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仮初の夜に咲く  作者: 月海
第2章
2/9

心のままに ― あなたに会いに、夜を越える

雨の季節は、昔から嫌いだった。

ただでさえ外に出る機会の少ない私にとって、空から降る雫は自由への扉をさらに閉ざす鍵のようなものだったから。


とにかく退屈だった。

いつからこんなふうに感じるようになったのか、私自身にもよくわからなかった。

父と母に大切に育てられ、贅沢な暮らしを与えられてきた。それを羨む人も多いけれど、私から見れば、この屋敷はただの金色の牢獄だ。

外へ出かけるときは、必ず付人がそばにいた。昔は女の人だったけど、何度も逃げ出して困らせたから、ある日を境に男の人へと変わった。


(ひいらぎ)——。


彼は幼なじみで、父と親しい家の息子だった。今は二十歳で、体格もよく、足も速い。

逃げ出したところで、絶対に追いつかれてしまう。けれど不思議と、彼のそばにいるのは嫌じゃなかった。


柊だけは、私の気持ちを理解してくれた。

誰にも気を遣わず、ただ静かに、一人でいたい時があるのだと。


「どうして、私は他の子と違うの?」

「家が立派ってだけで、なんでこんなに縛られなきゃいけないの?」


父上はいつも「品のある女性に」と口うるさく言ってくる。

でも私はそんな理想像におさまる気なんて、さらさらなかった。

もうすぐ十五歳。そして十六になれば、結婚しなければいけないという決まりがある。

しかも相手は、親の決めた人。——最悪だ。


「私の人生って、誰のものなの?」


そんな思いが胸を満たすようになったのは、ここ最近のことだ。

雨の多いこの季節は、特に気が滅入る。


だが今日の空は、今にも降り出しそうではあるけれど、まだ雨粒は落ちてこない。

——出かけるふりをして、もし降ってきたら、チャンスだ。


「柊! 出かけましょう!」

玄関を飛び出す私に、柊が軽く目を細めてついてくる。


「雲行きが怪しくなってきましたね」

「気のせいよ。まだ帰らないわよ」

「雨が降ったら、戻りますよ」

(——このチャンス、逃さないわ)


市場を抜け、歩いていると、子どもたちが輪になって遊んでいるのが見えた。

「私も混ざりたいな……」

「いけません」

「わかってるわよ」

ふてくされたように顔を背けたその時、ふと視線の先にひとりの男が見えた。


(……誰? あの人、子どもたちを見てる? まさか、誘拐!?)


「ねえ、柊。あの人——」


「何してるの!」

母親らしき女性の怒声に、私は思わず体を強張らせた。

子どもたちは家の中へ駆け戻っていく。


ほっと息を吐いてから、再びさっきの男に目をやると、彼は真っ青な顔で震えていた。

(様子がおかしい)


