触れられない理由 ― 本当の名前は、まだ言えない
第5章:触れられない理由 ― 本当の名前は、まだ言えない
静かな夜だった。
風もなく、虫の声すら遠くに追いやられたように、足音がかすかに鳴る音だけが耳に残る。
彼は何も言わず、ただ前を見て歩いていた。
その背中を、私は少し離れた位置からそっと見つめていた。
一人分の距離。
寄り添うには遠すぎて、離れるには近すぎる――
けれど、いまの私たちにはちょうどいい、そんな距離。
それでも近くにいる。
それだけで、胸が苦しくなるなんて知らなかった。
(……どうしよう)
何を話せばいいの?
名前、聞こうって決めたはずなのに――
「あなたの名前は?」
そんなふうに聞いたら唐突すぎる?
「今日も綺麗な景色ですね」......なんか変。
こういう時いつもなら自然と口が動いてたのに……。
あれ、どうやって話してたんだっけ?
私こんなに言葉が出てこない人間だったっけ?
頭の中がぐるぐると渦を巻く。
落ち着かない。うまく息が吸えない。
こんなの初めて――
でもそれが何なのか、自分ではまだ気づいていない。
――そんな感情すらまともに言葉にできないまま、私はただ彼の後ろを歩いていた。
やがて、足元の土がしっとりと変わり、草の感触が混じり始める。
視界が開け、風が少しだけ吹いた。
(あ、湖……)
誰もいない。
静かで、広くて、ちょっと怖いくらいに――美しい。
気づけば私は、そのままふらりと湖へ向かって歩いていた。
焦っていたのかもしれない。何か言わなきゃ、何かしなきゃって。
足が、気持ちより先に進んでいた。
「――っ!」
突然目の前に彼が立った。
ふいに立ち塞がるように私の前に出てきて――ぶつかると思った。
けれどほんのわずかな隙間を残して、彼は止まっていた。
目の前で、彼の黒い瞳が静かにこちらを見つめている。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……死ぬ気ですか」
低く、けれどはっきりとした声。
「……は?」
予想外の言葉に、思わず変な声が出た。
なにそれ、と言いたくなるけど――視線を落とした先に広がるのは、水際だった。
あと数歩で水の中に入っていたかもしれない。
(あ、あぶな……)
何も考えずに歩いていたことに気づいて心臓が跳ねた。
「……ありがとう」
**
小さく呟くその声に、ぼくは少しだけ視線を逸らす。
「声をかけたのですが、反応がなかったので……」
言い訳のような言葉とともに、彼女から半歩ほど距離をとった。
「それにしても、きみ――」
彼女が急に口を開いた。
「あたしが心中でもすると思ったの?」
どこか恥ずかしさを隠すような、でも明るく自虐っぽい口ぶり。
「……いや、思わず……なんか……すみません」
とっさに謝るしかなかった。言葉を選ぶ余裕なんてなかったんだ。
「そんなに謝らないでよ」
ぴしゃりと制され、思わず背筋が伸びる。
「すみま……あ、えっと、はい」
どう返せばいいかわからなくなって、情けない返事になる。そんな自分に少しだけ情けなさを感じながらも、彼女の表情がふっと緩んだように見えた。
「きみさぁ……」
呆れたように口を開いたかと思えば、何かを言いかけて黙り込む。
「……? あの……」
彼女の視線を探りながら、恐る恐る声をかける。
「なんていうの?」
「え?」
「あなたの名前。さすがに“きみ”呼ばわりはどうかと思って……」
ぽつりと告げられた言葉に、胸がドクンと鳴る。
名前――それは、ぼくにとって最も遠いものだった。
咄嗟に答えられずにいると、彼女が眉を下げ、焦ったように言葉を継いだ。
「……言いたくないなら、言わなくていいの。ごめんなさい。変なこと聞いて」
その声は、申し訳なさと戸惑いに揺れていて、どうしようもなく心を締めつけた。
そんなふうに謝らせてしまったことが、たまらなく苦しかった。
「そうじゃないんです」
彼女の肩がぴくりと揺れる。
ぼくのはっきりとした声音に、驚いたように目を見開いていた。
「す、すみません……大きな声を出してしまって……」
消え入りそうな声で、慌てて頭を下げる。
