃の記憶が弾けた。物陰で震えていた日々。叱責と罵声が飛び交う部屋。震える手を握ってくれた、征士郎の優しいぬくもり。
足がすくみ、動けなかった。
息が詰まり、呼吸すら忘れていた。
――だめだ、また……あのときと同じように……だけど!
さくやの中で何かが弾けた。
(……征士郎は殺させない!)
張り裂けるような声とともに、さくやは飛び込んだ。
刃を恐れ、声を恐れ、大人を恐れてきた少年はもういない。
守りたいもののためなら――恐怖すら超えられる。
激しい音と叫びが屋敷を揺らす。
「さくや!」
駆けつけた征士郎が叫ぶ。さくやと賊がその声に反応し、視線を向けた。
「征士郎か……!」
さくやの腕を振りほどいた賊が、征士郎へと襲いかかる。
征士郎は思わず身構えるが、あまりの急な事態に反応が追いつかない。後方から父親が駆け寄るも、間に合わない――。
「ぐっ……!」
刺されたのは――さくやだった。
「……させない!絶対に!!」
賊を睨みつけ、刃を両手で掴む。
そのまま全身の力で押し倒す。庭に倒れ込むさくやと賊。刃がさらに深く食い込むのがわかった。
「さくや!」
征士郎の叫びが夜を裂く。
賊を押さえつける父親。声を聞きつけ、近隣の男たちが駆けつけ、賊は瞬く間に取り押さえられた。
「医者を呼んでくれ!」
父親が怒声を上げる。
征士郎は血の中に倒れるさくやのもとへ駆け寄る。
「おい、さくや……さくや!」
「……はぁ、はぁ……よかった……よかった……」
血に濡れた唇からこぼれたその言葉に、征士郎は震える手でさくやの傷を抑えた。
「今、医者を呼んでる。大丈夫だからな!」
さくやは征士郎の手をぎゅっと握る。
「……すごい顔、ははっ」
その笑顔が痛々しくて、泣きそうになる。
「何笑ってんだよ……大丈夫だからな、絶対に……!」
「うん、でも……」
さくやは言葉を飲み込み、痛みを噛み殺すように唇を結ぶ。
「もういい、話すな。黙ってろ。すぐ……!」
その言葉を遮るように、さくやが征士郎の手を強く握る。
大きく息を吸い込み、さくやの目が征士郎を真っすぐに見つめる。
瞳が揺れる。だがその奥には確かな光があった。
「……改めて、はじめまして。朝倉......千歳と、申します。年は、一六。……ここは、ぼくの家で......あなたは、......あなたは、ぼくの大切な兄さんだ……なんて。ははっ……」
征士郎の喉が詰まる。
脳裏に、あの日の出会いが蘇った。
――
少年に、膝をついて差し出した手。
「……改めて、はじめまして。朝倉征士郎と申します。年は、十二。……ここは、俺の家だから、安心していい」
――そう、怯えた小さな背中を守りたい一心で、ただ名乗った。あの時の、自分の言葉。
そして今、血に濡れたさくやーーいや、千歳が、弱々しく微笑む。
命の灯が揺らいでいると知りながら、それでも笑って――
やっと、ようやく名乗ってくれた。
「――まねすんなよ、ばか」
どうしようもなく泣きたくなって、必死に笑みを作る。
それでも、しっかりと言葉にした。
「千歳。お前は間違いなく、この家の子で、俺の大切な弟だ」
征士郎の腕の中で、千歳はふっと、安心したように頷き、目を細めた。
(ありがとう。兄さん。父上、母上......)
