変遷
私は封筒を見つめる。
天野が私にと持っていた封筒。
サッチが中身を見た封筒。
今のこの状況を作った元凶。
サッチは直接は言わなかったけど、多分これは、天野くんが私に宛てたラブレター……ってやつ。
大将やサッチには悪いけど、私には天野くんを好きになんかなれない。
こんなことをしていても埒が明かない。
私は、封筒からちらっと覗いている便箋んを奥に押し込んで、花瓶の近くに置いた。そして布団に潜る。
潜ってから、ふと思った。
捨てればいいんだ。
何も律儀に取っておく必要は無い。
ほら、ベッドのすぐ横にゴミ箱があるんだ。
布団から出て腕を伸ばせば届く。
直ぐに、楽に捨てられる。
何も問題はない。
そう思っているはずなのに、封筒を手に取っていざ捨てようとすると、躊躇っちゃってまた元の場所に
置いた。
だって───。
───本当に天野くんが私を助けてくれたの?
───本当に私のことが好さなの?
───そうだとしてサッチ…、本当に諦めちゃっていいの?
───私は、どうすればいいの?
───ラブレターには何が書いてあるの?
───そもそもラブレターなの?
私はもう一度ベッドから這い出て、封筒をてにしてみる。
だけど、やっぱり躊躇っちゃって、また元の場所に戻した。
それを何度も何度も、何度も何度も何度も繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、とうとう捨てることは
出来なかった。
今までも何度かラブレターを貰ったことがある。
でも、こんなに心が乱れたのは初めてだった。
お母さんがお見舞いに来たり、夕食を食べたりした。
でも上の空で、お母さんの言葉に生返事だけして、夕食の時も御飯をポロポロと零しちゃった。
消灯時間になったころ、看護師さんが夜の見回りに来た。
名札には、、小原夏子と書かれている。
「古谷さん、消灯時間よ。早くお休みなさい」
「はい・・・」と答えると、夏子さんは明かりを消し、引戸を閉めて出て行った。
そして、隣の病室の引戸を開く音がした。
私は悩むことを一旦諦め、ベッドに体を倒した。
「天野くん……」
呟いてみるけど、返事をする彼はここにはいない。
しばらくは眠れかったけど、さすがに今日一日だけで人生の重要な決断をするような、悩みに悩むことに疲れ、
いつの間にか深い眠りの海へと落ちていった。
空気が重い───。
空気が熱い───。
ここは、何処───?
濁った紅い色の空が広がっていて、紅蓮の炎を噴き上げる山々が連なっている。
現実の世界だとは思えない。
夢……?
夢にしたって、こんな光景は初めて見るし、すっごく生々しく感じる。
なんか、見ていると、こう…胸がムカムカしてくる光景。
───あっ、飛んだ!?
人間が空を飛べるわけ無いのに、ましてや飛ぼうなんて思ったわけじゃないのに、私の身体ははグングン空に
昇って行く。
突然、ゴゴゴゴゴゴゴという大きな地鳴りがした。
すでに、遥か彼方に遠のいた赤茶けた地面が亀裂割れて、みるみる盛り上がる。
ド ン !
と地面が吹き飛ぶと、赤い鱗に覆われた巨大な龍が現れた。
───なんなの!?
そりゃあ夢なんていいかげんなモンだけど、こんな無茶苦茶なのは……。
赤い龍が、巨大な躯躰のそのまた何倍もある翼をひと振りして、もの凄い勢いで迫って来た。 鋭い牙のならん
だ口を大きく開いて!!
───襲われる!!
でも私の身体は逃げようとしないで、両手を下に向けて突き出した。
私の意志じゃない。
身体が勝手に動く。
すると、突き出した手の先が熱くなっていくのを感じて、白い光が一筋、掌からに赤い龍に注がれた。
赤い龍は白い光に貫かれると、真っ逆さまに赤茶けた地面に墜ちて行った。
ズズズン!
と空気さえも揺さぶる音が轟いて、巨大な躯躰が地面にめり込んだようだ。
と思ったら、パアッと炎の龍巻に姿を変えて襲って来た。
今度は私の身体も逃げようとしたけど、逃げ切れなかった。
熱い───────!!!
「キャアアアアアアアアアアアア………」
「……アアアアアアアアア!!!」
ガバッと寝台で跳ね起きた私は、息を切らせて汗まみれになっていた。
今のは…何?
なんでこんな夢……。
???????????????
