はじまり ――雨の中で見つけた光
「……雨か」
つい、口をついて出ていた。気づけば、縁側に立っていた。空は重たい灰色に染まり、庭の木々が大きく揺れている。
背後から足音。そして、呆れたような声が届いた。
「……どうした? さっきからウロウロして」
振り返ると、征士郎が腕を組んで立っていた。気づかぬうちに、何度も家の中を行ったり来たりしていたらしい。
「え? あっ、いや……えっと……」
視線を逸らすと、彼はわざとらしく外を眺めながらニヤリと口元をゆがめた。
「この雨じゃあ、さすがに“相引き”できないもんな」
「なっ!!」
一気に頬が熱くなるのがわかる。相引きなんて……!
「あ、あ、あ、相引きなんてしてません!!」
「ふたりきりで会ってるなら、相引きだろ」
「……柊さんもいます……」
「え、3人で話してるのか?」
「......いや……さくらさんと話す時は、見張ってくれてて……」
「――相引きじゃねえか!!」
指をさされ、声を上げて笑われる。くやしいけど、なんだか懐かしい。こうやってからかわれるのも、久しぶりだった。
ふいに、征士郎の声色が変わった。
「てか、さくらって……あの子の名前?」
普段なら軽く流すような話題なのに、今はその名に引っかかるものを感じたのだろう。眉がわずかに動いていた。
「はい。あ、でも……偽名です」
そう告げると、納得したようにうなずいた。
不意に、征士郎の声が落ち着いた調子で響いた。
「……で、お前は?」
何の前触れもなく投げかけられた問いに、思わず口を開きかけ――そのまま、慌てて両手で口をふさいだ。
……しまった。
目の前で征士郎が、意地悪く笑っている。
「この前の仕返しだ」
くすぐったそうな笑い声。けれどその瞳は、安心したような色を湛えていた。
「ずるい……」
ぼそりと抗議すると、肩をすくめた彼が、今度はふざけずに問いかける。
「……で、名前は?」
その声に、無理やりの強さはなかった。ただ、静かに待つような、温かさだけがあった。
「……さくや」
自分で、自分の名前を口にする。
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「さくや、か……さくや。……さくや!!」
名前を繰り返し、最後には満面の笑みで頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。
その手のひらのぬくもりが、何よりも嬉しかった。
**
「おい、さくや」
静かになった縁側に立つ背中へ、声をかけた。けれど、その声音はいつもより少し低く、ぶっきらぼうになっていた。
「お前、この雨の中、絶対外に出るなよ。いいな?」
顔を見せずにそう言って、部屋へと戻る。
膝をつき、目頭を押さえ、深く息を吐いた。
「……ったく」
耳に残るあの声。
──「……さくや」
戸惑いながらも、まっすぐに名前を口にしてくれた。
それだけのことが、どうしてこんなにも胸に響くんだろう。
自分から名乗った。それが偽名であっても、あいつにとっては確かに一歩だった。
誰かに“自分”を明かすということ。その重みと勇気を、よく知っているからこそ。
「……ちゃんと、年相応の顔するようになったな」
ふっと笑い、縁側の外に目を向ける。
雨はまだ止みそうにない。灰色の空の下、木々がざわめいていた。
あのときも、こんな空だった。
雷鳴に驚いて駆け込んだ山の小屋。
