第一章 雨の音(4)
数年前に書き始め、クライマックス辺りで筆を折った作品です。少しでも反響があれば最後まで書いてみようか思います。コメント・評価が作者の励みになります。一言でも構いません。頂けると作品を書く力になります。
午後の授業は化学からだった。始業五分前には、三つある校舎のうち、一番北にあるⅭ校舎三階 の化学室に移動しなくてはいけない。
「もう! 神田がずっと食べてるから」
「しょうがねぇだろ。全部食べきらねぇと、この季節はすぐ食いモン腐っちまうからな」
午後の授業開始三分前。小走りに廊下を進む。
「大丈夫だよ、ジョー。もし先生に怒られたら『神田がロッカーと大便器を間違えて大惨事だった』って言おうよ」
先頭で走るアリーが振り返りながら言う。
「そうだね」
「想像力が異次元すぎるんですが!?」
後ろから抗議の声が響いた。僕たちは笑っていた。
北校舎に続く渡り廊下をもう少しで渡り切るというとき、
「あまねくーーん!!」
遥か後方から劈くような大声で名前を呼ばれた。
振り返ると一人の女子生徒がブンブン手を振りながらこちらにトテトテ走ってくるのが見える。あれは確か。
「なんだ、誰だ? あまねって」
「……僕だよ、神田」
「ジョーも隅に置けないね。もう彼女ができたんだ」
アリーが肘でツンツンついてくるのを見て、神田もニヤニヤしながら頭を撫でてくる。
「もう! そんなわけないじゃん」
二人の手を払いのける。
「さ、二人の邪魔をしちゃいけないぜアリー」
「そうだね。僕たちは先に行ってるよ。遅れないようにしなね」
二人は手を振りながら遠ざかって行った。
「あぁ、やっと追いついたぁ」
入れ替わりでその女子生徒が目の前に現れる。
「もう雨音くんたち走るの速いよぉ」
息を切らせ、乱れた前髪を右手で押さえながら彼女は笑った。
雪の様に白い肌にすこし汗をにじませ、エヘヘッとほんのり頬を薄紅に染めて微笑む。
その姿に僕は少しドキッとしてしまった。
彼女のロングヘアはどんより曇った日でも蛍光灯の下でキレイに輝いている。ここだけ太陽の光がさしこんだかと思うぐらいに眩く。上下する小さな肩。そこから伸びる細い腕の先の小さな手に握られていたのは。
「あ、もしかして」
慌ててカッターシャツの胸ポケットを触るが、いつもの厚みを感じられない。
「そう、教室の前で落としてったんだよぉ」
のんびりした口調でそう言って、ハイっと渡すのは『雨音丈一郎』と書かれた僕の生徒手帳だった。
「ありがとう。えっと江波戸……さん」
「わあ! よく知ってたね私の名前。ちゃんとお話しするの初めてなのに」
胸の前で手を組んでまたニッコリ笑う。それはまるで天使のようだ。
「江波戸さんこそ。僕の名前よく知ってたね」
「知ってるよぉ。同じクラスだもんね」
ほんわりした彼女の喋り方にこちらも自然と笑顔になってしまう。
「そうだけどさ、僕あんまり目立たないし」
江波戸さんは小首を傾げる。
「そんなことないよぉ。ほら神田くんと有馬くん。いつもあの二人といてすごく目立ってるよぉ」
「あぁ……そっか。そうだよね」
それはあの二人が目立っているからだ。きっと二人といなかったら僕のことを知る機会はまだなかっただろう。
「雨音くんは?」
「ん?」
「雨音くんはなんで私の名前覚えててくれたの?」
ほんの少し顔を近づけ僕の目を覗き込む。その吸い込まれそうな瞳に一瞬言葉に詰まる。
「そ、そりゃ知ってるよ! 江波戸さん室長だし。クラスの人気者だし」
「えーそんなことないよぉ」
照れながらナイナイッ! とブンブン顔の前で手を振り続ける。あぁ癒される。
実際江波戸さんはその可愛らしく清楚な容姿、明るく無邪気な性格で男女問わず人気が高い。他所のクラスからわざわざ江波戸さんを見にやってくる男子もいるくらいなのだ。簡単に言えば我がクラスのアイドルといったところだろうか。
「じゃあ下の名前知ってる?」
「え?」
「私の名前は江波戸なんでしょう! 当てて! 当てて!」
江波戸さんは楽しそうにぴょんぴょん跳ねている。
「えーっと、確か」
名簿には『礼』って書いてあったな。
「……れい?」
「ぶっぶーー!!」
頭の上で大きく両腕でバツを作る。
「答えは『あや』でしたぁ! 『礼』って書いて『あや』って読むんだよぉ。もうこれで雨音くんは覚えたよね。次問題出しても答えられるようにしといてね」
その邪気のない笑顔は僕に首肯するよう魔法をかけた。
うんうん、と江波戸さんは満足そうに頷くと、
「あっ! ヤバい! 早く化学室行かないと!」
そう言って僕の手を取って走り出す。彼女の小さな手は思いの外冷たかった。
ほんの少しでもストーリー・登場人物たちに興味が湧いた方はコメントお願いします。続きを書くか決めたいと思います。
他作品も掲載しておりますので、良ければご清覧下さい。