ブルッ───。
あっ、お手洗いに行きたくなっちゃった。
ピンクのジャンパーを羽織って、薄暗い廊下を スリッパでパタパタさせながらお手洗いに行った。
まだチヨット腰が痛い。
そして用を済ませて病室に戻ろうとすると、ふと階段が気になった。
一階上の305号室に天野くんがいるはず……。
そう思ったら、つい私はスリッパを手に持って、ソロリソロリと階段を登って行った。
なんとなく緊張する。
壁に張り付いて、ヒョイッと廊下に 顔だけ出す。
すると、薄暗い廊下に一ヶ所だけ明かりが漏れている部屋があった。
廊下に人影が無いのを確かめて、近づいてみる。
明かりが点いているのは、ガラス張りの集中治療室らしかった。
ガラス張りの下、床上五~六十センチくらいまでは普通の白い壁になっているから、そこに隠れて室内を覗い
てみると、中年のお医者さんが一人と、二人の看護婦さんが、いろんな機械を前にして何かをしている。
私は、這うようにして集中治療室の前を通り過ぎると、すぐ隣りが305なのに気がついた。
ネームプレートを確認する。
間違いない。
『天野 命』とそう書いてある。
そして「面会謝絶」とも。
305の引戸には、ストッパーが仕掛けて会って、拳一つ分の隙間が開いている。
そして、隣りの集中治療室から伸びている電線の束が、引戸の隙間から真暗な部屋の中に入っている。
その隙間から室内を覗いていみると、ディスプレイに映し出された呼吸音や心拍数、血圧値なんかを示しているらしい
赤や緑のデジタル数字が、パパッパパッと不気味に変化していた。
「天野くん……」
ふいに声を漏らした時、隣りの集中治療室のガラス張りの引き戸が開く音がした。
ハッと振り向くと、看護師さんが瓶か何かを書開けて出てきた。
───逃げなきゃと思うけど、まだ腰がしっかりしていないから、とてもじゃないけど走れやしない。
「誰……?」
そう言って近づいて来た看護婦さんは、夏子さんだった。
「古谷……さん…………?」
───怒られる!と思ったのに、夏子さんは優しく訊いた。
「どうしてこんな所に?」
「あ…えっと、あの…私‥‥…」
どう答えたらいいの?
思わず305に目がちらっといく。
すると、
「……いいわ。黙っててあげるから、早く部屋に戻りなさい」
私は小声で、
「すいません」とだけ言って、来た時とは反対側の階段の方に行き、夏子さんにペコリと頭を下げてから、階段を
降りた。
そして病室に戻ると、ジャンパーと手に持っていたスリッパを放り出して、ベッドの中に潜り込んで俯せになった。
布団の外に手を伸ばし、封筒を取ってギュッと胸に抱きしめる。
なんだか悲しくて哀しくて、なぜこんなに悲哀しいのかよく判らないけど………。
「あした、明日…………読むからね、天野……くん」
そして再び眠った。
墜ちる! 墜ちる!! 墜ちる!!!
カッと目を見開くと、赤茶けた地面が目の前に迫っていた。
スレスレで身体を翻して着地したかと思うと、すぐに横に跳んだ。
さっき着地した場所に、ズンッ!!と赤い龍の巨大な手がめり込んで来た。
これ、さっき見た夢の続き!?
でも、赤い龍は考える時間なんか与えてくれない。
すぐに手を地面から抜いて、鋭い爪を嵐のように振るう。
その爪よりも速く身体が避ける。
いったい、どうなっているの?!
身体が勝手に……。
───あっ!
赤い龍の手がグンッとゴムのように伸びて来て、身体を貫かれた。
激しい痛みが─────────────走る!!!
夢の中の痛みで、また私は跳び起きた。
肩で息をして、汗がダラダラと流れてくる。
私は、夢の中で貫かれた胸やお腹の辺りを擦ってみた。
もちろん、なんともない。
「な、なんなの? なんで…、こんな夢…。どうして………」
窓のクリーム色のカーテンは、朝日の光で白く煌めいていた。
ふと気がつくと、右手の掌の中で封筒をグシャグシャに握りしめていた。
いっけない、まだ読んでないのに!
