心ほどける夜 ― 静けさの裏で、影が動く
雨音が屋敷の軒を叩いていた。
昨日も雨、そして今日も雨。
「また雨……」
窓の外を見つめたまま、さくらはふくれっ面でつぶやく。
前日の雨で彼には会えなかった。今日も会えないのかと思うと、胸の奥が重たく沈む。
「明日晴れてねって言ったじゃない!」
怒りを空にぶつけるように、さくらは声を張った。
柊が後ろからそっと声をかける。
「自然の摂理ですから、仕方ないことかと……」
「……」
返事はない。柊は静かに肩をすくめた。今日は一日不機嫌なままかもしれない。そんな予感がした。
けれど、午後になると雨は徐々に弱まり、雲の切れ間から陽が差し込んだ。
庭に降り立つ光に気づいたさくらは、ぱっと表情を輝かせる。
「雨が止んだわ!」
柊の方を向いて、嬉しそうに言う。
「このまま降らなければ……彼、来るわよね?」
その声に混じるのは、喜びと、ほんの少しの不安。
彼は“雨の日には行かない”と言っていた。
でも今は、もう降っていない。ならきっと来てくれる──そう信じたい。
**
「……止んだ」
ぽつりと呟いたさくやに、征士郎が問いかける。
「今日行くのか?」
「……降らなければ」
「行く時は言えよ」
「わかってるよ」
そう答えながらも、さくやの胸の内は揺れていた。
──彼女は来るだろうか。
いや、違う。彼女が来ようが来まいが、ぼくはひとりで行くつもりだった。
心の中でまるで自分をなだめるように言い聞かせる。
それでも、口をついて出たのは小さな願いだった。
「……雨が、降りませんように」
誰にも届かないほど小さな声で、空を仰ぎながら。
**
湖のほとりには、先にさくらと柊が着いていた。
周囲を見回し柊が静かに言う。
「……いませんね」
「早く着きすぎたのかも。少しだけ待ってみるわ」
さくらはそう言って、ひとり湖の方へと歩き出す。
──ガサガサ。
茂みの奥から、物音がした。
「……!」
現れたのは、さくやだった。
柊はほっとしたように微笑み軽く一礼する。そして視線をさくらの方へと向ける。
“彼女は湖の方へ行きました”という無言の合図。
さくやもまた、深く一礼を返し、静かに湖の方へと歩みを進める。
「……こんばんは」
突然の声に、さくらはびくっと肩を跳ねさせた。
「すみません、そんなに驚くとは……」
振り向いたさくらは、さくやの顔を見ると頬をわずかに染めながらも平静を装って言う。
「いないから、来ないのかと思った」
「雨は止んだので……それに、好きですから」
「す、すき……」
心臓が跳ね上がる。顔が一気に熱くなる。
けれどさくやはそのまま空を見上げた。
「……雨上がりの空が」
落胆。思わず、じとっと睨むようにさくやを見るさくら。
「……なんですか?」
「そうね、綺麗よね。あ・め・あ・が・り!」
「……はぁ……」
困惑の息が漏れる。
「そんなに違うの?」
「はい。雨で空気が澄み渡って、鮮やかで綺麗なんです」
さくやの声が少しだけ弾んだ。
嬉しそうに語る横顔に、さくらは胸を高鳴らせた。
その穏やかな表情を見るたびに、心があたたかくなる。もっと見たい。もっとその笑顔を。
ふと、手を伸ばしかけた。
──触れたい。そう思った。
けれど、すぐに我に返り、手を引っ込める。
じっとさくやの横顔を見つめる。
その視線に気づいたのか、さくやが「ん?」と優しい笑みを浮かべた。
「……!」
顔が一気に真っ赤になり、慌てて背ける。
「どうかしましたか?」
「だ、大丈夫。なんでもない」
沈黙が訪れた。でもその沈黙は、心地よい。
**
やがて、空が少しずつ白んでいく。
夜明けが近い。
「……!」
さくらが思わず立ち上がる。
目の前に広がるのは、幻想的な光景だった。
空は虹のように広がるグラデーション。
湖面には、その美しい空がそのまま映り込み、静かに揺れている。
そして──空と湖、両方に浮かぶ三日月。
「うわぁ……」
声にならない感嘆の息。
「言ったとおりでしょ?」
さくやの声に、さくらは頷く。
「ええ、本当に……綺麗」
彼の隣でただ景色を見ているだけなのに、心は満たされていた。
「……帰りましょうか」