屋根の抜けたその中で出会ったのは、泥と血にまみれ、息も絶え絶えな、小さな子ども。
あれが、はじまりだった――
***
その朝は雲ひとつない快晴だった。
「征士郎、今日は久々に上まで登ってみるか」
「はいっ!」
十二歳の征士郎は、嬉しそうに頷いた。父に並び、竹籠を背負って山道を進む。朝倉家は格式ある家柄ではあるが、必要以上の贅沢はせず、日常の中に修練と自然との調和を重んじていた。だからこそ、こうして父と山へ入るのは日常の一部だった。
けれど、山の天気は変わりやすい。陽が高くなる頃には、上空に重たい雲が流れ込み、空気が湿り気を帯び始めていた。
「……雲行きが怪しくなってきたな。征士郎、今日は早めに引き上げるぞ」
「……はい」
返事をしながらも、征士郎の目はまだ物足りなさを湛えていた。もっと走りたい、もっと強くなりたい。その想いが、少年の胸を熱くさせていた。
しかし、次の瞬間――
ゴロゴロゴロ……
空が鳴った。
「征士郎!走れるか?」
「もちろん!」
征士郎の顔に笑みが浮かぶ。だが、雷鳴に続いて大粒の雨が容赦なく降り注ぎ、あっという間に足元の土を泥に変えていく。
「まずいな。近くに小屋があったはずだ。そこまで走るぞ!」
「はいっ!」
泥を蹴り、二人は一心に駆け出した。全力で駆けても、父の背は遠く、征士郎は悔しさを噛みしめながら必死でついていく。
ようやく、小屋の扉が視界に入った。
息を切らせながら小屋に飛び込んだその時――父の声が鋭く低く響いた。
「……下がってろ」
ただならぬ気配に、征士郎は無意識に背筋を伸ばす。父の目が、小屋の奥にある影に注がれていた。
父が静かに歩み寄り、布をめくる。そこにいたのは、泥と血に塗れた、やせ細った子どもだった。
「……生きてるのか?」
征士郎の問いに、父が近づいて脈をとる。かすかに、確かに命の火は残っていた。
「まずいな......家に戻るぞ。これ以上は……持たん」
父は自らの着物を脱いで子どもの体を包み、抱きかかえるように背負った。
「……征士郎、先に走れ。母に医者を呼ばせておけ」
「はい!」
征士郎は小さく頷くと、雨の中を駆け下りた。転びそうになりながらも、ただ助けたい一心で。
父が家へ戻ると、母が医者を呼び寄せていた。
やってきたのは、近隣では評判の村医者――髭を蓄え、薬籠を肩にかけた年配の男だった。医者は畳の部屋に布団を敷かせ、静かに傷ついた子どもを横たえさせると、ふところから和紙に包んだ薬と小刀を取り出す。
「湯を、桶一杯頼む。それと、晒し布はあるか」
「はい、すぐに」
母が台所に走り、女中が濡れ手ぬぐいと布を運んでくる。囲炉裏にかけられた鉄釜から湯気が立ち昇っていた。医者は湯を使って道具を拭い、古い血と泥をそっと洗い流す。
「……かなりの擦過傷と、古い打撲痕がありますな。だが命に関わる深手はない。よく助かった」
そう言って、掌で触診しながら息の様子を確かめる。
薬籠からは、白い粉薬と煎じ薬の袋が出される。白い粉は「桂枝湯」――虚弱な体を温めるために用いる漢方薬だ。もうひとつ、匂いの強い黒褐色の膏薬を火で軽く温め、背や足の傷口にそっと塗り込んでいく。
征士郎はその様子を、じっと見ていた。
火桶に炭がくべられ、部屋の中は徐々に温まっていく。女中が運んできた温石を布にくるみ、子どもの足元へと置く。医者はそれを見て軽く頷いた。
「……これでひとまずは大丈夫です。今は深く眠っているが、身体はまだ頑丈だ。よく食わせ、温めてやれば、回復するでしょう。ただ――」