情けない。けれど、伝えたかったのだ。
本当に、違うんだと。
「そうじゃ……ないんです。言いたくないわけじゃなくて……ただ、言えないっていうか……」
言葉が見つからなかった。
どう言ったら、自分の気持ちがきちんと届くのか。
わからないまま、ただ喉の奥で言葉がつっかえた。
沈黙が落ちる。
けれど彼女は、なにも言わずにぼくを見ていた。
そのまなざしに、少しだけ救われた気がした。
「……ぼくの顔、ひどかったでしょう」
ぼそりと漏らすように言った。
自嘲気味に笑ったその声は、どこか壊れそうで。
「……顔?」
彼女が小さく首をかしげる。
「……あの雨の日。ぼくの顔、見ましたよね」
彼女の表情がはっと変わった。
忘れかけていたあの日の記憶が、鮮明に蘇ったのだろう。
「…………ぼくは、名乗るような人間じゃないんです」
それが本音だった。
けれど、それをそのまま伝えるのはあまりにも酷だとわかっていた。
彼女を傷つけるようなことは言いたくなかった。
――どうしてなのか。
自分でも理由はわからなかった。
けれど、きっともう気づいていた。彼女がただの他人ではないことに。
「だから……その……」
喉が詰まる。言葉が重くて、息さえ苦しい。
そのときだった。
「……さくら」
彼女がぽつりと呟いた。
「……さくら?」
「そう。いま着てる着物、桜の絵が施されてるの」
袖をつまみ、やわらかな指先で生地を撫でながら彼女は微笑む。
「……素敵な着物です」
自然とそう口にしていた。
心からそう思った。彼女にとてもよく似合っていたから。
「でしょ? ……って、そうじゃなくて!」
不意に声の調子が変わる。
「……?」
きょとんとするぼくに、彼女は言った。
「私のことは、“さくら”って呼んで」
まっすぐに見つめられて、その瞳から目をそらせなかった。
まるでそれは――
名乗れぬぼくに、名前の代わりをくれたような。
そんな気がした。
**
桜の着物を着ていてよかった。
心からそう思った。
咄嗟に口をついて出た「さくら」という名前。
そのとき、彼の顔がほんの少し緩んだように見えて、胸の奥がふわりと温かくなった。
彼が名前を言えない理由――それはきっと、あの雨の日にある。
あの日のあの表情。
今日また同じような顔を見せた。
痛みに耐えるような、誰にも気づかれたくないと願うような顔。
たった二度目の再会なのに、彼の優しさは確かに伝わってきた。
こんなに優しい人を、誰があそこまで傷つけたのか。
“名乗るような人間じゃない”――そんな言葉を言わせてしまう過去が彼にはあるのかもしれない。
胸が痛む。
どうしようもないやりきれなさに、喉の奥がじんと熱くなった。
……そばにいたい。
その優しい顔をもっと見ていたい。
名前が言えないのなら、私がつけてあげればいい。
そう思ったとき、自然と口が動いていた。
「私のことは、“さくら”って呼んで」
「……さくらさま」
「さまはいらない」
「……そういうわけには……」
「今考えた名前だから」
「……え?」
「今考えたの。だからあたしはどこかのお嬢様でもないわ。さくらっていう......ただの女の子なの」
そう言って、ふふっと笑った。
あたしにもあたしの事情がある。
格式に縛られた名前の下で退屈な日々を生きてきた。
彼の前では、ただの一人の女の子でいたい――そう、心から願った。
「わかりました。……さくら、さん」
その瞬間、心臓が跳ねた。
偽名なのに。偽名なのに、名前を呼ばれるだけでこんなに――
(なにこれ……)
顔が熱くなる。
鼓動が早まって、息が少しだけ乱れた。
今日が新月で本当に良かった。
――いけない、落ち着いて。
自分に言い聞かせるように、小さく咳払いをする。喉を整えるふりをしながら、心も整えようとする。
「きみの名前だけど――」
「ぼくの名前?」
「あたりまえじゃない。それとも、“きみくん”にする?」
ちょっと意地悪そうに、彼の顔をのぞき込む。
むすっとした顔が、なんだか可愛い。
「んー……夜だから……さくらと、よるくん……ちがうなぁ」
彼の名前を一生懸命考える自分に、少し照れながらも微笑んでくれるその顔。
