雨の出会い ― 忘れられない音に導かれて
あの日の空は、鉛色だった。
走った。森を抜け、山を越え、息が切れるまで。
目に映る景色は霞み、耳に届くのは自分の呼吸と地面を叩く雨の音だけだった。
怖かった。死ぬほど怖かった。
母の怒号。手にした棒。何度も、何度も、叩かれた。
父は止めてくれなかった。むしろ逃げるように家を出て、帰ってくるのはいつも夜だった。
僕にとって「大人」は、ただ恐怖の象徴だった。
生まれてから一度も、「優しさ」なんて知らなかった。
だから、あの日。家を飛び出した。
空腹と寒さで意識はもう限界だった。足元は泥で滑り、倒れた土の冷たさが、なぜか少しだけ心地よかった。
このまま目を閉じれば、痛みも恐怖も、すべてが終わる。
そう思った。
けれど──僕は、まだ生きていた。
*
目を覚ましたのは、畳の上だった。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……許して……もうしません……」
見知らぬ天井。近づいてくる足音に、条件反射のように身体が震えた。
両腕で頭を抱え、壁際にうずくまる。怒鳴られる。叩かれる。
ただ、その思いだけが頭を埋め尽くしていた。
けれど、次に届いたのは──
「……痛くないか?」
落ち着いた、あたたかな声。
それは怒りでも、恐怖でもなく──初めて触れる、やさしい響き。
体の震えが、徐々に弱まっていく。
そっと背中をさする、やわらかな手。
僕はその温もりにすがるようにしがみつき、声をあげて泣いた。
嗚咽が止まらなかった。
こんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。
「……頑張ったな」
そう言ってくれたのは、二歳年上の男の子だった。
*
「メシの時間だ!顔洗ってこい!」
次の日。ふすまを開けて差し込んだ朝の光の中で、笑いながらそう言う彼の姿が見えた瞬間、僕はふたたび涙をこらえきれなかった。
彼の名は──朝倉征士郎
彼の両親も、僕を怖がらせまいと静かに接してくれた。
少しずつ、でも確かに、僕の心に染み込んでいった“人のやさしさ”。
あの日から、僕は彼の“弟”として生きていくことになった。
けれど──
心の奥には、触れてはいけない黒い箱のようなものがあった。
それを開けたくなくて、過去の記憶は少しずつ霞んでいった。
そして、月日は流れ──
一六歳のある日
空に灰色の雲が垂れ込めていた。
市場での買い出しを終え、急いで帰る途中だった。西の空から冷たい風が吹きはじめ、雨の気配が鼻をかすめた。ぼくは足を速めながら、山道を下っていた。
その時だった。
近所の子どもたちが棒を振り回しながら遊んでいるのが視界の端に入った。
ただの遊びなのに、その光景に胸がざわつく。空気が歪む。
次の瞬間、背後から、誰かが怒鳴る声が響いた。
「何してるの!」
高い、強い声。どこかの母親の声だ。
その声がぼくの耳に届いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
同時に、全身の神経が一気に逆撫でされたように総立ちになる。
呼吸が乱れ、手元が滑る。
買っていた食料が手からこぼれ落ち、包んでいた布から転がり落ちた野菜や干し物が、ぬかるんだ地面に散らばる。
「……やめて……やめて……!」
思わず口をついて出た声は、自分でも驚くほど幼かった。
体が震え、視界が歪む。何かが――記憶の奥底で、重い扉が開いた。
血の気が引いていく。
それは、決して思い出してはいけなかったものだった。
棒を振り上げる母の姿。
止めもせず目を逸らした父の背中。
そして、あの雨の日――。
「……そうだ。僕は、逃げたんだ。雨の日に……逃げたんだ……!」
ぽつり、ぽつりと、雨粒が頬に落ちる。
やがてその音は数を増し、激しい雨音に変わった。
通りすがりの人々が急いで家へと駆けていくなか、ぼくだけが立ち尽くしていた。
全身が震え、心だけが時間の流れを失っていた。
そして、気づけば彼は、家とは逆の方向へと歩き出していた。
誰にも気づかれずに、誰の声にも応えずに。
ただひたすらに、記憶の残存と向き合うように、川辺へと足を運んでいた。
雨に打たれながら、歩き続ける。
濡れた草が衣を冷やし、足元は泥に沈む。
だがその冷たさは、なぜか心地よかった。
過去の痛みと向き合いながら、ぼくは気づかないまま歩き続けた。
そして、その時だった。
「……ずぶ濡れだよ?」
やわらかく、けれど真っ直ぐに響く声。
ふいに差し出された傘が、ぼくの肩にそっとかぶさった。
驚いて振り返る。
けれど、ぼんやりとした視界の向こう、滲んだ涙と雨で世界は曇っていた。
細い輪郭、華やかな薄紅の着物、そして女の子――。
それだけは分かった。けれど、顔までは見えなかった。
視線が合う前に、ぼくは無意識に言葉を吐き出していた。
「だいじょうぶです……ごめんなさいっ……!」
掠れた声でそれだけ告げると、彼は反射的にその場から駆け出していた。
傘が追いかけてくることもなかった。
振り返ることもできなかった。
ただ、鼓動だけが激しく鳴っていた。
あの声が、耳に焼きついて離れなかった。