医者は声を潜め、両親を手招きした。
征士郎は子どもの枕元で寝顔を見ている。まだ言葉を交わしたこともない、名も知らぬ命。けれど、胸がざわついて、離れられない。
医者は低い声で告げた。
「……この子、古傷が多い。とくに足の裏と脛に。何かから逃げ続けたような……」
「捨て子ではないのか?」
「いいえ、爪は切られていましたし、衣の縫いも丁寧でした。もとより、家付きの子かと」
「ということは……逃げた?」
父の低い声に、場が沈黙に包まれる。
その静けさを破るように、征士郎が顔を上げた。一度だけ小さく息を吸うと、震える声で言った。
「……私にも、話を聞かせてください」
医者と両親が振り返る。征士郎は唇を引き結び、まっすぐ医者の目を見つめた。
「この子がどうしてこんな目にあったのか……。私にも教えてください!」
医者はわずかに目を見開き、父と母が顔を見合わせる。
そして父はゆっくりと頷いた。鋭くも優しいまなざしで息子を見つめる。
「……もしかしたら、お前の想像以上の話かも知れない。それでも、聞く覚悟はあるのか?」
征士郎は三人の方へと向き直る。背筋を伸ばし、迷いのない声で言った。
「はい!」
その一言に、父は静かに息を吐き、再び医者へと視線を戻す。「続けてください」と促すように。
医者は一度、眠る子どもを見てから、静かに語り始めた。
「……この痣、今日のものではありませんな」
両親が顔を見合わせる。征士郎はそのそばで、身を固くしながら医者の手元を見つめていた。
医者は静かに手を拭いながら、うつ伏せに横たわる子どもの背中へと指を伸ばす。慎重に、肩をめくり、背骨の両脇をなぞるように触れる。呼吸の合間を縫って、小さくうなずいた。
「打撲の痕です。ここも、そしてこの腰のあたりも……。いずれも癒えかけていますが、何度も、繰り返し叩かれた跡です」
「繰り返し……」と父が息を呑む。
征士郎の拳が、無意識に握られていた。子どもの肌に刻まれた無数の痕。それが痛みとして、何よりも恐怖として、この小さな体に刻まれていることが、ひしひしと伝わってくる。
「ええ。手の平か、あるいは棒のようなもので打たれたのでしょう。場所からして、力任せに。骨に異常はありませんが、古傷が多い。たとえばここ——」
医者はそっと、右腕を取って見せる。「肘の骨がずれて、癒合した痕がある。痛みを訴えただろうに、誰も治そうとしなかった。これでは、まともに字を書くのも苦労するでしょう」
母は唇を噛み、目を伏せる。征士郎もまた、言葉を失っていた。自分よりも小さなその身体が、どれほどの苦しみに耐えてきたのか――想像が追いつかない。
父が低く問うた。「……つまり、この子は」
「......はい。恐らく、ご家族……あるいは近しい誰かから、日常的に手をあげられていたのでしょうな」
「……そうか」
その言葉に、征士郎は唇を噛む。自分の中で何かが決定的に変わるのを感じていた。優しさや憐れみではない。もっと根底から突き動かされるような感情が、胸を熱くしていた。
「目が覚めれば、何か話すかもしれません。ただ……」
医者はそこで言葉を濁す。「この子が、今後も誰かを“怖がるように見る”ことがあるかもしれません。特に大人に対しては」
その言葉に、征士郎ははっとして眠る子どもの顔を見た。怯えたまま眠るその表情に、過去の恐怖がなお色濃く残っている気がして、胸が締めつけられる。