そのとき——、ぽつ、ぽつと冷たい雨が落ちてきた。


「お嬢様、雨が降ってきました。戻りましょう」


柊の声が聞こえたが、私は動けなかった。

彼は微動だにせず、ただ濡れながら、荷物を落としたまま歩き出す。


気がつくと、私は柊の手から傘を奪い、彼の元へ走っていた。

「お嬢様! お待ちください!」


柊の声が背後で追ってくる中、私は彼の前に立って、静かに傘を差し出した。

でも——彼は怯えたような目で私を見て、そしてそのまま逃げるように去っていった。


「お嬢様の知り合いですか?」

「……いいえ」

「見知らぬ男性に近づくのは危険です。今後は——」

「……会いたい」

「え?」

「私、あの人に会いたい。どこの人なのか調べて」

「……いけません」

「柊、彼のことを知ってるの? 私、彼に会って話したいの」

「お嬢様……」


「お願い。彼に会わせて。もう逃げたりしない。約束する。どうしても会いたいの」


理由なんて説明できない。

ただ、あの人の表情が、胸の奥に刺さったのだ。泣いていた——心が。


「だめなら、家に帰らない」

「……!」


ため息をついた柊は、しばらく私を見つめたあと、小さくうなずいた。


「……わかりました。まずは家に戻りましょう。話はそこからです」


屋敷へ戻る道すがら、私は彼が落としていった荷物を拾い上げた。

濡れた風呂敷の中には、衣類や少しの食糧が包まれていた。どれも簡素で、目立つようなものではない。でも、この風呂敷には、どこか見覚えがあった。


「これ……彼が落としていったのよ。何か手がかりになるかもしれないわ」


柊は風呂敷を手に取って、じっとそれを見つめた。表情に、わずかに動揺が走る。


「この風呂敷……」


「見覚えがあるの?」


柊は言葉を濁したまま、私に傘を差し直すと、まっすぐ前を向いて言った。


「まずは帰りましょう。雨の中の外出が知れたら、それこそ、彼に会うことさえ許されなくなります」


「……わかってるわよ」


私たちは足早に屋敷へと戻った。


**


次の日の朝、柊はひとりで屋敷を出て行った。

向かったのは、朝倉家。父上と何かと関わりのある、由緒ある家だ。


「これは、朝倉家の風呂敷ではありませんか?」


柊が風呂敷を差し出すと、応対に出た若い青年が目を見開いた。

征士郎——彼が名乗ったその名は、柊とも交流のある人物だった。


「うちまでお越しいただき、ありがとうございます」


「いえ。通りがかりに落し物を見つけたのですが、風呂敷に見覚えがありましたので。——ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「はい。なんでしょう」


「この風呂敷の持ち主は、朝倉家に仕えている方でしょうか?」


「……はい。彼はうちの付人ですが、何か無礼でも?」


「いえ、とんでもありません。ただ……その方に、会いたいという者がいまして。面会をお願いできませんか?」


「会いたい方、とは?」


「私よ」


声を発したのは、玄関の奥に立つ私だった。

驚く二人をよそに、私はゆっくりと前に出て行った。


「お嬢様?!どうして——」


「柊、私が会いたいのに、自分だけでこそこそ探しに行くのは不公平よ。会わせてもらえないようにされたら困るから、先回りしたの」


ふふんと得意げに笑ってみせると、柊と征士郎は目を丸くしたまま言葉を失っていた。


「……大変申し上げにくいのですが、その方にお会いいただくことはできません」


「どうして?」


「……どうしても、です」


「理由になっていないわ。それなら、こちらからもお断りします。私は納得できる理由がなければ、絶対に引き下がらない」


征士郎は困ったように眉を下げた。


「本人の意向です」


「本人に聞いたの? 私に会いたくないって?」


「……いえ。彼は、今は朝倉家以外の人との接触を避けています。事情があり、しばらくは外との関わりを断つよう言われているのです」


「……(やっぱり、昨日のことが関係している)」


沈黙する私の隣で、柊が静かに声をかけた。


「お嬢様、今日はこのあたりで——。会うことが叶わなくとも、ここにいることがわかっただけでも収穫でしょう?」


「……いいわ。また来る」


そのままくるりと背を向けて帰ろうとした私に、征士郎は深々と頭を下げた。


私は、毎日通った。


屋敷からの目を盗んで、柊を連れて、時には一人で。


朝倉家の門前に立つのも、これで八度目だった。


そのたびに、あの整った顔立ちと冷静な物腰を崩さず、征士郎はこう告げてくる。


「申し訳ありませんが、何度お越しいただいてもお答えは変わりません。——お引き取りください」


その声に苛立ちや怒りはなかった。けれど、それが余計に私の胸を締めつけた。

追い返されるたび、彼に会えるかもしれないという希望は、すり減っていくようだった。


(きっと折れてくれる——そう思っていたのに)


