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仮初の夜に咲く  作者: 月海
第3章
3/9

月の下で、心がほどける ― 言葉より近く

夜明け前の山は、静かすぎるほど静かだった。

 私の足元を照らすのは、雲ひとつない空に浮かぶ三日月の淡い光。

 時折、風が枝葉を揺らし、名もなき鳥の羽ばたきが暗がりを横切っていく。


 その道のりは、夢の中のようにぼやけていた。

 どれだけ歩いたのか。どんな景色を見たのか。思い出せない。

 ただ、たどり着かなければという一心で、私は一歩一歩、前へ進んだ。


 湖が見えたのは、ちょうど寅の刻の始まり。

 夜の名残と朝の気配が入り混じる、水辺の世界。


 そこで、彼の背中を見つけた。


 けれど——

 いざ声をかけようとした瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


(……どうしよう)


 言葉が出てこない。心臓が、嫌なほど速く打っている。

 何を言えばいい? 何から話せばいい?

 今ここで何かを間違えたら、きっともう、彼とは二度と話せなくなる。


 そんな不安が、私の喉を塞いでいく。


「……深呼吸しましょう」


 静かな声が、背後から届いた。


 驚いて振り向けば、そこには柊がいた。

 彼はそっと私の両肩に手を添え、落ち着いた目で見つめる。


「お嬢様は、どうしても彼に会いたかったんですよね?」


 こくりと頷く。


 柊は、そのまま穏やかな声で続けた。


「飾らなくていい。演じなくていい。ありのままの想いを、ぶつけましょう」


 その言葉が、胸の奥にぽっと灯をともす。

 深く息を吸って、そっと吐く。胸のざわめきが、すうっと引いていく。


「……うん。行ってくる」


 柊は何も言わず、微笑んで一歩退いた。

 身なりを整え、大きく一度深呼吸をする。そして――


 一歩、湖の方へと踏み出した。


**


 ぼくは、湖のほとりにいた。


 夜明け前の静かな水面に、まだ沈みきらない三日月が映っている。誰もいないと思っていたその場所で、背後からふいに声がした。


 「……やっと、見つけた」


 あのときの声だった。濡れた姿で現れたあの日の少女。


 もう二度と会うことはないだろう。そう思っていた。


 けれど、振り向いた先に――彼女は、確かに立っていた。


 驚いて言葉を失うぼくに、彼女は笑って言った。


 「逃げたままじゃ終われないでしょう?」


 そう言って、彼女は腕を組みながらにやりと笑った。その姿が、夜気の中でやけに鮮やかに映った。


 初めて、ちゃんと顔を見る。

 大きな瞳に、透き通るような白い肌。胸元までまっすぐに伸びた黒髪は、夜風になびいて揺れていた。華奢な体つきのせいか、一見病弱そうにも見えるけれど、この湖まで一人で来たのだ。意外と足腰は強いのかもしれない。


 ぼくは頭の中で静かにため息をついた。自分だけの隠れ場所を知られてしまったこと。そして何より、あの日の姿――涙をこらえていた自分を見られていたのではないかという不安が、胸にひそかに広がる。