慌てて封筒を整える。
整えて…整えたけど……、どうしても中の便箋を取り出すことはできなかった。 読まなくちゃと思うのに。
昨日、読むって誓ったのに──────────────。
──────────────────────────。
───結局、一日中封筒を見つめるだけで便箋を出さずじまいだった。
トマトとサッチも釆なくて、ただ時間を無駄にしてしまっただけって感じ。
───あ~あ、明日には退院か。
いわば、二週間近くも食べて寝るだけだったわけよね……。
体形をもとに戻すだけでも大変だわ。
それでもちゃんと夕食を食べて、すぐに横になった。
気づかないうちに流れていく時間───。
止めることのできない時間───。
ううん『時間はただ止まっていて、私たちだけが移ろいでゆく』って誰かが言ってた。
だとしたら私……、 ───何をしているの?
───何をしたいの?
───何をしたらいいの?
───何をできるの?
何もしないでいると、訳の判らないことばかり考えてしまう。
封筒をてにしてみる。
───この中にヒントがあるかも………。
───答えが…あるかも………。
───天野くん─────────。
指先が、ごく自然に便箋を取り出そうとする。
その時、コンコンと引戸がノックされた。
「はい?」と返事をする傍ら、不意の事に封筒を布団の中に隠してしまう。
引き戸が開き、「古谷さん、消灯の時間よ」と入って来たのは、夏子さんだった。
昨日の事もあるからバツが悪くて、私は横になったままで返事をした。
「あの……昨日はごめんなさい」
「そうね。駄目よ?あんな時間にあんなところをウロウロしてちゃ」
「あの……それで、天野くんは………?」
私はゆっくりと起き上がって、夏子さんを顔を見つめた。
「………本当は、むやみに他の患者さんの事は教えちゃいけないんだけど……」と溜息をつき、「またベッドを
抜け出して来られても困るから‥‥‥。それにその顔を見たら、隠すわけにはいかないわね」
そう言って夏子さんは教えてくれた。
あの日から、ずっと天野くんは昏睡したままで、危ない状態が続いているらしい。
それを聞いて俯いた私に、夏子さんは力強く言う。
「大丈夫よ。私たちが二十四時間交替でつきっきりなんだから、あなたの命の恩人を死なせはしないわ」
「お願いします!」と応えた後で、ハッと疑問が湧いて訊いてみた。
「天野くんが私を助けたって、どうして誰も教えてくれなかったんですか?」
夏子さんは声をひそめて、「あの子の親御さんに口止めされたのよ…」
「どうして……?」
「あなた余計な、心配をさせたくないと………」
「余計だなんて‥‥‥、そんな!」
「あなたは、誰から訊いたの?」
今度は、私が声をひそめる。
「……友達に」
そして、黙り込んでしまった私を見て、夏子さんが、こんなこと言ってくれた。
「貴女、明日退院だったわよね?お家に帰る前に、あの子に会って行かない?」
「え?でも……」
「私が勤務中の時に、ちょっと部屋を覗くくらいなら……。あの子にお礼を言わずには帰れないんでしょ?」
私は黙って頷いた。
「でも、このことは内緒よ」と唇の前に人差し指を立てる。
そして夏子さんは病室の明かりを消すと、次の病室へ向かった。
明日、天野くんに会いに行く。明日…………。
………今夜もまた、寝たらあの夢の続きを見るのかな?
あの、怖くて生々しい夢を。
───いやだ。
───見たくない。
───眠りたくない。
そうは思っても、スウッと眠りに引き込まれそうになる。
その度に、寝ちゃ不可って意識を戻す。
───あっ、また!
私は、思い切ってガバッと起き上がった。
ブンブンッと頭を乱暴に振って眠気を醒ます。
そして、フウ───ッと長い溜患。
何気なく伸ばした手が、枕元にひっそりと佇むライトを点けた。
白い光が眩しくて、ちょっと目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開けると、花瓶の近くにポツンと置いてある封筒が見えた。
───ひどく気になる。
───今読みたい。
───すぐ読みたい。
───読まずにいられない。
心の奥に沈めておいたモノが、衝動的に湧き上がってきて、いつの問にか、もう中の便箋を取り出して開いていた。
わけの判らない緊張感が思考を鈍らせて、胸を息苦しくする。
───な、何よ。
懸想文なんか、飽きるくらいって言ったら大袈裟だけど、見慣れた物じゃない。
なんでこんな………。
悪口が出そうになって、考えるのをやめた。
落ち着いて………、落ち着いて……………。
まず、一行目から。
ゆっくり。
しっかり。
一字一句を胸に刻み込むようにして読んでいく。
正直言って、こんな風にラブレターをちゃんと読んだのって、初めて貰った小三の時以来だ。
読んでいる私と同じく、書いた天野くんもよほど緊張していたに違いない。
黒のサインペンで書かれた文字が、可笑しいくらいにきっちりと書いてある。
でも……、コレ本当にラブレターなの?