甘かった。


征士郎は、私の素性や本気度を見極めようとするように、頑なに情報を与えてくれなかった。


そして——九日目の朝。


「行きますよ、柊」

「……覚悟は、できているんですね?」


柊の静かな問いかけに、私は小さくうなずいた。


「ええ。もう、このままでは何も変わらないもの」


玄関に立った瞬間、応対に出た征士郎は一瞬だけ眉をひそめた。


「……申し訳ありませんが、何度お越しいただいても——」


その言葉の続きを、真っ直ぐな眼差しが遮った。


「——征士郎さま。今日は、お願いがあります」


征士郎の眉がわずかに動く。


「話を聞いてください。……彼に関する大切な話です」


いつものような笑顔も、軽口もなかった。

そこにあったのは、ただまっすぐな、揺るがぬ決意だけ。


征士郎は、しばし私を見つめていた。

その視線は、まるで心の奥底を見透かすように鋭く、けれどどこか迷いを含んでいた。


やがて——


「……わかりました。少しだけ時間を取りましょう。中へどうぞ」


その扉が、静かに開かれた瞬間——私の心にも、微かな風が吹いた。


そして、私はあの日の出来事を打ち明けた。


「彼……あの日、すごく苦しそうだったの。理由はわからない。でも、胸の奥に刺さるような痛みを感じたの。……どうしても、放っておけなかったの」


私の言葉に、征士郎は微動だにせず、ただ静かにこちらを見つめていた。

けれど、その目の奥が確かに揺れていた。


「……それは、いつのことですか?」


静かな声だった。だがその奥に、なにか鋭く尖ったものが潜んでいた。


「……雨の日。市場の近くで……彼はひとりで、ただ立ち尽くしていたの」


それを聞いた瞬間——征士郎の顔が、はっきりと歪んだ。

普段の彼からは考えられない変化だった。


握られた拳に、青白くなるほど力がこもる。

奥歯を噛みしめる音が、静かな部屋に微かに響く。


(……え?)


殺気のようなものが、空気を震わせた。


「征士郎様……?」と、隣の柊が低く声をかける。


けれど征士郎は答えない。そのまま、何かと戦うように目を伏せ、唇を引き結んだ。


私も、声を出せなかった。

ただ、息を呑んで見つめるしかなかった。


(——この人、泣いてるわけじゃない。でも、すごく怒ってる。苦しんでる)