 「きれい」


 ふと、彼女が湖を見ながら呟いた。


 「……でしょ」


 そっけない声で応じる。視線は湖の方へ向けたまま。


 「女の子が一人でこんなところに来るなんて危ないですよ。早く帰った方が――」


 「やだ」


 言い切るような口調に、ぼくは思わず彼女を見た。


 「やだって……ぼく、男ですよ。何をするかわかりませんよ」


 「あなたは何もしない」静かな断言だった。


驚いて言葉を失うぼくの前で、彼女はそっと足元を見下ろし、一瞬だけ迷ったような仕草を見せた。けれど、決意したようにその場に膝を折る。


腰を下ろしたのは、ぼくのすぐ隣――ではなく、ほんの一人分、間をあけた位置だった。


距離は遠くもなく、近くもない。けれど、心を傾ければ、互いの息遣いが届くほどの場所。


きっと、彼女なりに考えたのだろう。


 「……素敵な着物が汚れますよ」


 「なにそれ。嫌味?」


 「すみません」


 「謝らなくていい。ていうか、なんで敬語なの? ……私がいいとこの娘だから?」


 じっと睨まれるような視線に、ぼくは視線を落とす。


 「……まぁ、一応」


 「一応ってひどい!」


 笑い声が夜の空気に響く。こんなにも無邪気に笑う人だったのかと、改めて驚かされる。


 「敬語じゃなくていいよ」


 「そういうわけには……」


 彼女を見ながらそう答えたとき、不意に彼女が湖の方を見つめながら言った。


 「なんで……なんで、雨に濡れてたの?」


 心臓が跳ねた。


 やはり、あの日のことを覚えていたのか。いや、むしろ確信を持っていたのだろう。ぼくは焦りと羞恥で目を逸らす。


 「……やっぱり、あのときの子……」


 視線を向けると、彼女は静かに語り始めた。


 「私ね、あの日、……家出するつもりだったの」


 「……は?」予想外の発言に思わず間の抜けた声が漏れる。


 「両親がすごく過保護でね。外に出ることさえ厳しく制限されてて。特に雨の日なんて絶対にダメ。でも、だからこそ、あの雨の日に家出してやろうって思ったの。雨が嫌いだから。嫌いな日に外に出てやるって。でも――」


 彼女は少し笑った。


 「あなたに会っちゃったの。ずぶ濡れで、すごくつらそうな顔で、でも誰にも気づかれたくないみたいに必死で。声をかけたら、全力で逃げて……あれじゃ、家出どころじゃなかったわよ」


 腰に手を当て、どこか得意げな笑顔。


 「でもね、あの時のあなたの表情が忘れられなかったの。だから探して、こうして見つけたの。……すごいでしょ?」


 まるで子どもが宝物を見つけたように言う。


 ぼくは思う。やっぱり、泣いていたのは見られていたんだと。


 「……きみ、あの時全部がどうでもいいみたいな顔してた。……何があったか、理由を聞きたいわけじゃないよ。言いたくなければ言わなくていい。誰だって、言えないことはあるしね。でも――」


 彼女はぼくをじっと見つめた。その瞳に、揺らぎはなかった。


 「誰かにそばにいて欲しいって時ない? ……なんか、そんな気がしたの。だから私は、あなたに会いにきた」


 心臓が、大きくひとつ鳴った。


 その音が、たしかにぼくの胸に響いた。


 何か言わなければ――。

 けれど、何を言えばいいのかわからなかった。

 ありがとう? ごめんなさい? うれしい? やめてくれ?

 頭の中で言葉がぐるぐると回るけれど、どれもしっくりこない。

 舌の先まで出かかった言葉は、心のどこかで弾かれて、喉の奥で消えてしまう。


彼女は、ただ待っていた。


 ぼくが何かを言うのを、逃げ出さないのを。

 けれどその姿は、さっきまでの強気な言葉とは裏腹に、どこかぎこちなく見えた。


 ぐいぐいと踏み込んでくるような発言の数々に、ぼくは最初、少しだけたじろいだ。


(……なんだか、ずいぶん強引な人だな)