父は深くうなずき、拳を握る。「わかりました。……もう、痛い思いはさせたくない」
母が口元に手を当て、目を伏せる。父は天井を見上げながら、何かをこらえるように静かに息をついた。
征士郎には、すべてを理解するにはまだ幼かったかもしれない。けれど、それでもはっきりと感じていた。震える小さな指と、折れそうな呼吸音が、自分の心に確かに届いていた。
――あの日、あの時、この子を守りたいと願った気持ち。それは、ただの優しさではなく。
そうして、出会いは静かに始まった。
後に互いの人生を大きく変えていく、運命の巡り合いとして。
**
征士郎は黙ったまま、ただひたすらに、布団に横たわる小さな体を見つめていた。
その腕に、脚に、首筋に──幾重にも残された痣や擦り傷。それがどれも新しいものではないと、医者は静かに言った。中には、かつて骨がずれたまま治った箇所もあると。
日常的に……。何度も……。
こんなに、小さな体が。
「……」
征士郎は言葉を失っていた。怒りとも、悲しみともつかぬ感情が胸を熱くし、どうしていいかわからなかった。
俺よりずっと年下だ。きっとまだ十にも届かぬ。そんな子が、こんなにも多くの傷を抱えているなんて──。
想像できない。したくもない。
どれだけ苦しかったのか。どれだけ、助けを求めても届かなかったのか。
どれだけ、傷つけられてきたのか。
拳を握る。指先が白くなるまで強く、強く。
「征士郎……」
ふと、母の声が落ちる。柔らかく、しかしどこか不安げに。
「やはり、あの子にはまだ早かったかしら……」
その言葉に、父が静かに首を横に振った。
「いや。あいつは……あいつなりに、あの子の気持ちを受け取ろうとしている。さっきの眼差し、あれは……覚悟を持った男の目だった」
父の言葉に、母は目を伏せ小さく頷いた。
「……そうね。そうかもしれないわ」
そのやり取りのそばで、医者は静かに立ち上がり、包を片付けはじめていた。
「熱はひとまず落ち着いておる。あとは、栄養のあるものを少しずつ。粥などから始めてくださればよいでしょう。……目覚めたあとは無理に声をかけず、静かに見守ってやってください」
「わかりました。……ありがとうございました」
両親が頭を下げると、医者は軽く一礼し、草履を履いて縁側を降りていった。
再び、家の中に沈黙が降りた。
「……逃げてきたのなら、親が探しに来るかもしれないわね」
母がぽつりと呟く。
「この村の子ではないことは確かだ。見かけた覚えがない。……しばらくは、うちで預かることになるな」
「でも、そのあとは……?」
「目を覚まして、本人がどうしたいか……まずはそれを聞いてからだろうな」
静かにそう答えると、父は襖を閉め母と並んで歩き出した。
遠ざかる足音の中に、ふたたび征士郎はひとり取り残される。
傷だらけの子ども。その吐息が、かすかに布団の隙間から漏れていた。
何もできないことが、悔しかった。
ただそばにいてやることしか今の自分にはできない。
けれど──それでも。
あの時、この手を伸ばしたことに間違いはなかったと。征士郎は、胸の奥で静かに誓っていた。
これが、征士郎とさくやの出会いだった。
**
昼下がりの陽が、障子越しに静かに差し込む頃だった。
その子は、ふとまぶたの裏に柔らかな明かりを感じて、ゆるゆると目を開けた。
天井があった。畳の匂い。外からは小鳥の声。どこか、静かであたたかい空気が漂っている。
──生きてる……?