さくやが優しく声をかける。
「……次は新月?」
「そうですね」
もっと一緒にいたい──けれど、それは言葉にできなかった。
「じゃあ、またね、さくや」
「……帰り、気をつけてください。さくらさん」
二人は静かに別々の道を歩き出した。
空にはまだ、淡い三日月が残っていた。
**
木漏れ日が差し込む中庭で、さくらはひときわ明るい笑顔を浮かべながら花に水をやっていた。朝の光を浴びて咲き誇る花々に、「あなたたちはいいわね」と囁くように話しかけながら、小さなジョウロを傾ける。
「次は新月かぁ......会いたい」
小さく呟いたその声は、誰にも聞こえることはなかった。
「お嬢様、次の訪問先の準備が整いました」
控えていた柊が、ひとつ深く頭を下げる。
「ありがとう、すぐ行くわ」
変わらぬ日常。変わらぬ彼女の毎日。
けれど、その静けさの裏で、いくつもの思惑が水面下で渦を巻き始めていた――
「縁談の件、こちらとしても慎重に進めたいと考えている」
月岡家の広間。襖を締め切った静かな空間に、月岡家の当主の声が落ち着いて響いた。
「もちろんです。征士郎にもまだ話していませんが、私も同じ気持ちです」
柔らかに応じたのは、朝倉家の当主。普段は陽気に村人たちと語らう男も、この時ばかりはその表情を引き締めていた。
「ですが……最近、ほんの僅かですが、何か我が家を探っている気配があるように思えてなりません」
「……探る、とは?」
「言葉の通りです。誰が何を求めているのかはわかりませんが、目に見えぬ気配にしては、あまりにも……意図的すぎる」
「それは、気がかりだな。何かあってからでは遅い。こちらも警備を増やすとしよう」
「ご配慮、感謝します。……征士郎は1人で出歩くこともある。できれば、しばらくは屋敷から出ぬよう言い含めたいところですが、あの子の性格ですからな……」
「うむ。だが、その自由さもまた、あの子の良さだ」
「ええ。だからこそ、万が一のことがないよう……見えぬ敵に、備えておきたいのです」
二人の男は視線を交わし、短く頷き合った。その背後で、誰にも知られぬ静かな炎が、徐々に燃え上がろうとしていた。
・・・
「……また断られたのか」
ほの暗い小部屋に、苛立ちを隠さぬ声が響く。
「そうだ。月岡の当主、どんな縁談話を持ち掛けても首を縦に振らない。よほど、あの娘の結婚相手は決めているらしい」
「だが、名前が上がらないのはおかしい。表に出てこないのなら、内密に決まっている可能性もある。……そこで聞いた話だが、あの娘以前何度も朝倉家を訪れていたという噂がある」
「……朝倉家か。なるほど、筋は通る。格式で見ても、住民からの信頼で見ても、あの家ならば月岡と並ぶ力を持っている」
「それが繋がればどうなる。我らの家が、ただでさえ傍流扱いされているというのに、完全に立つ瀬がなくなる」
「ならば……」
沈黙が落ちる。やがて男が口を開いた。
「……消すしかない。婚約が正式に決まる前に」
「だが問題はある。月岡家の娘には護衛が多すぎる。隙がない。だが、征士郎は……夜中に出歩く習慣があるらしい」
「ふん。狙うならそこだな。だが、夜に出てこなかったら? あるいは……朝倉家の父親に見つかれば、一瞬で返り討ちにあうだろう。騒ぎが起きれば、我らの身も危うい」
「ならば……寝所を襲う」
一人が低く囁いた。
「もし外に出なければ、寝込みを。屋敷に忍び込むことも、できない話ではない」
「それも含めて……決行は次の新月。月明かりのない夜にしかない。あの闇なら気配を殺せる」
「……決まりだな」
重苦しい合意の言葉が、小さな部屋を満たしていく。
**
その夜、さくらは静かな寝室で、窓の外を見つめていた。白く細い月が、雲の隙間に姿をのぞかせている。
「もうすぐ……会えるわね」
胸の奥が熱くなるのを感じながら、彼女は目を閉じた。あの湖のほとり、あの声、あの笑顔――
そして、どこかで彼もまた、同じ空を見ていてくれるような気がしていた。
次の新月が訪れれば、きっとまた――
そのとき、自分たちが待ち望んでいるその夜に、別の思惑が動き出していたことなど、知る由もなかった。