 そう思ったのも束の間。ちらりと彼女を見やると、その横顔はわずかに引きつっていた。

 手のひらは膝の上でぎゅっと握られていて、小刻みに震えている。


 きっと、怖かったのだ。

 踏み込みすぎて拒まれることも、うまく伝わらないことも、すべて。


 でも、それでも来てくれた。


 触れたら壊れてしまいそうな自分に、手を差し伸べてくれた。


 胸の奥に、じんと温かいものが広がる。


 その瞳が、まるで「ここにいてもいい」と語っているようで――


 苦しくて、でも、少しだけうれしかった。


 沈黙が続いた。

 それは不安を煽るものでも、気まずさを際立たせるものでもなく、不思議と心にやさしい余白だった。


 やがて、ぼくはぽつりと口をひらいた。


 「……もう少し、ここにいることはできる?」


 かすれそうな声だった。頼ることにも似たその響きに、彼女は驚いたように目を瞬き、すぐに、ゆっくりと頷いた。


 その頷きは、言葉よりもあたたかく、夜の静けさに溶けていった。


 風が湖面を撫で、木々がさやさやと音を立てる。

 ふたりの肩先に、ひんやりとした夜の気配が降りてきた。


 たったそれだけのやりとりが、どうしようもなく、救いだった。


 沈黙が、こんなにも心地よく感じられるのは初めてだった。


**


「……もう少しだよ」


 彼がぽつりとつぶやく。


 一体何があるのだろう。そう思って横を見ると、彼もちょうどこちらを見ていた。互いに目が合い、ふと胸が高鳴る。


 あの日の彼の顔は、雨と涙に濡れていて、ほんの一瞬しか見ることができなかった。だからこうしてちゃんと見るのは、初めてだ。


 月明かりに照らされた横顔。肌は小麦色で、少しぼさついた髪が風に揺れる。その無造作な雰囲気が、どこか可愛らしかった。大きな瞳は、よく見ると淡い茶色。吸い込まれそうなくらい澄んでいて――でも、もし本人に伝えたら怒られそうだから、言葉にはしなかった。


(……女の子みたいな、丸い目)


 そんな風に思って見つめていると、彼がふと、柔らかく笑った。


 あの日のような歪んだ表情は、もうどこにもなかった。


 言葉もなく、彼が湖の向こうを指差す。何かを言いたいのかと思い、その方向に視線を向けると――


 「……!」


 息を呑む。


 空にはまだ三日月と星々が残っているのに、東の空はすでに夜明けの気配に染まりはじめていた。空は紺色から始まり、水色、黄緑へと少しずつ明るくなっていく。地平線近くでは、橙がにじみ出し、最後に赤が朝を知らせるように滲んでいた。


 こんな場所があったなんて。


 言葉も出ずに見つめていると、彼がぽつりとつぶやいた。


 「そろそろ夜が明ける。……帰らなきゃ。きみも帰った方がいいよ。お家の人が心配する」


 その言葉に、私は一瞬、躊躇した。


 まだ、帰りたくない。もっと話したい。だけど、そんなこと言ったら迷惑かもしれない。そんな気持ちが喉の奥につかえて、言葉にできない。


 彼が小さく首を傾げる。


 「……?」


 私は俯きながら、やっとのことで声を絞り出した。


 「……いい?」


 「え?」


 彼が聞き返す。私は、思いきって顔を上げた。


 「また……また会いに来てもいい?」


 自分でも情けないくらい必死な声だった。でも、目だけは、彼の目を真っ直ぐに見つめていた。


 彼は、ぽかんとした顔をして、それからふっと笑った。


 その優しい笑顔に、胸がじんとあたたかくなる。


 「もっと、きみと話したい」


 私の言葉に、彼は少しだけ黙ったあと、穏やかに言った。


 「抜け出して、バレないの?」


 「大丈夫よ」


 「……ぼくがここに来るのは、新月から三日月までの間だけなんだ。月が大きくなると、明るいから。」


 「次来るのはいつ?」


 「......新月かな。……晴れたらだけど」


 「じゃあ、その日……私もここに来ていい?」


 彼はしばらく考えたあと、小さく頷いた。


 「うん。……その代わり、この場所は誰にも言わないでほしい。ここはぼくの居場所だから」


 「もちろん。絶対に言わない。……約束する」


 「ありがとう。……じゃあ、また」


 「……じゃあ、また」


 彼は静かに立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。後ろ姿が月の光に溶けていくのを、私はただ見つめていた。