呼吸を確かめるように、そっと息を吐いた。
夢ではないと理解した瞬間、なぜか胸が強く締め付けられる。焦点の合わぬまま、ぼんやりと周囲を見渡す。
ここは……どこだろう。自分は……誰だっけ。
記憶が、うまく繋がらない。自分の名前も、住んでいた家も思い出せない。ただ、一つだけ──
「っ……」
大人の怒鳴り声。振り上げられる棒。足元に転がる陶器。髪を掴まれ、床に叩きつけられる感覚。
特に、女の人の怒鳴り声が──
「いや……やだ……やだ……!」
全身から、冷や汗が噴き出した。胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
ぐしゃぐしゃになった布団から這い出し、部屋の隅へと転がるように身を寄せた。
壁に背をつけ、膝を抱えて小さく体を丸める。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……もうしません……どうか……許して……」
反射的に口をついて出る、懺悔の言葉。誰に向けての言葉かも、わからない。けれど、謝らなければまた怒鳴られる。殴られる。壊される。
「……っ、うう……ごめんなさい、ごめんなさい……」
その怯えきった声が、廊下の奥まで届いた。
最初に気づいたのは征士郎だった。
椀を拭いていた手を止め、音のする方へと駆け寄る。 父と母もすぐにそのあとを追った。
「……目を覚ましたのか……?」
廊下に差し込む光の中、父が足を止める。
「待て」そう言って、征士郎の肩に手を置いた。
「医者が言っていたろう。大人を怖がるかもしれん。……まずは、おまえが行ってやれ」
征士郎は頷くと、そっと襖に手をかけた。
戸の向こうから、小さな声が漏れ聞こえる。胸がざわついた。呼吸が乱れそうになるのを抑え、深く息を吐く。
すう……と音を立てて襖が開いた。
けれど、布団の上にその子の姿はなかった。
「……っ」
目に入ったのは、部屋の隅。土下座をするように体を伏せ、壁に身を寄せて震えている小さな背中だった。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……ゆるして……もう、しませんから……ごめんなさい……」
細い声。何度も、何度も繰り返される謝罪。
その背が、痩せこけて見えるほど小さくて──ひどく、ひどく痛々しい。
──どうして、こんなにも怯えて……。
征士郎の中に、熱い何かが込み上げてくる。今まで味わったことのない、怒りだった。
誰が。何が。どうして、こんな子どもをここまで壊した。
目の奥が熱くなる。歯を食いしばる。拳が震えた。
襖の向こうで、両親もその気配に気づいていた。征士郎の表情に浮かぶ怒りの色、それを一歩外に出してしまえば叫んでしまいそうな激情を。
母は口を手で押さえ、父は目を細めた。
その奥から聞こえる、震える謝罪の声に──二人もまた、怒りを噛みしめていた。
襖の隙間から一歩、征士郎が足を踏み入れた。
その音に、角に伏せた体がぴくりと大きく震える。壁際で逃げ道のないその子は、頭をさらに深く下げて、身を縮める。
「ごめんなさい……ゆるして……たたかないで……もうしませんから……」
その言葉が、征士郎の胸を締めつける。息が苦しくなる。
(……こんなにも怯えて……)
目が合うどころか、顔を上げることすらできない。
それでも。
征士郎は、静かにその子のそばに歩み寄った。どんな言葉をかければいいのか、もうわからなかった。ただ、伝えたかった。
「……」
そっと、背中に手を伸ばす。腫れ物に触れるように、細心の注意を払いながら。
その瞬間、ビクンと大きく跳ねるように、体がこわばった。
「……っ」
怖がらせてしまったと、心が痛んだ。
それでも、征士郎はそっと背をさすった。できるだけ優しく、温かく。
「……痛くないか?」
落ち着いた、あたたかな声。
それは怒りでも、恐怖でもなく──初めて触れる、やさしい響き。
さくやの体の震えが、徐々に弱まっていく。
そして、恐る恐る……そっと顔を上げた。
その目は、怯えと戸惑いで濁っていた。
こんな小さな子が、こんな顔をするなんて──と、征士郎は胸が締めつけられる思いだった。
