蝶よ花よ、花嫁よ
モフモフ神様×ネガティブピュア青年
11254字
シアンは春が来るたび、胡蝶の舞曲を舞う。
亜麻色の長い髪に銀の冠を戴き、手には金箔をちりばめた舞扇をかまえる。華奢な腕を振るたび、花鳥文様の描かれた長い袖がたなびいて、シアンの中性的な魅力をさらに引き立てた。
その姿を目に留められたらしい。
成人してすぐ、「クロエさまの伴侶になっていただきたい」と仲人役が里を訪れた。
神仙島にわたり、シアンの伴侶となる神と初めて顔を合わせたのは、婚礼の日だ。
クロエはがっしりとした体躯の男だった。彼は精悍な男神で、人の姿をとっている。
ただし、頭の上には尖った黒い耳が、背中ではふさふさの尻尾が、揺れていた。
となりあって座し、長寿を約束される三三九度の盃を交わしたときも、ぶんぶんと勢いよく尻尾が振られていた。
シアンはその様子を目を丸くして眺めた。
もしかして──婚儀を喜んでいるのだろうか? まさか。そんなことあるわけない。
視線を感じて顔をあげると、冴え冴えとした金の眼が、静かにこちらを見つめている。射すくめられたような心地がして、すぐに目を逸らした。
「お嫁さま、さあさ、お化粧をなおしましょう!」
「お嫁さま、喉は渇きませんか、帯は苦しくないですか?」
「お嫁さま」と呼ばれるたび、なんと答えていいか分からず、むっつりとくちびるを引き結んだ。俺は男なのに、と言いようのない気持ちが湧いてくる。
自分の預かり知らぬところで宴が進行していくのも、気忙しくて落ち着かない。
黒い狐の神・クロエは戦神。大地を駆け、人々に争乱を告げ知らせる猛き神だ。
そんな彼が暇を満喫して、神仙島でのんびり過ごせるということは、太平の世の証であり、実に喜ばしい。
人々も神々も、ふたりの婚礼をたいそう喜んでくれた。
「シアンちゃん、おつかれ〜! 楽しんでる〜?」
もじゃっとした髪型の、顔つきの派手な神さまが、宴の合間を縫って話しかけた。
「だ、大丈夫です、ありがとうございます」
「オレは鳴神。きみとクロエの婚姻をとりもった神だよ。いや〜、遠路はるばる、嫁いでくれて感謝するよ〜!」
「と、とんでもない」
「あいつは戦神、軍神ってやつだけど、根はいいやつなんだ。きな臭く思わないでやってね〜!」
言いたいことだけ言い終わると、鳴神は、雷鳴のような足音を轟かせて去っていった。
花嫁と花婿、ふたりきりになったとき、クロエがおもむろに口を開いた。
「宴は苦手か?」
「……なんというか、酒の味も御膳の味も、全然わかりませんでした」
「そうか。私も似たようなものだ」
大きな背をちょっぴり丸めて、クロエがほっとしたように頷いた。
「クロエさんは……」
「クロエでいい。敬語もいらん」
「クロエは、どうして俺を伴侶にしたの?」
いきなりそんなことを訊いたのは、ちょっとだけ期待があったからだ。「ひょっとしたら俺は、この神さまにとても好かれているのでは?」という期待が。
問われたクロエは何度かまばたきをしたあと、重々しく口を開いた。
「戦の神が子を増やしても、誰も喜ばない。子を産んでも祝福されないのは、つらいだろう。それならば、私の伴侶は男から選ぶのがいいと──そう思ったまでだ」
「……な、なるほど……」
少なからずがっかりして、シアンはうなだれた。戦神ゆえの特殊な事情が理由というのなら、相手はシアンでなくてもよかったわけだ。
クロエは「疲れただろう。ゆるりと休め」と言い置いて、去っていった。
夜の静寂が部屋を満たしてゆく。宴の興奮もすっかり冷めてしまった。
シアンは愛されてはいないのだろう。それでもかまわなかった。
子を望まないという気持ちは、シアンにも少しだけ分かるような気がする。
シアンだって、〈家〉から出られると知ったときは、とてつもない解放感に胸が躍ったのだから。
シアンは、舞踊を生業とする一族に生まれた。
実家はシアンの輿入れをしぶった。息子を愛していたからではない。優秀な舞い手が失われるのを惜しんだのだ。
幼いころから、野山に遊びにゆくのもだめ。球技もだめ。
「俺もやりたい」とわがままを言えば、すかさず頬をひっぱたかれた。怪我をしたり病気をすれば、治療を受けるより先に、「舞い手としての自覚が足りぬ」と、しつこく責められた。
舞踊の家に生まれた宿命だ。
舞い手の体は、自分だけのものではない。家の誇りを体現し、技術を継承していく道具である。厳しい稽古からは逃れられない。
同業の中には、激しい折檻でひどい怪我を負い、歩けなくなる子どもまでいた。
いつしかシアンは自分の人生を達観するようになった。
自分もいつか弟子をとり、子をつくる。おのれが望むと望まざるとに関係なく、実の子に重い荷物を受け継がせるだろう。心を押し殺して冷酷な仮面をかぶり、その仮面はやがて自分の顔に貼り付いて取れなくなる。親と同じ道を自分もまた歩むはずだと思っていた。
苦行のように身を削って披露した舞が、神の世界にまで届き、クロエがシアンを見初めるまで──シアンはずっと、死んだように生き続けていた。