その瞼の裏に、静かな湖の光景が浮かぶ。
――そっと見つめてくれた、あのひとの瞳。ぬくもり。風に揺れる髪。
「……さく……さ……」
小さく、かすかに囁いたその名前に、想いが滲んでいた。
言いたかった、本当の名前を。――あのひとにも、ちゃんと。
征士郎は、しっかりとその声を聞いた。
「千歳……」
呼びかけた声に、応えるように千歳の口元がわずかにゆるむ。
そのまま、千歳は征士郎の腕の中でそっと目を閉じた。
風がひとすじ吹き抜け、静かに、静かに――その身を包んでいった。
**
その夜、湖ではさくらがそっと水面を見つめていた。
風が揺らした髪を、柊がそっと結い直す。
「……今日は、来ないみたいですね」
「……うん。雨が降りそうだからかな……」
「……降らぬうちに帰りましょう」
「……わかったわ」
名残惜しそうに水面を見つめるさくらの頬に、一粒の雨が落ちる。
小雨の中、二人は静かに屋敷へと帰っていった。
村の端をかすめて戻った頃、屋敷の方からただならぬ騒ぎが聞こえてきた。提灯の明かりがいくつも走り、声が飛び交っている。
何事かと胸騒ぎを覚えるが、今はまずさくらを見咎められぬよう戻さねばならない。
「お嬢様、急ぎましょう。誰にも見つからぬうちに――」
柊の促しに、さくらは頷いた。下駄の音を忍ばせ、裏口から静かに屋敷に入ると、二人は人目を避けて部屋へと戻った。襖を閉めた瞬間、息を詰めて顔を見合わせる。
……その直後だった。
バン!!
襖が勢いよく開かれ、父が現れた。その尋常ならぬ気配に、さくらと柊は一瞬にして固まる。
(……バレた?)
滲む額の汗を手の甲で拭いながら、さくらは内心で呻いた。
(どうしよう……)
しかし、父の様子は思いがけず取り乱していた。額に汗を浮かべ、肩で息をしている。
「……はぁ、はぁ……無事でよかった。柊、悪いが、今夜はこの子のそばを離れるな」
「かしこまりました。……しかし、外が騒がしいようですが、何か――」
言葉を遮るように、父が娘の方を見つめ、声を低くした。その声音には、ただ事ならぬ響きがあった。
「……お前に、話しておくことがある」
「え……?」
その瞬間、廊下の奥から足音が駆け寄り、家来の一人が襖の前で深く頭を下げた。
「旦那様――襲われたのは、朝倉家にございます!」
「なに!?」
父の顔色が変わる。さくらの中で何かが崩れ、胸が早鐘のように打ち始めた。
(朝倉家が……? そんな、どういうこと……)
「当主様、母君もご無事とのこと。襲った賊はすでに取り押さえました。ただ、いま手配しているのは、賊に指示を出した人物で――」
父は安堵の息を漏らすが、さくらの思考は混乱していた。
(みんな、無事って……じゃあ……)
(さくやは?)
名前を呼ぶことさえ恐ろしいような、胸を締めつける不安の中。次の言葉が、すべてを凍らせた。
「……狙いは?」
「……征士郎さまにございます」
「……!」
父の顔が引き攣り、額に冷や汗が滲む。その言葉に、さくらの血の気が引いていく。
(征士郎さまが狙われた? じゃあ……じゃあさくやは……)
「……やはり……」
父は低く呟き、拳を握りしめた。対応が遅れたことへの悔しさが滲む。
「それで……彼は……征士郎は無事なのか?」
「はい。征士郎さまは――」
その言葉が終わるよりも早く、さくらが駆け出した。
「さくやは!? さくやは無事なの!? 教えて、お願い!!」
家来の胸ぐらを掴み、震える手で揺さぶる。声は裏返り、涙が滲む。
「……お嬢様っ!」
柊があわてて駆け寄り、さくらを引き剥がそうとする。父も思わず手を伸ばした。
「落ち着きなさい!」
だが、さくらは耳に届かぬかのように、家来に縋りついたまま声を震わせる。
「さくやは……お願い答えて……っ!」
家来はその姿に戸惑い、驚きを隠せずに言葉を詰まらせた。
「……お嬢様、さくやという人物をご存知で……?」
さくらは顔を上げ、恐怖に染まった目で強く頷く。呼吸は荒く、声も出ない。
柊は焦りに眉を寄せた。
(まずい……これは……)
父もさくらの尋常ならぬ様子に目を細めた。
「どういうことだ。……さくやとは誰だ?」
家来は一瞬迷ったものの、しっかりと伝えねばと覚悟を決め、口を開いた。
「征士郎さまは“弟”とおっしゃっており、朝倉家当主も“息子”と……」
「……弟がいたのか……」
父の声に重なるように、家来が続けた。
「……はい。そのさくやさまが征士郎さまを庇い......先ほど息を引きとられました」
その瞬間、さくらの中で何かが崩れ落ちた。
胸が締めつけられ、呼吸ができない。
全身の血の気が引いていき、世界の音が遠のいていく――
――バタン。
音もなく、さくらの身体が崩れ落ちた。
「お嬢様!!」
柊が駆け寄り、必死に受け止める。
「医者を呼べ!!」
父の叫びが、夜の騒乱の中に響き渡った。
月が雲間に隠れ、静かな風が、部屋の外を吹き抜けた。
**
ふいに意識が浮上した。薄く目を開けると、見慣れた天井がぼんやりと視界に映る。
(……ここは、部屋……? 私、どうして――)
ゆっくりと頭を起こすと、身体の重さに気づく。呼吸が浅く、胸の奥がまだひどく痛んでいた。
思い出す。張り詰めた空気。走った廊下。叫んだ声。そして――
(……さくや……)
ゾクリと背筋を寒気が走る。
(……夢、だったの?)