 彼の姿が見えなくなるころ、ようやく緊張が解けた。


 ――と思った瞬間、どさっと腰が抜けそうになる。


 「……話せましたか?」


 振り返ると、木陰から出てきたのは、柊だった。


 「柊……! あのね……!」


 思わず勢いよく話し始めようとした私に、柊は柔らかく手を差し出しながら、言った。


 「話したいお気持ちは山々かと存じますが、まずはお屋敷に戻りましょう。旦那さまがお嬢さまの不在に気づかれたら……大変なことになりますよ?」


 「……っ!」


 現実に引き戻され、私は慌てて立ち上がる。


 月の下の夢のようなひとときが、すこしずつ夜明けの光に溶けていく。


 私はその余韻を胸に抱きながら、急ぎ足で家路についた。


 柊もまた、一度自宅へ戻り、あらためて月岡家へと向かうのだった。


**


朝の空気が屋敷に戻ってくる頃、柊が静かに裏口から再び屋敷に入った。まだ館は眠りの中にあり、厳格な当主の気配もない。


 そっとお嬢様の部屋の前に立ち、襖を軽く叩く。


 「お嬢さま。柊です。戻りました」


 すぐに襖がわずかに開き、中からお嬢様が顔をのぞかせる。髪が少し乱れているのに、瞳だけは信じられないほど輝いていた。


 「……入って、柊」


 こくりと頷いて中に入ると、寝台の傍らにちょこんと座って、まるで秘密の宝物を抱えるように胸に手を当てていた。


 「聞いて……柊。わたし、また……彼と話せたの」


 声は弾んでいるのに、音はとても小さい。きっと、壁の向こうに誰かがいることを気にしているのだろう。それでも隠しきれない喜びが、ひとつひとつの言葉に滲んでいた。


 「空がね、ほんとうに綺麗で……夜が明ける前の空って、あんなに色を変えるのね。」


 ときに語彙を失い、ときに思い出しては言葉をつないでいくその様子に、柊は何も言わず頷き続けた。お嬢様のこうした姿を見るのは、たぶん初めてだった。どこか幼く、でも心の奥から喜んでいて――それは、誰にも邪魔できない光だった。


