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仮初の夜に咲く  作者: 月海
第7章
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心ほどける夜  ― 静けさの裏で、影が動く

雨音が屋敷の軒を叩いていた。

昨日も雨、そして今日も雨。


「また雨……」


窓の外を見つめたまま、さくらはふくれっ面でつぶやく。

前日の雨で彼には会えなかった。今日も会えないのかと思うと、胸の奥が重たく沈む。


「明日晴れてねって言ったじゃない!」

怒りを空にぶつけるように、さくらは声を張った。


柊が後ろからそっと声をかける。

「自然の摂理ですから、仕方ないことかと……」


「……」


返事はない。柊は静かに肩をすくめた。今日は一日不機嫌なままかもしれない。そんな予感がした。


けれど、午後になると雨は徐々に弱まり、雲の切れ間から陽が差し込んだ。

庭に降り立つ光に気づいたさくらは、ぱっと表情を輝かせる。


「雨が止んだわ!」

柊の方を向いて、嬉しそうに言う。

「このまま降らなければ……彼、来るわよね?」


その声に混じるのは、喜びと、ほんの少しの不安。

彼は“雨の日には行かない”と言っていた。

でも今は、もう降っていない。ならきっと来てくれる──そう信じたい。


**


「……止んだ」


ぽつりと呟いたさくやに、征士郎が問いかける。

「今日行くのか?」


「……降らなければ」


「行く時は言えよ」


「わかってるよ」


そう答えながらも、さくやの胸の内は揺れていた。

──彼女は来るだろうか。


いや、違う。彼女が来ようが来まいが、ぼくはひとりで行くつもりだった。

心の中でまるで自分をなだめるように言い聞かせる。


それでも、口をついて出たのは小さな願いだった。


「……雨が、降りませんように」


誰にも届かないほど小さな声で、空を仰ぎながら。


**


湖のほとりには、先にさくらと柊が着いていた。


周囲を見回し柊が静かに言う。

「……いませんね」


「早く着きすぎたのかも。少しだけ待ってみるわ」


さくらはそう言って、ひとり湖の方へと歩き出す。


──ガサガサ。


茂みの奥から、物音がした。


「……!」


現れたのは、さくやだった。

柊はほっとしたように微笑み軽く一礼する。そして視線をさくらの方へと向ける。

“彼女は湖の方へ行きました”という無言の合図。


さくやもまた、深く一礼を返し、静かに湖の方へと歩みを進める。


「……こんばんは」


突然の声に、さくらはびくっと肩を跳ねさせた。


「すみません、そんなに驚くとは……」


振り向いたさくらは、さくやの顔を見ると頬をわずかに染めながらも平静を装って言う。


「いないから、来ないのかと思った」


「雨は止んだので……それに、好きですから」


「す、すき……」


心臓が跳ね上がる。顔が一気に熱くなる。

けれどさくやはそのまま空を見上げた。


「……雨上がりの空が」


落胆。思わず、じとっと睨むようにさくやを見るさくら。


「……なんですか?」


「そうね、綺麗よね。あ・め・あ・が・り!」


「……はぁ……」


困惑の息が漏れる。


「そんなに違うの?」


「はい。雨で空気が澄み渡って、鮮やかで綺麗なんです」


さくやの声が少しだけ弾んだ。

嬉しそうに語る横顔に、さくらは胸を高鳴らせた。

その穏やかな表情を見るたびに、心があたたかくなる。もっと見たい。もっとその笑顔を。


ふと、手を伸ばしかけた。

──触れたい。そう思った。


けれど、すぐに我に返り、手を引っ込める。


じっとさくやの横顔を見つめる。

その視線に気づいたのか、さくやが「ん?」と優しい笑みを浮かべた。


「……!」

顔が一気に真っ赤になり、慌てて背ける。


「どうかしましたか?」


「だ、大丈夫。なんでもない」


沈黙が訪れた。でもその沈黙は、心地よい。


**


やがて、空が少しずつ白んでいく。


夜明けが近い。


「……!」


さくらが思わず立ち上がる。

目の前に広がるのは、幻想的な光景だった。


空は虹のように広がるグラデーション。

湖面には、その美しい空がそのまま映り込み、静かに揺れている。

そして──空と湖、両方に浮かぶ三日月。


「うわぁ……」

声にならない感嘆の息。


「言ったとおりでしょ?」


さくやの声に、さくらは頷く。


「ええ、本当に……綺麗」


彼の隣でただ景色を見ているだけなのに、心は満たされていた。


「……帰りましょうか」


さくやが優しく声をかける。


「……次は新月?」


「そうですね」


もっと一緒にいたい──けれど、それは言葉にできなかった。


「じゃあ、またね、さくや」


「……帰り、気をつけてください。さくらさん」


二人は静かに別々の道を歩き出した。


空にはまだ、淡い三日月が残っていた。


**


木漏れ日が差し込む中庭で、さくらはひときわ明るい笑顔を浮かべながら花に水をやっていた。朝の光を浴びて咲き誇る花々に、「あなたたちはいいわね」と囁くように話しかけながら、小さなジョウロを傾ける。