この時間が永遠に続けばいいのに。
「……さくら、よる……あ! “さくや”なんてどう?」
「さく……や」
「うん。さくや!......今日からきみをさくやって呼ぶわ」
満面の笑みを浮かべると、彼も自然と笑ってくれた。
――さくや。
彼の表情が少しだけやわらいだ気がした。
名前。
それは過去を背負わなくてもいい、新しい“始まり”かもしれない。
月のない夜に、名もなき二人が交わしたささやかな名乗り。
それはきっと、あたしのかけがえのない夜になった。
**
言葉が途切れてから、ぽつりぽつりと、たわいもない話が続いた。
月のこと、星のこと。それから、さくらの付人――柊さんという人のことも少し。
まだぎこちなさが残っている。けれど、なんだろう。静かな安心感がそこにあった。
しばらくして、ふと口を開いた。
「……そろそろ、帰る時間です」
彼女が小さく眉を寄せる。
「新月は危ないから」
そう言い添えると、ようやく「わかった」と頷いてくれた。けれど、少しだけ名残惜しそうな目をしていた。
……きっと、自分も同じ顔をしていたんだろう。
まだ、もう少し話していたい――そんな思いが胸の奥に、ふっと灯る。
「……明日は来るの?」
その一言が不意に耳に届いた。思わず彼女を見る。
「晴れたら」
「……雨の日は?」
「雨の日は道がぬかるんでいて危険なので……行きませんよ」
「……絶対?」
少し間を置いてから、静かにうなずく。
「……はい。絶対です」
「晴れたら、また来てもいい?」
彼女の声が、どこか期待に満ちていた。
「……はい」
その瞬間、ぱっと彼女の表情が明るくなる。まるで花が開くように。
「もし雨だったら……明後日?」
「そうですね」
「わかったわ」
「……」
「さくやは帰らないの?」
「……ぼくはもう少しだけ。すぐに帰りますよ」
「そっか。じゃあ……またね」
そう言って、彼女はそっと手を振った。ぼくも静かに一礼する。
さくらは背を向けて、ゆっくりと歩き出す。柊さんのもとへ向かい、少し距離を取ったところでふと振り返った。
……無意識だった。気づけば、ぼくは手を振っていた。
すると、さくらは大きく手を振り返してくれた。
柊さんが静かに頭を下げ、二人は山の闇へと消えていった。
**
風が少しだけ冷たくなっていた。
静寂が戻った夜の湖畔で、ぼくは一人立ち尽くす。
彼女の姿が完全に見えなくなったあとも、心にはまだ、あたたかい何かが残っていた。
彼女がくれた名前を、何度も何度も、心の中で呼び返す。
彼女の声で。優しい笑顔と一緒に。
さくや。
さくや……。
――名乗る価値もない人間だと思っていた。
人として扱われたことなんてなかった。
名前なんて、持っていたって意味がない。そう思っていた。
だけど。
顔が、熱い。
誰もいないのに、ぼくは思わず顔を伏せる。
胸の奥にずっとあった鉛のような重みが、少しずつ軽くなる。
「……あたたかい」
ぼそっと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
その場にそっとうずくまる。
――はぁ。
ため息が、ひとつ。
唇が、なぜか震える。
そっと顔を上げると、空いっぱいに星が散っていた。
月のない新月の夜。光を失ったはずの空は、信じられないほど、澄みきっていた。
気づけばぼくの目からは、涙がこぼれていた。
ぼくは、ずっと人として受け入れてもらいたかったのかもしれない。
本当は、みんなに名前を呼んでほしかった。
どんなに傷つけられても、ただ名前を呼んで、受け入れてほしかった。
それだけだったんだ。
ぽろぽろと涙が落ちる。止まらない。
震える手で顔を覆いながら、どうしようもなく、笑ってしまう。
「……そっか。そうだったんだなぁ……」
静かに、静かに泣いた。
まるで、気づかれないように泣くことに慣れてしまった子どものように。
涙の理由が、自分自身の心の中にあったと気づいてしまったから。
今はまだ、言えない。
でも――
いつかちゃんと、名前を伝えたいと思った。
本当の名前を。
自分が自分として生きていた、あの名前を。




