優しさの形 ― 交わる想いが、心に灯る
「あと……三日……!」
朝の身支度を終えると同時に、私は鏡の前で拳を握りしめた。柊が持ってきてくれた小さな暦帳には、きっちりと赤い丸で新月の日が記されている。
「……お嬢様、あまり気を張りすぎて体調を崩されぬように」
「わかってるわ。でも今度こそ、名前をちゃんと名乗らなきゃ」
くすくすと笑う柊の声に、私も思わず笑みを返した。彼の表情が、心なしか前より柔らかくなっている気がする。きっと私が元気でいることが、少しでも嬉しいのだろう。
「……ねえ、柊。自然に名前を聞くにはどうしたらいいと思う?」
「そうですねぇ……“あなたは?”と、まっすぐ聞いてしまうのも手ですが……お嬢様には少々照れが強すぎるご様子」
「う……否定できないわ……」
鏡越しに目を合わせて、ふたりで笑い合う。こんな風に心から笑えるのは、久しぶりな気がした。まるで胸の奥で咲いた花のように、あたたかな気持ちがじんわりと広がっていく。
柊はそんな私を見て、ふっと目を細める。
「……おてんばな妹を持つと、兄の気持ちが少しわかる気がしますね」
「それどういう意味よ!」
「そのままの意味ですよ、お嬢様」
すっかりからかわれてしまったけれど、心が弾む。早く会いたい。あの人に――
**
鍬を握る手が、少しずつ、確かさを取り戻していた。
いつもと同じ朝。土の匂いと、夜露の冷たさが肌を刺す。けれど、そのすべてが少しだけ――ほんの少しだけ、違って感じられる。
"あの子”の声が、耳の奥に残っている。
(……また、来てもいい?)
口元が緩んだ自分に、ふと気づいて鍬を止める。
「……変な子だな」
「誰が?」
不意に背後から声がした。振り向けば、征士郎が立っていた。朝の光に少し眩しそうに目を細めながら、どこか安堵したような顔で。
「そろそろ朝飯の時間だぞ」
「ああ……」
鍬を納屋の壁に立てかけると、二人並んでゆっくりと家路につく。空が白くなり、夜の気配が溶けていく。
その沈黙のなかで、征士郎がぽつりとつぶやいた。
「……よかった」
「何が?」
聞き返すと、征士郎はすぐに目を逸らした。
「……ん? いや? なんも?」
不自然なごまかし。ぼくは目を細める。
「……兄上、夜に外を歩く人って……珍しいと思いませんか?」
ふとしたように、けれど意図を含んで投げた問い。
隣を歩く征士郎が振り向く。朝の薄明かりに照らされたその横顔に、特に変わった反応はない――ように見える。
「まあ、そうだなあ。普通は寝てる時間だ」
「……ですよね」
ぼくは何気ない顔を装いながら、横目で彼の表情を探る。
(……やっぱり、何か知ってる)
ごまかすように笑ったその口元が、いつもの彼とは少し違って見えた。
沈黙が落ちる。けれど、気まずさはなかった。ただ、風が少し強く吹いて、朝露の残る草をそよがせる。
その時だった。
「でもまあ……ほんとに行くとは思わなかったなあ……」
ぼくの歩みが止まる。
「……」
征士郎の顔がぴたりと固まった。
「……あっ」
彼はしまった!という顔で口を押さえる。完全に、やってしまったというやつだ。
ぼくは腕を組んで、肩をすくめて見せる。
「……やっぱり兄上だったんですね」
「言ってない。俺は何も言ってない。ただ……ちょっと......独り言を……」
「独り言...ですか?」じとっと征士郎を見る。
「お、俺はよく独り言言うんだよ!」
必死に腕を組んで、言い張る兄。けれどその言葉はどこか軽くて、ぼくは思わず笑ってしまいそうになった。
「……ふふ。独り言ねえ...」
「そう。独り言だ!」
征士郎の横顔は妙に真剣で、けれどどこか間の抜けた必死さがにじんでいる。
そんな彼を見ていると、胸の奥がふわりとあたたかくなった。
自分のことを誰よりもわかってくれている。何も言わずに背中を押してくれた――
その存在が、たまらなく嬉しかった。
征士郎は、不意にぼくの肩に腕を回し、にやりと笑う。
「よーし、今日はたくさん食べるぞ! な?」
「……兄上、痛いです。それにこんなところ誰かに見られたら――」
「いいじゃん、たまには」
ぐいっと肩を組まれながら、ぼくはくすぐったそうに顔をそらした。
この日常が――今この時間が、確かに幸せだと感じられた。
少しだけ、胸が熱くなる。
そんな、優しい夜明けだった。
**
新月の夜は、音がよく通る。
けれど、今日は風もなく、まるで世界に自分しか存在しないような、静けさだった。
ぼくは湖のほとりにしゃがみ、身じろぎもせずに空を仰ぐ。
空一面の星々。月のない夜は、闇を深くするけれど、そのぶん星の光が際立つ。
…何かが来る気配。
風も草も揺れていない。けれど、確かに空気が変わった。
獣か?
