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仮初の夜に咲く  作者: 月海
第4章
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優しさの形 ― 交わる想いが、心に灯る

「あと……三日……!」


朝の身支度を終えると同時に、私は鏡の前で拳を握りしめた。柊が持ってきてくれた小さな暦帳には、きっちりと赤い丸で新月の日が記されている。


「……お嬢様、あまり気を張りすぎて体調を崩されぬように」


「わかってるわ。でも今度こそ、名前をちゃんと名乗らなきゃ」


くすくすと笑う柊の声に、私も思わず笑みを返した。彼の表情が、心なしか前より柔らかくなっている気がする。きっと私が元気でいることが、少しでも嬉しいのだろう。


「……ねえ、柊。自然に名前を聞くにはどうしたらいいと思う?」


「そうですねぇ……“あなたは?”と、まっすぐ聞いてしまうのも手ですが……お嬢様には少々照れが強すぎるご様子」


「う……否定できないわ……」


鏡越しに目を合わせて、ふたりで笑い合う。こんな風に心から笑えるのは、久しぶりな気がした。まるで胸の奥で咲いた花のように、あたたかな気持ちがじんわりと広がっていく。


柊はそんな私を見て、ふっと目を細める。


「……おてんばな妹を持つと、兄の気持ちが少しわかる気がしますね」


「それどういう意味よ!」


「そのままの意味ですよ、お嬢様」


すっかりからかわれてしまったけれど、心が弾む。早く会いたい。あの人に――


**


鍬を握る手が、少しずつ、確かさを取り戻していた。


いつもと同じ朝。土の匂いと、夜露の冷たさが肌を刺す。けれど、そのすべてが少しだけ――ほんの少しだけ、違って感じられる。


"あの子”の声が、耳の奥に残っている。


(……また、来てもいい?)


口元が緩んだ自分に、ふと気づいて鍬を止める。


「……変な子だな」


「誰が?」


不意に背後から声がした。振り向けば、征士郎が立っていた。朝の光に少し眩しそうに目を細めながら、どこか安堵したような顔で。


「そろそろ朝飯の時間だぞ」


「ああ……」


鍬を納屋の壁に立てかけると、二人並んでゆっくりと家路につく。空が白くなり、夜の気配が溶けていく。


その沈黙のなかで、征士郎がぽつりとつぶやいた。


「……よかった」


「何が?」


聞き返すと、征士郎はすぐに目を逸らした。


「……ん? いや? なんも?」


不自然なごまかし。ぼくは目を細める。


「……兄上、夜に外を歩く人って……珍しいと思いませんか?」


ふとしたように、けれど意図を含んで投げた問い。


隣を歩く征士郎が振り向く。朝の薄明かりに照らされたその横顔に、特に変わった反応はない――ように見える。


「まあ、そうだなあ。普通は寝てる時間だ」


「……ですよね」


ぼくは何気ない顔を装いながら、横目で彼の表情を探る。


(……やっぱり、何か知ってる)


ごまかすように笑ったその口元が、いつもの彼とは少し違って見えた。


沈黙が落ちる。けれど、気まずさはなかった。ただ、風が少し強く吹いて、朝露の残る草をそよがせる。


その時だった。


「でもまあ……ほんとに行くとは思わなかったなあ……」


ぼくの歩みが止まる。


「……」


征士郎の顔がぴたりと固まった。


「……あっ」


彼はしまった!という顔で口を押さえる。完全に、やってしまったというやつだ。


ぼくは腕を組んで、肩をすくめて見せる。


「……やっぱり兄上だったんですね」


「言ってない。俺は何も言ってない。ただ……ちょっと......独り言を……」


「独り言...ですか?」じとっと征士郎を見る。


「お、俺はよく独り言言うんだよ!」


必死に腕を組んで、言い張る兄。けれどその言葉はどこか軽くて、ぼくは思わず笑ってしまいそうになった。


「……ふふ。独り言ねえ...」


「そう。独り言だ!」


征士郎の横顔は妙に真剣で、けれどどこか間の抜けた必死さがにじんでいる。


そんな彼を見ていると、胸の奥がふわりとあたたかくなった。


自分のことを誰よりもわかってくれている。何も言わずに背中を押してくれた――


その存在が、たまらなく嬉しかった。


征士郎は、不意にぼくの肩に腕を回し、にやりと笑う。


「よーし、今日はたくさん食べるぞ! な?」


「……兄上、痛いです。それにこんなところ誰かに見られたら――」


「いいじゃん、たまには」


ぐいっと肩を組まれながら、ぼくはくすぐったそうに顔をそらした。


この日常が――今この時間が、確かに幸せだと感じられた。


少しだけ、胸が熱くなる。


そんな、優しい夜明けだった。


**


新月の夜は、音がよく通る。

けれど、今日は風もなく、まるで世界に自分しか存在しないような、静けさだった。


ぼくは湖のほとりにしゃがみ、身じろぎもせずに空を仰ぐ。

空一面の星々。月のない夜は、闇を深くするけれど、そのぶん星の光が際立つ。


…何かが来る気配。


風も草も揺れていない。けれど、確かに空気が変わった。

獣か?