目が合う。
征士郎は、やさしく微笑んだ。どこまでも静かに、どこまでもやさしく。
そっと、その体を抱き寄せた。
柔らかく、でも確かに包み込むように。そのすべてを、肯定するように。
「……頑張ったな」
囁くように、そう声をかけた瞬間だった。
さくやが、征士郎の衣の端をぎゅっと掴んだ。
そして──
「う……ううっ、うあああ……っ」
胸の奥からこみ上げるように、嗚咽が噴き出した。
こらえきれず、止まらなくなるほど泣き出す。
征士郎は黙って、背中をさすり続けた。何も言わず、ただ静かに。
襖の向こうで、父と母はその様子をじっと見ていた。
何も言えなかった。言葉にならなかった。
征士郎のその姿が、彼がひとつ大人になった証に思えて──胸が、いっぱいになった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
泣き声は徐々に小さくなり、やがてしゃくりあげるような息遣いへと変わっていった。
征士郎の胸に顔を埋めたまま、さくやは細い肩を上下させ、途切れ途切れに鼻をすする。
征士郎は、ただ静かに背を撫で続けた。
言葉はなかった。ただ、あたたかさだけがそこにあった。
「……泣いてもいい」
そう心の中で何度も呟きながら。
しばらくして、さくやの体の力がようやく緩んだのを感じた征士郎は、そっと距離を取る。
「……少し、落ち着いたか?」
その言葉に、さくやはこくりと小さく頷いた。目は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡が残っている。けれど、怯えに張り詰めていた空気は、わずかに和らいでいた。
征士郎は小さく微笑んで、膝をついて目線を合わせた。
「……改めて、はじめまして。朝倉征士郎と申します。年は十二。……ここは、俺の家だから安心していい」
名前と年齢、それに「安心していい」という言葉を添えること。
それが、初めて話すこの子にとって、少しでも心の支えになればと思った。
「ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、……元気になるまでここにいていいから」
さくやの目が、征士郎を見つめた。
何かを探すような、確かめるような瞳だった。
「……あのな」
征士郎は言葉を選びながら、少し顔を上げて廊下の方を振り返った。
「……外に、俺の父さんと母さんがいる」
征士郎は、少し迷いながらも言葉を継いだ。
「……俺を育ててくれた人なんだ。優しいし、ちゃんと話せばわかってくれる。……中に入れてもいいか? なにもしない、絶対。大丈夫だ。……もし、もし何かしようもんなら、俺がお前を守る」
そう言って、少しだけ胸を張ってみせた。けれどその声にはどこか遠慮がにじんでいて、それでも必死にさくやを安心させようとする一生懸命さが滲んでいた。
「……どうだろうか?」
さくやは「父さん」「母さん」という単語に、びくりと肩を揺らす。顔がわずかに引きつる。
それでも、征士郎の言葉をじっと聞き終えると、視線をそっと彼に向け、長いまつ毛が影を落とす中で、小さく、かすかに――こくりと頷いた。
征士郎の表情がぱっと明るくなる。
「よし」と一言、軽く頷いて、すぐに立ち上がり襖を開けた。
「父さん、母さん……入ってもいいって」
静かに呼ばれ、廊下に正座していた二人は、襖の前にそっと姿を現した。だが部屋には入らない。襖の縁で膝をつき、さくやを見つめる。
さくやは目を見開いて固まる。喉が鳴るほど緊張し、わずかに体が強張る。
その様子に気づいた二人は、互いに目配せをし合い、無理に近づかないことを選んだ。
父は柔らかな声で、ゆっくりと問いかける。
「お腹、空いてないか?」
意外な言葉に、さくやはぽかんと口を開けて彼を見た。
次の瞬間――
ぐううううぅぅ……
さくやの細いお腹が、堂々とした主張を鳴り響かせた。
あまりの大きさに、さくやは顔を真っ赤にしてお腹を押さえ、「っ……ご、ごめんなさいっ……!」と反射的に頭を下げようとする。
その姿に、父は大きく口を開けて笑った。