 「……そしてね、次の新月の日にまた会おうって、約束したの。彼は、この場所は誰にも言っちゃだめって言ってた。もちろん、わたし、絶対に言わないわ」


 お嬢様の声がまた少し小さくなる。まるで自分自身と約束を交わすように。


 柊は、そんな彼女の横顔を見つめながら、心の中にふと温かなものが広がっていくのを感じていた。


 ――この人が、こうして笑えるのなら。あの青年が、この笑顔を引き出したのなら。


 言葉にこそしないが、柊の胸の奥にも小さな安堵が灯っていた。


 しばらく沈黙が流れたあと、ふと思い出したように柊が口を開く。


 「……そういえば、お嬢さま」


 「ん?」


 「彼は、なんとおっしゃる方なのですか? お名前を……伺っても?」


 彼女はふと何かに気づいたように表情がぴたりと止まる。


 柊が小さく首を傾げる。


 「……お嬢さま?」


 彼女は少し目を泳がせながら、何かを思い出そうとするように眉を寄せる。


 「……どうかなさいましたか?」


 「……名前……?」


 「え?」


 自分の中の記憶を何度も探るように、焦った目をあちこちに泳がせる。思い出そうとすればするほど、空白が濃くなっていく。


 「えっと……お話ししていたときは、なんとお呼びしていたのですか?」


 柊の至極まっとうな問いに、彼女はピタリと動きを止める。そして、ひとつ、深い息を吐いて――


 「……きみ……」


 肩を落とし、今にも泣き出しそうな顔でぽつりと呟いた。


 「……お嬢さま、まさか――」


 「言わないで! 言わないで! 」


 顔を手で覆い、悔しさと情けなさに潤んだ瞳を必死に隠す。見ている柊のほうがどうしていいか分からず、口を開きかけたその時――


 「静かに! 聞こえてしまいますよ。」


 柊の声に、はっとして口を押さえる彼女。だが、すでに感情のダムは崩れかけていた。


 「あんなに話したのに……」


 部屋の端にちょこんと座り、肩を落として半泣きになっている彼女の姿に、柊は苦笑しながらそっと膝をつく。


 「……大丈夫ですよ。次の新月の日には、きっと名乗ってくださいます。いえ、今度はお嬢さまからお名前をお尋ねになればよいのです」


 「……そうする……」


 涙をこらえながら、ぐすっと鼻をすするお嬢様。その様子があまりにも子どもみたいで、柊は思わず心の中で微笑んだ。


 「それにしても……“きみ”呼びとは……なんとも、お嬢さまらしいですね」


 「言わないでぇぇ……」


 柊は何も言わず、ただそっとお茶を差し出す。その湯気の温もりに、少しだけ彼女の頬が緩んだ。


「……次の新月の日には、まず名前を名乗りましょう。」


 柊がまるで作戦会議のように力強く言う。泣きそうだった彼女の顔にも、ようやく笑顔が戻る。


 「うん、今度は絶対に忘れないようにする。ちゃんと、自分から聞く!」


 誓うように拳を握る。だが、その笑顔を見つめていた柊の表情が、ふいに引きつった。


 「……次の新月……?」


 ぽつりと呟いたその声に、彼女は首を傾げる。


 「どうしたの? 柊?」


 柊は見る見るうちに青ざめていき、固まったままゆっくりと彼女のほうへ視線を向けた。


 「……え? なに? どうしたの?」


 不安そうな声に、柊はおそるおそる言葉を紡ぐ。


 「お嬢さま……次の新月がいつか……お分かりですか?」


 「三日月だったんだから、3日後には新月でしょ!」


 得意げに胸を張る彼女。完全に自信満々なドヤ顔である。


 柊は耐えきれず顔を手で覆い、しばし沈黙した後――


 「……逆です」


 「……へ?」


 「月はこれから満月に向かって満ちていくのです。その後、再び欠けて新月になります。ですので……次の新月は、およそ二週間後でございます……」


 カランッ――。


 彼女の手から、持っていた湯呑みが落ちる。


 「お嬢さま! お怪我は……!」


 「……なんですってーーーーー!!?」


 「お嬢さま、声が大きいですっ」


 その瞬間――


 「朝からなんの騒ぎだ!!」


 怒号と共に、勢いよく扉が開かれる。


 「な、なにも……なんでもありません父上!」


 「湯呑みが割れておるではないか! けがは!? 柊、何があった!」


 「も、申し訳ございません! 少々、月の満ち欠けについての……議論が……」


 「朝っぱらから娘が叫び声を上げるような議論があるか!!」


 ――そして、父親からこっぴどく叱られることとなった。


 けれど、その夜。布団に潜りながら、彼女は思い出す。あの場所、あの声、あのまなざし。


 ――たとえ二週間後でも、また彼に会える。


 それだけで、彼女の胸には灯がともったようだった。世界が少しだけ、きらきらして見える。


**


夜が明け、ぼくはいつものように畑の世話をしていた。だが、手に持った鍬がふと止まる。風が頬を撫で、朝露の匂いが鼻をかすめる中、ふと昨夜の月明かりと、そこで交わした言葉、見上げた瞳が胸をよぎった。


「また来てもいい?」

その声が、耳の奥にまだ残っている気がした。


ぼくは知らず知らずのうちに、頬が緩んでいることに気づく。そして、かすかに笑った。


「……変な子だな」


彼女がどこの誰かも知らない。けれどあの笑顔と、まっすぐな目だけは、しっかりと心に残っている。なぜか心の奥がじんわりと温かかった。


少し離れた小道に立っていた征士郎は、その光景をじっと見つめていた。雨の日から彼があんな顔をするのを、見たことがなかった。


(……会ったんだな)


征士郎は静かに頷く。そして、ぼくが誰かと心を通わせたことに、深く安堵する。


征士郎は心のどこかにあったわだかまりが、すっと溶けていくのを感じた。


だが、その頃彼女は――


彼に会えた喜びで心が躍る中、自分の身に降りかかろうとしている現実を、まだ思い出していなかった。


――まもなく、彼女には「許嫁」が決まることになっていたのだった。


それを知るのは、もう少し先のこと。


そして、次の新月。ふたりは再び湖で出会い、新月から三日月へと移り変わる間――

まるで運命が与えた猶予のような日々を、共に過ごすことになる。


けれど、その三日月が空に浮かんだ夜明けこそが。

最後の朝となるとは、このとき誰も知らなかった――。


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