ぼくは息を殺し、そっとその場を離れて茂みに身を潜める。
音は立てない。気配を消すのは慣れている。何年も、そうやって生きてきた。
目を凝らして、闇に目を馴染ませる。
……人影。ひとつ、ふたつ。
ふたり?
一人はすぐにわかった。あの子だ。
淡い桜色の着物が、星の光をぼんやりと受けて、夜闇の中にふわりと浮かんで見えた。
でももう一人は――誰だ?
ぼくはその影を凝視する。体格からして男。
警戒心が咄嗟に膨らむ。まさか、知らない人間?つけられていた?
その時――
パキッ
足元の枝を踏んだ。
しまった。
警戒するようにこちらを見ていた男の姿が目に入った瞬間、その男は咄嗟に彼女の前へと躍り出た。まるで、獣でも見たかのように。身構え、護衛の体勢をとる。
だが、男はすぐに警戒を解いた。そして、ぼくを見て何かを察したのだ。
いや、違う。男はぼくの視線に――感情を押し殺しながらも、何か言いたげに、ただじっと見つめるその目に――焦りを覚えていた。
**
冷たい汗がにじむ。
(まずい。これはまずい。)
柊は焦っていた。
あの晩、お嬢様は彼のことを静かに、けれど細やかに語っていた。
声のトーンも、言葉の選び方も、どこか大切な宝物をそっと触れるような、そんな風だったのをよく覚えている。
けれど彼に、私のことは話していないはずだ。
なのに――彼の視線が、自分をまっすぐにとらえる。
無表情の奥に、確かに何かが揺れていた。
自分が余計な存在だったのではないかという不安が、胸をひりつかせる。
けれどその瞬間、隣に立つ彼女が胸元に手を置いた。
その指先が、わずかに震えていた。
**
胸元に置かれた手が、ぎゅっと震える。
誰にも言わないと、そう約束したのに。
彼の視線が柊をとらえた瞬間、心臓が跳ねた。
(どうしよう……)
ふと頭に浮かんだのは、あの日の雨だった。
何も言わずに立ち去った、あの背中。あの目。
もう、二度と会えないかもしれない――
嫌われるかもしれない――
やっと芽生えかけた感情を、また壊してしまうかもしれない。
それでも、だからこそ。
自分の言葉でちゃんと伝えたかった。
「こ、この人は付人の柊。……実はこの間も、一緒にここへ来ていたの。」
「…………。」
「……黙っていて、ごめ――」
「よかった」
謝ろうとした言葉が、あの人の安堵にかぶさって空中で消えた。
「……一人じゃなくてよかったです」
彼の声は、ただ静かで、優しかった。
責めるわけでも、問いただすわけでもない。
ただ、心から安堵しているような――そんな声。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
嫌われたと思っていた。
裏切ってしまったと思っていた。
けれど彼は、私のことを心配してくれていた。
その想いが、たまらなく、切なかった。
**
柊はその声を聞いた瞬間、思わず目を伏せた。
かつて、自分が見た彼は――冷たく、感情のない影だった。
再会の前夜。
気配を殺し、息を潜め、ただ彼の背中を見つめていた。
あの時の彼は、まるで世界から切り離された存在だった。
誰にも求められず、何も望まず、ただ生きているだけ。
痛いほど静かで、空っぽな目をしていた。
――すべてを諦めた様子だった。
なのに。
「一人じゃなくて、よかったです」
その一言が、あまりにもあたたかくて。
心の奥に何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
自分の見たものは幻だったのか、それとも――
今お嬢様の前にいるこの人が、ようやく見せられた本当の姿なのか。
――こんなに、優しい人だったのか。
柊は胸の内で深く息を吐いた。
「私はここにいます。どうぞ、ごゆっくり」
そして、お嬢様の背中をそっと押す。
遠慮がちに、けれど確かに、一歩、前へ――
「きゃっ……!」
驚いた彼女がこちらを振り返り、睨むような目を向ける。
柊は無言で片手を振ってみせた。
追い払うような、でもどこか優しい仕草で。
「……私は、ここにいますから」
それだけ言って、そっと背を向けた。
**
ぼくはそのやり取りを、見つめていた。
あの柊という男が、自分に何かを預けた――それがわかった。
命の価値などない。
そう思っていた。
誰にとっても不要な存在だと、ずっとそう思って生きてきた。
あの子の側にいる価値があると、そう思ってもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。
ぼくは、そっと彼女に目を向ける。
彼女が一歩、自分に向き直る。
不安と決意の入り混じったまなざしで、湖の方を指さした。
「……一緒に、歩かない?」
その声はかすかに震えていた。
それでも逃げずに、正面から差し出されたその誘いが――まぶしかった。
ぼくは小さく頷く。
「わかりました」
そして静かな湖へと歩き出す。
夜は深く、冷たいはずなのに――
心のどこかに、やわらかな光が灯るような気がした。