「あっはっはっはっは! どうやら聞くまでもなかったようだな!」
母も隣でくすくすと笑いながら、ふわりと柔らかく言葉を紡ぐ。
「体は正直なのね。ふふ、今、ご飯の準備をしてきます。……少しだけ待っていてくれるかしら?」
征士郎も笑いを堪えながら、からかうようにさくやに声をかける。
「お前、なかなか面白い虫、飼ってんだな」
さくやは呆気にとられたまま、ぽかんと彼らを見つめた。怒られると思っていた。罵られると思っていた。けれど、誰も責めない。笑っていた。――優しかった。
その瞬間、体の奥から何かがほどけるように抜け落ちた。
ここは、大丈夫だ。
初めて向けられる優しさに、戸惑いながらも――さくやの心が、静かに、深く、安堵に包まれていくのを感じていた。
**
季節がひとつ、緩やかに巡りはじめた頃。
さくやの身体の傷は、目に見えて癒えていった。顔色も良くなり、日に日に言葉が増えていく様子を、朝倉家の三人はそっと、けれど確かに喜んでいた。
同じようにさくやもまた、心に少しずつ光が差し込むのを感じていた。
けれどそれと同時に――焦りのようなものが、胸の奥に芽を出しはじめていた。
(傷が治ったら……出ていかなくちゃいけない)
誰にもそう言われたわけではない。けれど、当たり前のことのように思えてならなかった。
ここは自分の家ではない。
思い出せない過去、わからない名前、自分が何者かすら知らない。
それでも優しくしてくれるこの家族に、これ以上甘えてはいけない――そう、思っていた。
けれど征士郎は、その夜もまるで当然のように「一緒に寝よーぜ」と言いながら、さくやの部屋の布団に潜り込んできた。
「……お前、最近ちょっと寝相よくなってきたな。最初は布団の端で丸くなってたくせに」
肩を寄せて布団を分け合いながら、征士郎は他愛もないことを話し、そして先に眠ってしまった。
その温もりの隣で、さくやはじっと天井を見つめていた。
(ずっとここにいれたらいいのに......)
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
でも、いけない。ここは、帰る場所じゃない。……だから、ちゃんと感謝して、出ていかなくちゃ。
やがて、迷いのなかで瞼が重くなり、意識は静かに眠りへ落ちていった。
夜半、ふと目を覚ました征士郎は、隣に寝ているさくやの顔をそっと見やった。
安心したような、穏やかな寝顔だった。
出会ったばかりの頃、怯えて縮こまっていたあの顔とはまるで違う。
征士郎は小さく息をついた。
(……よかった。本当によかった)
そんな思いが胸に広がったときだった。
「……出なきゃ……」
ぽつりと、寝言が漏れた。
征士郎ははっとしてさくやを見る。
彼の表情は、まだ安らかだった。それでも、その言葉だけが不安のように胸に残る。
そっと身を起こし、さくやの頭に手を伸ばす。
起こさないように、そっと、髪をなでる。
「……ずっと、ここにいろよ」
囁くように、征士郎は言った。
ーー翌朝
征士郎が目を覚ますと、布団の隣にさくやの姿はなかった。
きれいに畳まれた布団だけが残されている。
昨日の寝言を思い出し、嫌な予感が胸をよぎる。
「さくや……?」
寝巻のまま、急いで居間へ向かった。
「あら、なんて顔してるの征士郎。顔を洗ってらっしゃい」
母の穏やかな声が、空気を和らげる。
その隣には、いつもと変わらぬ表情のさくやが座っていた。
(よかった……)
心底ほっとして、洗面所に向かう。
そして居間に戻り、いつもの朝食が始まった。
静かに食事が進んでいくなか、さくやがそっと箸を置いた。
「あの……」
声が少し震えている。
「……今日、出ていこうと思っています」
その言葉に、朝倉家の食卓から空気が消えた。
箸を持ったままの征士郎の手が、ピタリと止まる。
驚きと戸惑いが入り混じったような表情を隠しきれず、彼はじっとさくやを見つめた。
――帰る場所があるのか?
まさか、あんな風にさくやを傷つけた場所へ戻ろうとしているのか?
そんなことは、絶対にさせたくない。
けれど、さくやが自ら望むなら――自分の気持ちだけで引き止めていいのか?