確かに、形式通りの告白の言葉は書かれているけど、全体に散りばめられた文章は、何かが違う。
何処かが違う。
もう一度、最初から読み返してみる。
もう一度、最初から読み返してみる。
もう一度、最初から読み返してみる。
もう一度、最初から読み返してみる。
何度も何度も、初めから終りまで読み返してみる。
そして、今までに他の男の子たちから貰ったラブレターとも照らし合わせてみた。
碌に読んだこと無いけど。
さらに───。
───自分なら…、自分ならどう?
───自分なら、どんなラブレターを書く?
───好きな人にどんな……。
───真剣に好きな人には…‥‥‥…。
そうやって、頭の中で自分なりのラブレターの文章をつくってみて、ハッ! と気がついた。
…………そうだ。
コレには、つきあって下さいみたいなことが、全然、全く書かれていない。
それが私が感じた違和感の正体だった。
私のことは死ぬはど好きみたいなことを書いておいて、私のためならどんなことでもするみたいなことを
書いておいて、何も私に求めていない。
何も………。
それどころか、『私』そのものを求めていないみたい…………………。
───どうして?
───好きだという想だけを告げて、それだけなの?
───そんなのってあり?
───私、どうしたらいいの?
───何をして欲しいの?
───私は…何も判らないのに。
───知りたかったのに。
───天野くん………、あなたは………………、いったい………なんのために………………………。
全身を締めっけていた緊張の糸がプッツリと切れ、崩れるように寝台に横になった。
泣きはしない。
涙だって出てこない。
でも、なんだか悲しくて哀しくて、耐えられなかった。
便箋をっかんでいた手に力が入って、クシャッと折れ曲がる。
───起きていたくない。
───起きていたくない。
───眠りたい。
───眠ってしまいたい!
そう思うと、いとも簡単に眠気が訪れて、夢の中へと引き込まれてしまった。
ズキッ!!と夢の中に入ってすぐに、強烈で激しい痛みが身体を駆け巡って目を開いた。
すると、目と鼻の先の距離で、赤い龍の口がガヴァッと大きく開いた。
身体は、その口の牙から逃れるために後ろへ跳ぶ。
そして、右手がカアアアアアアアッと熱くなってくると、日本刀のような物が現れた。
稲妻のような光が刃の周りを包んでいて、雷鳴のような音が轟く。
───なんなのコレは!?
そんな私の疑問を無視して、身体は刀を大きく振り降ろした。
刀の刃先は届いていないのに、ドン!
という凄い音がして稲妻のような光が飛んで行き、刃の代わりに赤い龍のお腹を切り裂いた。
そうしたら、その切り口から炎が噴き出して来て、炎の勢いで後ろに飛ばされ、岩に叩きつけられた。
炎の熟さと打撃の痛さで、目を醒ましそうになる。
でも身体は、ヨロヨロと立ち上がって刀を構え直した。
すると、なんだか身体が膨らむような感じがしてきた。
まるで、力を溜めているみたい。
ううん、そうなんだ!
身体じゃなくて、刀が倍くらいに大きくなっていく。
そこへ、赤い龍が頭から突っ込んで来て、大きく開けた口の奥がポウッと紅い色に光る。
炎を吐くつもりだ!
そう思ったときには、もう全身が炎に包まれた。
───熱い!!!
だけど身体は逃げようとしないで、ただ耐えていた。
そして、刀を悠然と斜め下に構える。
赤い龍が息継ぎをしようとしてなのか、炎を吐くのをやめた瞬間、身体は下から上へと思いっきり刀を
振るった。
ドゴオオオオオオオオオオオオオ!!!と周りの熱い空気を揺さぶる音が轟いて、刀から放たれた光が赤い龍の
巨大な身体を真っ二つ切り裂いた。
赤褐色龍の絶叫が耳を劈く。
なのに赤い龍は、炎の龍巻に姿を変えると、すぐにまた無傷な赤い龍に戻ってしまった。
こんな………。
これじゃ埒が明かない!!
ん? でも………。
さっきより少し小さくなっているような………。
───そうだ!
───確かに小さくなってる!!
───あと何度かやってみれば………。
身体もそう思ったのか、両手で刀を正面に構えた。
あっ、この感覚………飛ぶ!?