「次は新月かぁ......会いたい」


小さく呟いたその声は、誰にも聞こえることはなかった。


「お嬢様、次の訪問先の準備が整いました」


控えていた柊が、ひとつ深く頭を下げる。


「ありがとう、すぐ行くわ」


変わらぬ日常。変わらぬ彼女の毎日。


けれど、その静けさの裏で、いくつもの思惑が水面下で渦を巻き始めていた――


「縁談の件、こちらとしても慎重に進めたいと考えている」


月岡家の広間。襖を締め切った静かな空間に、月岡家の当主の声が落ち着いて響いた。


「もちろんです。征士郎にもまだ話していませんが、私も同じ気持ちです」


柔らかに応じたのは、朝倉家の当主。普段は陽気に村人たちと語らう男も、この時ばかりはその表情を引き締めていた。


「ですが……最近、ほんの僅かですが、何か我が家を探っている気配があるように思えてなりません」


「……探る、とは?」


「言葉の通りです。誰が何を求めているのかはわかりませんが、目に見えぬ気配にしては、あまりにも……意図的すぎる」


「それは、気がかりだな。何かあってからでは遅い。こちらも警備を増やすとしよう」


「ご配慮、感謝します。……征士郎は1人で出歩くこともある。できれば、しばらくは屋敷から出ぬよう言い含めたいところですが、あの子の性格ですからな……」


「うむ。だが、その自由さもまた、あの子の良さだ」


「ええ。だからこそ、万が一のことがないよう……見えぬ敵に、備えておきたいのです」


二人の男は視線を交わし、短く頷き合った。その背後で、誰にも知られぬ静かな炎が、徐々に燃え上がろうとしていた。


・・・


「……また断られたのか」


ほの暗い小部屋に、苛立ちを隠さぬ声が響く。


「そうだ。月岡の当主、どんな縁談話を持ち掛けても首を縦に振らない。よほど、あの娘の結婚相手は決めているらしい」


「だが、名前が上がらないのはおかしい。表に出てこないのなら、内密に決まっている可能性もある。……そこで聞いた話だが、あの娘以前何度も朝倉家を訪れていたという噂がある」


「……朝倉家か。なるほど、筋は通る。格式で見ても、住民からの信頼で見ても、あの家ならば月岡と並ぶ力を持っている」


「それが繋がればどうなる。我らの家が、ただでさえ傍流扱いされているというのに、完全に立つ瀬がなくなる」


「ならば……」


沈黙が落ちる。やがて男が口を開いた。


「……消すしかない。婚約が正式に決まる前に」


「だが問題はある。月岡家の娘には護衛が多すぎる。隙がない。だが、征士郎は……夜中に出歩く習慣があるらしい」


「ふん。狙うならそこだな。だが、夜に出てこなかったら? あるいは……朝倉家の父親に見つかれば、一瞬で返り討ちにあうだろう。騒ぎが起きれば、我らの身も危うい」


「ならば……寝所を襲う」


一人が低く囁いた。


「もし外に出なければ、寝込みを。屋敷に忍び込むことも、できない話ではない」


「それも含めて……決行は次の新月。月明かりのない夜にしかない。あの闇なら気配を殺せる」


「……決まりだな」


重苦しい合意の言葉が、小さな部屋を満たしていく。


**


その夜、さくらは静かな寝室で、窓の外を見つめていた。白く細い月が、雲の隙間に姿をのぞかせている。


「もうすぐ……会えるわね」


胸の奥が熱くなるのを感じながら、彼女は目を閉じた。あの湖のほとり、あの声、あの笑顔――


そして、どこかで彼もまた、同じ空を見ていてくれるような気がしていた。


次の新月が訪れれば、きっとまた――


そのとき、自分たちが待ち望んでいるその夜に、別の思惑が動き出していたことなど、知る由もなかった。


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