思わず自分の手を見つめる。
(……夢だったんだよね? そうでしょ……?)
淡い期待が胸をよぎる。だがその希望は、すぐに崩れ去った。
「……目が覚めたか」
聞き慣れた、父の低く穏やかな声。隣には心配そうな顔の柊。
現実が、そこにあった。
喉の奥から押し寄せるように感情がこみあげ、さくらの目から、静かに涙がこぼれ落ちた。
止まらない。手で拭っても、次から次へと溢れてくる。
父親は黙って隣に座ると、そっと背中に手を添えた。
「……大切な人だったのか」
その一言に、はっとして顔を上げた。
父は静かに視線を落としながら続ける。
「……すまん。柊から話は聞いた」
視線を横に向けると、柊が申し訳なさそうに一礼する。
(……そう、だよね。あんなに取り乱したんだもの……)
咎める気にはなれなかった。あれだけ感情を剥き出しにしてしまった自分を思えば、当然のことだった。
涙をぬぐいながら、さくらはようやく唇を開いた。
「……どうして、襲われたの?」
震える声。それでも、どうしても知りたかった。
父はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……そのことだが、朝倉家を呼んで、改めてちゃんと話をしたいと思っている」
その言葉に、さくらの胸がざわめいた。
(……縁談の話、かもしれない)
けれど、それよりも先に聞かねばならないことがあった。
なぜ、さくやが命を落とさねばならなかったのか。
それはきっと、朝倉家が知っているはず――。
そう思った瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
知らなければいけない。けれど、知りたくない。
いますぐに会いたい。話したい。
あの人の声が聞きたい。
あの静かな目で、また笑ってほしい。
何も言わず、ただ隣にいてくれるだけでよかった。
手を伸ばせば届く場所に、彼はもういない。
それを受け入れるなんて――そんなの、できるわけがない。
――だけど。
大切だった。心から、誰よりも。
だからこそ、私はいま現実と向き合わなければならない。
「なかったこと」にするのは簡単だ。見ないふりをすることも、できるかもしれない。
でもそれでは、きっと私は、あの人を……本当に大切にしていたとは言えなくなる。
(私はどうしたいの……?)
泣きたい。叫びたい。すべてを壊してしまいたい。
だけど、それは違う。私は……真実が知りたい。
あの人が、どんな思いで何を守ろうとしたのか。
それを知るためには、あの人の死を――受け入れなければいけない。
心の中で泣き叫びながら、さくらは少しずつ、立ち上がるように気持ちを整えていった。
悲しみにしがみつきたい心と、前を向きたいという思いがせめぎ合い、絡み合う。
……でももう、目を逸らさない。逃げない。
涙を拭い、さくらは顔を上げる。
「……わかったわ」
まっすぐに父の目を見て、強く頷いた。
その視線を真正面から受け止めた父もまた、ゆっくりと頷いた。
そうして――
物語は、再び動き出す。
失われた温もりを胸に、真実を知るために。