ぼくは息を殺し、そっとその場を離れて茂みに身を潜める。

音は立てない。気配を消すのは慣れている。何年も、そうやって生きてきた。


目を凝らして、闇に目を馴染ませる。

……人影。ひとつ、ふたつ。


ふたり?


一人はすぐにわかった。あの子だ。

淡い桜色の着物が、星の光をぼんやりと受けて、夜闇の中にふわりと浮かんで見えた。


でももう一人は――誰だ?


ぼくはその影を凝視する。体格からして男。

警戒心が咄嗟に膨らむ。まさか、知らない人間?つけられていた?


その時――


パキッ


足元の枝を踏んだ。

しまった。


警戒するようにこちらを見ていた男の姿が目に入った瞬間、その男は咄嗟に彼女の前へと躍り出た。まるで、獣でも見たかのように。身構え、護衛の体勢をとる。


だが、男はすぐに警戒を解いた。そして、ぼくを見て何かを察したのだ。


いや、違う。男はぼくの視線に――感情を押し殺しながらも、何か言いたげに、ただじっと見つめるその目に――焦りを覚えていた。


**


冷たい汗がにじむ。


(まずい。これはまずい。)


柊は焦っていた。


あの晩、お嬢様は彼のことを静かに、けれど細やかに語っていた。

声のトーンも、言葉の選び方も、どこか大切な宝物をそっと触れるような、そんな風だったのをよく覚えている。

けれど彼に、私のことは話していないはずだ。


なのに――彼の視線が、自分をまっすぐにとらえる。


無表情の奥に、確かに何かが揺れていた。


自分が余計な存在だったのではないかという不安が、胸をひりつかせる。

けれどその瞬間、隣に立つ彼女が胸元に手を置いた。


その指先が、わずかに震えていた。


**


胸元に置かれた手が、ぎゅっと震える。


誰にも言わないと、そう約束したのに。

彼の視線が柊をとらえた瞬間、心臓が跳ねた。


(どうしよう……)


ふと頭に浮かんだのは、あの日の雨だった。

何も言わずに立ち去った、あの背中。あの目。

もう、二度と会えないかもしれない――

嫌われるかもしれない――

やっと芽生えかけた感情を、また壊してしまうかもしれない。


それでも、だからこそ。

自分の言葉でちゃんと伝えたかった。


「こ、この人は付人の柊。……実はこの間も、一緒にここへ来ていたの。」


「…………。」


「……黙っていて、ごめ――」


「よかった」


謝ろうとした言葉が、あの人の安堵にかぶさって空中で消えた。


「……一人じゃなくてよかったです」


彼の声は、ただ静かで、優しかった。

責めるわけでも、問いただすわけでもない。

ただ、心から安堵しているような――そんな声。


その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


嫌われたと思っていた。

裏切ってしまったと思っていた。

けれど彼は、私のことを心配してくれていた。

その想いが、たまらなく、切なかった。


**


柊はその声を聞いた瞬間、思わず目を伏せた。

かつて、自分が見た彼は――冷たく、感情のない影だった。


再会の前夜。

気配を殺し、息を潜め、ただ彼の背中を見つめていた。

あの時の彼は、まるで世界から切り離された存在だった。

誰にも求められず、何も望まず、ただ生きているだけ。

痛いほど静かで、空っぽな目をしていた。


――すべてを諦めた様子だった。


なのに。


「一人じゃなくて、よかったです」


その一言が、あまりにもあたたかくて。

心の奥に何かが音を立てて崩れていくのを感じた。


自分の見たものは幻だったのか、それとも――

今お嬢様の前にいるこの人が、ようやく見せられた本当の姿なのか。


――こんなに、優しい人だったのか。


柊は胸の内で深く息を吐いた。


「私はここにいます。どうぞ、ごゆっくり」


そして、お嬢様の背中をそっと押す。

遠慮がちに、けれど確かに、一歩、前へ――


「きゃっ……!」


驚いた彼女がこちらを振り返り、睨むような目を向ける。

柊は無言で片手を振ってみせた。

追い払うような、でもどこか優しい仕草で。


「……私は、ここにいますから」


それだけ言って、そっと背を向けた。


**


ぼくはそのやり取りを、見つめていた。

あの柊という男が、自分に何かを預けた――それがわかった。


命の価値などない。

そう思っていた。

誰にとっても不要な存在だと、ずっとそう思って生きてきた。


あの子の側にいる価値があると、そう思ってもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。


ぼくは、そっと彼女に目を向ける。


彼女が一歩、自分に向き直る。

不安と決意の入り混じったまなざしで、湖の方を指さした。


「……一緒に、歩かない?」


その声はかすかに震えていた。

それでも逃げずに、正面から差し出されたその誘いが――まぶしかった。


ぼくは小さく頷く。


「わかりました」


そして静かな湖へと歩き出す。


夜は深く、冷たいはずなのに――

心のどこかに、やわらかな光が灯るような気がした。

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