沈黙のなか、時間が凍ったように過ぎる。


やがて、征士郎は深く、深く息を吸い込んだ。

拳を、ゆっくりとほどく。


そして、ようやくこちらに視線を戻す。


笑顔は戻っていた。けれどその笑顔の奥に、確かに隠された怒りと悲しみがあった。


私も柊も、何も言えず、ただその言葉を待っていた。


沈黙を破るように、征士郎が口を開いた。


「……これはあくまで、私の独り言ですが——」


その声音は低く、どこか探るようであり、同時に試すようでもあった。


「彼は最近、毎晩のように夜中に屋敷を出て、朝方に戻ってきます。行き先は明確ではありませんが……山の方へ向かっているようです」


一瞬、部屋の空気が変わった。


「夜中に行けば、会えるかもしれません」


「お嬢様、さすがに夜中の山中は……」と、隣の柊が小さく制止の声をあげる。


だが——


「夜中に山の中ね! 征士郎さま、ありがとうございます!」


ぱっと表情を輝かせ、私は深く頭を下げる。

その顔は、まるで何かを見つけた子どものようにまっすぐで、曇りひとつない笑顔だった。


征士郎は、その無垢な一途さに思わず目を見張り、言葉を失った。


思わず、視線をそらして小さく息をついた。

けれど、胸の奥に灯った微かな希望が、彼の背中を静かに押していた。


**


朝倉家を後にし、夕暮れの道を歩いて屋敷へ戻る途中。


西の空には茜色が滲み、村全体が淡い橙に染まっていた。風が草木を揺らす。


柊の顔には、あからさまな難色が浮かんでいた。


「……山の中、か……」

小さく呟いたその声は、私の耳にもかすかに届いた。


「何か言った?」


「いえ……ただ……」


言い淀んだ柊が、何か言いかけたとき――


「私の部屋で話しましょう」


まっすぐ前を向いたまま、凛とした声で言った。


その響きには、強い意志が込められていた。


柊は一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を引き締め、静かに頷いた。


「……かしこまりました」


屋敷に戻ると、私はそのまま自室へ向かい、柊も無言でついていった。


部屋の障子から差し込むのは、落ちかけた夕陽の光。

窓辺の障子に映る影が長くのび、部屋の中を柔らかく照らしていた。


静かに腰を下ろし、柊も正座して向かいに座る。

ひと呼吸、沈黙が流れる。


やがて、柊が口を開いた。


「……お嬢様、山には何がいるかわかりません。道も整っているとは限りませんし、日が沈めば、獣も出ましょう。危険が多すぎます」


その声音には、忠義と真剣な心配がにじんでいた。


しかし、私は揺るがなかった。


「でも、行きたいの。彼に――会いたいのよ」


まっすぐに放たれたその言葉に、柊は言葉を失った。

その瞳に宿る確かな想いに、軽々しい反論はできなかった。


やがて、柊は小さくため息をつき、肩を落とした。


「……本気で、会いたいのですね」


「ええ」


その答えに、一点の迷いもなかった。


柊は目を伏せ、そして深く頷く。


「……わかりました。ですが、今夜はどうか待ってください」


「え……?」


「今夜は私が彼の後を追います。どこへ行くのか、どの道が安全か、それを確かめてまいります。そして明日――お嬢様を必ずお連れします」


私はしばらく黙っていた。

行きたかった。自分の足で彼に会いに行きたかった。

そういう冒険に、子どものころから憧れていた。


けれど——


(いま、私が本当にしたいのは、“冒険”じゃない。彼に、会うこと。それだけ)


「……わかったわ。お願いね、柊」


頷く彼の顔は、珍しく真剣で、まるで親のような表情だった。


部屋の中には、ゆるやかな沈黙が戻った。


**


夕飯を済ませ、屋敷の見回りを終えた柊は、私の部屋の前に立ち、最後の確認をした。


「では、今夜はこれで失礼いたします」


「……気をつけて」


短く言った私の声には、どこか切なさがにじんでいた。


柊は小さく一礼し、そのまま屋敷を後にする。

表向きには「帰宅」と見せかけて。


夜の空は、まだ少し明るさを残していた。

淡い月が雲間から顔をのぞかせ、静かな夜を照らす。


柊は足音を殺しながら、朝倉家の近くへと向かう。

今夜こそが、すべての始まりになるかもしれない――

そう思いながら。


人気のない道で身を潜め、息を殺す。


(絶対に見つかってはいけない。見つかったら、すべてが水の泡だ)


深夜。屋敷の門が静かに開く。


現れたのは——やはり彼だった。


影のように軽やかで、静かな足取りで、彼は山の方へと歩き出す。

柊は距離を保ち、音を立てぬよう後を追った。


やがて、木々の奥に、湖が見えた。


そこは月明かりに照らされて、静かで穏やかな光に包まれていた。

水面が鏡のように空を映し、時が止まったような場所。


(こんなところがあったのか……)


思わず足を止めて、柊はその景色に見入った。


彼は湖のほとりに立ち、しばらくじっと水面を見つめていた。

その背中には、どこか痛みのような静けさが宿っていた。


(——なるほど。お嬢様が心を動かされたのも、少しわかる気がする)


退屈な日常、閉じた世界。

その中に、まるで異物のように現れた彼という存在。


柊はそっと踵を返す。


そして、来た道をたどりながら、お嬢様を導ける安全なルートを確かめていく。

遠く、夜空に星が瞬き始めていた。


翌朝、柊はいつも通りの顔で私のもとを訪れた。

だがその目の奥には、確かな覚悟が宿っていた。


「目的地は、湖です。とても静かな場所でした。時刻は——寅の刻、午前四時前後」


私は静かに息を呑む。


「出発はその少し前。……丑三つ時が最適です。彼より先に着かぬよう、気をつけてください」


柊の声は低く、そして真剣だった。


「私も一緒に行きます。近くまで同行して、見張りと安全の確認をします」


そして一歩、私のほうへ寄る。


「絶対に、守ってください。……その代わり、私も守ります」


私はその言葉に、まっすぐ頷いた。


だが——胸の奥には、どうしても抑えきれない感情があった。


(やっと、彼に会える……! そして、夜中に外へ出て、誰も知らない場所へ……!)


心が高鳴るのを止められず、頬が自然と緩んでいく。


「……にやけてますよ、お嬢様」


「にやけてない!」


慌てて顔を引き締めたが、柊にはすっかり見抜かれていた。


準備を終えたあと、柊は一礼して退出する。


そのまま、帰宅……するはずだった。


けれど、彼の足はまっすぐ、夜の月岡家へと向かっていた。


月は澄み、空気は凛と冷たい。

その静けさの中、柊はふと足を止めて空を仰ぐ。


(……申し訳ありません、旦那様。けれど——)


目を閉じ、そっと頭を垂れる。


風が柊の髪を揺らした。

やがて彼はまた顔を上げ、静かに歩き出す。


こうして、「作戦」は——動き出した。


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