胸の奥で不安と葛藤が激しく渦巻く中、征士郎はようやく口を開いた。
「……帰る場所は、あるのか?」
「……わかりません」
「……わからない?」
征士郎の眉がゆっくりと寄る。
父も母も、何も言わずにただ静かに、さくやを見つめていた。
さくやは一度だけ小さく息を吸い込み、視線を落とす。
「はい。……実は、自分のことが……思い出せません。名前も、家も、何も……。
でも、ずっとここに甘えているわけにはいかないと思って……」
言葉を絞り出すようなその声に、両親の表情が少しずつ曇っていく。
これまで何も語らなかったのは、話したくないからだと思っていた。
だが実際には、語ることすらできない――その事実が、胸を締め付けた。
(あんなに怯えていたのに……恐怖だけは、忘れられなかったんだな)
そう気づいた瞬間、征士郎の口から言葉がこぼれ落ちていた。
「……じゃあ、ここにいればいい」
「……え?」
さくやが顔を上げる。瞳を見開き、言葉の意味を探るように征士郎を見つめていた。
「ここにいればいい。記憶がないとか……正直、俺にはどうでもいい。……いや、お前にとっては大事なことかもしれないけど……」
そう言って、少し言い淀む。耳が赤くなるのを隠すように頭をかく。
「……一緒にいたいんだ、お前と。お前が来てから毎日楽しいんだ。」
さくやの瞳が、ぽろぽろと涙で滲んでいく。
それは静かに、でも確かに流れ始めた。
「お前が出ていきたいと本心で思うのなら、止めない」
今度は父親が、低く静かな声で言葉を紡ぐ。
「だが……私も、お前にはここにいてほしいと思っている。……息子として」
「私も同じ気持ちよ」母がそっと微笑む。
さくやの肩が震える。涙が次々と頬を伝い落ちていく。
目の前の温かな人たちを前に、声が震えながら漏れた。
「……この家にいるのは、嫌か?」
征士郎の問いかけに、さくやは大きく首を振った。
否定の意志が、はっきりとそこにあった。
「……いいんでしょうか。ここにいても」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、懇願するように頭を下げる。
震える声は、確かな想いを真っ直ぐに届けていた。
征士郎は、そっとその隣に寄り添う。
そして、肩を軽く抱き、くしゃっと髪を撫でた。
「当たり前だろう!」
それは怒鳴るでもなく、押しつけるでもない――まっすぐな叫びだった。
さくやの肩は、なおも震えていた。
けれど、そこには確かなぬくもりがあった。
そして初めて「帰る場所」と呼べる場所が、そこにあった。
――遠い記憶の奥に、微かな温もりが残っていた。
それは夢か現かもわからないほど淡く、けれど確かに胸を満たす光。
この日からさくやは朝倉家の弟になったーー
***
目が覚めた瞬間、耳を打ったのは屋根を叩く雨音。
襖をそっと開ける。外は重たい灰の空。庭の木々が激しく揺れていた。
「……今日は行けないんだ」
ひとりごとのように漏れた声が、思いのほか寂しげで自分でも驚いた。
傍にいた柊がこちらを振り返るが、首を横に振るとすぐに察したように黙った。
今日は、湖には行けない。
雨が嫌いだった。外に出られなくなるから。自由を奪われるようで、閉じ込められるようで。
だけど――。
濡れた景色をぼんやりと見つめる。窓をつたう雨粒が、時間を巻き戻していくようで。
(あの雨の日がなかったら、あたし……)
家を飛び出すことも、あの道を歩くこともなかった。
そして――あの人に出会うこともなかった。
「出会わせてくれてありがとう。でも……明日は降らないでね」
苦笑しながら空を仰ぐ。
雨音が、過去と今を静かに繋げていく。
――あの人の優しさの奥に、あんな深い傷があったなんて。
朝倉家が? そんなこと……あるはずない。
じゃあ、誰が......。
胸が締めつけられ、唇を噛む。
誰にだって、言えないことのひとつやふたつあるもの。
過去は過去。
あたしにとって、さくやはさくや。
それ以上でも以下でもない。
「……明日は、晴れますように」
願うように空を見つめながら、目を閉じた。