思った瞬間にはもう、身体は弓から放たれた矢のような勢いで、赤い龍の頭上を越えた。
それを追って、赤い龍が炎を吐きながら顔を上に向ける。
身体はその炎の中に突っ込むと、墜ちるままに赤い龍の口の中に飛び込んでいった。 刀から放った光が、赤い
龍の身体の中で暴れ回る。
赤い龍の身体の中は、まるで炎の柱の中をくぐり抜けているみたいだ。
どんどん、どんどん、どんどん巨大な身体の奥にまで墜ちていく。
熱い!
熱い!!
熱い!!!
もうダメ……。
意識が………。
このまま、また目が醒めちゃうの?
───そんなのいや!
───そんなのダメ!
何故だか判らないけど、この赤い龍に負けちゃいけない気がする。
ちゃんと倒すまでは………、耐えなきゃ…。
グッと意識を『何か』とにしがみつかせて耐えていると、唐突に赤い龍の身体を突き抜けて地面に激突した。
動けない。
はずなのに、身体は横に飛び出して赤い龍の下から脱出した。
すぐに刀を構え直すと、力を溜めながら赤い龍を見上げる。
赤い龍は、仁王立ちになったまま動かない。
動かない。
動かない。
突然───、地面を揺さぶる程のを咆哮をあげた。
その声が衝撃波となり、そのせいで身体がよろけて尻餅をついてしまった。
そして、また炎の龍巻に姿を変えてから赤い龍に戻ると、翼をひと振りして濁った紅い色の空へ飛び去って
行った。
ゴウッ!と熱風が少しのあいだ吹き荒れる。
………逃げられちゃった………………。
あれだけやったのに、まだ生きているなんて………。
ま、いっか。
一応…、勝ったんだもんね。
うん、そうだ。
勝ったんだ。
やっつけたんだ。
───やった────────────!!
私は寝台の上で上半身を起こして、思いっきり万歳をしていた。
自分が夢から醒めたことに気がっいて、そのうえ、万歳の姿態をしている自分の恥ずかしさに、慌てて寝台に潜った。
そ~っと頭だけを出す。
誰も、いない……よね。
安心して、ホゥ…と胸を撫で降ろした。
そして考える。
今日は退院の日。
朝の検温と朝食を済ませ、ここを立ち去る準備をする。
コンコンと軽叩の音。
あっ、お母さんかな?
───退院か…。「は-い、どうぞ」
そう返事をしてみせると、入ってきたのは夏子さんだった。
「今ちょっとイイ?」
「え? あの…」
───なんですか?
と訊こうと思ったら、「昨日の約束、今なら諒承(O.K)なんだけど」と言われて思い出した。
───そうだ、天野くんに逢いに行くんだ。
私は、すぐにスリッパを履いてジャンバーを羽織ると、夏子さんの後ろをペタペタと付いて行った。
三階に上がって、天野くんの病室の前で、「意識はまだ回復していないけど、今朝は安定してるから」と夏子
さんは小声で言い、静かに半開きの引戸を開けると、私だけを病室に押し込んで、素早く引戸を戻した。
一昨日は、真暗で判らなかったけど、今は蛍光灯の光の中で、天野くんはベッドに横たわっていた。
ロにはプラスチックの酸素口当具が、額には脳波を測定するためらしいコードが何本も付けてあって、腕に刺して
ある点滴の針が痛々しい。
たまらず目を背けると、ベッドの横にある心電図や脳波計、呼吸計とかが目に入った。
赤や緑のデジタル数字で示された数値が、増えたり減ったりを繰り返している。
私は、なんだかそっちの方が怖くなって、天野くんの方に目を戻した。
ゆっくりと近づいて、天野くんの顔を覗いてみる。
こんなにマジマジと、天野くんの顔を見たのは初めて。
今まで、単に貧弱で脆弱で軟弱だと思っていた私よりも色白な肌は、なんだか艶かしいくらいだ。
それに、しっかりと閉じられた瞼に鮮明と入っているスジは二重だということを示しているし、睫毛も長いみたい。
………可愛い。
男子に『かわいい』と思ったのは何年ぶりだろうか。
不意に、引戸から夏子さんが頭だけ覗かせて、「もういい?」と小声で訊いた。
私は、「はい」と短く答え、急いで廊下に出た。
振り向いて、半開きの引戸の隙間から、ちらっと見えた天野くんに心の中で呟いた。
また、学校でね。天野くん。