あの〈家〉から出られるのなら、想い想われる仲じゃなくてもいい。
とにかくシアンは〈家〉の外へ、自分が何者でもなくなる世界へ、出てみたかった。
◇◇◇
「あぶらあげ?」
クロエが小さな紙包をぶら下げて帰ってきた。シアンはきょとんとした顔で問いかけた。
「私の好物なんだ」
「あぶらあげが?」
クロエは狐……だからか。
「お、覚えておくね」
「きみの好きなものは、なんだ?」
「俺の好きなもの? 考えたことないな……食べられるなら、なんでも嬉しいけど」
ちょっと考えてみたが、シアンは、誰かに好きなものを訊かれた経験がない。
食事とは、舞うためのからだをつくる修行。好き嫌いがあると徹底して矯正される。おかげでなんでも食べられるようになったが、食べ物に対して好きとか嫌いとか考える習慣がなかったのだ。
そんな自分がむしょうに哀れに思えて、恥ずかしくなった。
「好き嫌いがないのなら──」
うつむいていたら、ぎゅっと両手を握り締められた。大きくて温かい手だった。
「特上のいなりずしを、私がつくろう」
「え? あ、はい……」
気圧されるように頷いたシアンに、クロエはとびきり優しく微笑んだ。
クロエがつくってくれたいなりずしは、てっぺんに木の芽がのせてあって、とても美味しかった。
くたくたに煮たお揚げには、甘辛いたれがよく沁み込んでいる。つやつやのご飯にも下味がついていて、食欲をそそった。
ひとつ食べたら止まらなくなり、すぐにふたつめを口に放り込んだ。
いなりずしをふたりであっという間にたいらげ、食後の熱い茶をすする。まったりとした時間が流れていた。
シアンはふと不思議に思って訊ねた。
「あの、俺は……クロエに奉納しなくていいの?」
クロエがちょこんと首をかしげる。
「奉納?」
「故郷の街にいたころ、毎年決まった時期に、祈りの舞を土地神さまに奉納してたんだ」
「きみは奉仕者ではなく、私の伴侶だ」
「あ……」
「舞いたくないなら舞わなくていい。舞いたくなったら舞えばいい」
「わ、わかった」
好きな食べ物を訊かれることも、自分の気持ちを大事にされることも、舞わなくてよいと許されることも。
クロエから与えられるものは、すべてが優しさと思いやりに満ちていた。
その日の昼下がり。
庭をほうきで掃いていたら、ひょっこり鳴神が訪ねてきた。シアンに頼みごとがあるという。
「だからさ、シアンちゃんに舞ってほしいんだよね〜」
「……お断り申し上げる」
「クロエに話してるんじゃないし〜。ねえねえ、シアンちゃんの舞ってすごいんでしょ? クロエが独り占めするのはよくないぞ?」
きりきりと、クロエのまなじりがつり上がった。シアンはヒヤヒヤしながら、ふたりのやりとりを見守る。
「シアンちゃんて、人の世界じゃ〈舞姫〉って呼ばれてたんだよ。そんなの絶対見たいじゃん。期待が膨らむなぁ〜!」
「おい、勝手に話を進めるな」
クロエが地を這うような声を出した。シアンを背中に隠すように、鳴神の前に立ちふさがる。
「すみやかにお引き取りを」
鳴神はむくれて、ふくれっ面になった。
「クロエのけちんぼー! なに怒ってんだよ〜?」
「シアンは私の伴侶で、この島に奉仕する立場ではない」
「ええ〜? オレ、おまえより偉いんだけどなぁ〜?」
鳴神は口をとがらせながらも、しぶしぶといった体で引き下がる。
「でもさぁ、考えておいてよね、ご両人。神仙島は、神と、神が見初めた者が棲まう島。季節を問わず、お祭りが多いんだよ。〈舞姫〉が力を貸してくれたら、とっても助かるんだよね〜」
ゴロゴロという雷鳴のような足音を響かせて、鳴神は棲家の滝壺へ帰っていった。
「あれの言うことは、気にしなくていい」
「え、でも……」
「二度とあれにうちの敷居はまたがせない」
だが、クロエに「気にしなくていい」と言われて能天気に暮らせるほど、シアンは陽気な性格ではなかった。
案の定、その夜は悪夢を見た。
昔、庭師の子どもと仲良くなった。
最初は無邪気なあいさつを交わすくらい。
会話らしい会話は、庭に咲いた花のこと。
屋敷の主人の子息と、使用人の息子。
会える時間は少なかったが、日に日に交わす言葉は増えてゆき、顔を合わせれば楽しげに笑いあった。
彼とは良い友人になれるだろうと思っていた。
シアンは少しだけ浮かれていた。
それが油断を招いた。
ささやかな交流が親に見つかったとき、「身の程知らず」とぶたれたのは、庭師の子どもだった。
シアンのもとへ遊びにきた庭師の子どもは、見せしめのように、何度も何度もぶたれた。
『やめて! やめてください……おねがい、もうやめて!!』
シアンの嘆願は受け入れられず、庭師親子は屋敷から追い出されてしまった。
「俺が……俺がいけなかったんです……ゆるして……っ!」
藁にもすがる想いで体を起こしたとき、誰かに抱き止められた。
クロエだ。小刻みに震えるシアンを、心配そうな顔で支えている。
頭を優しく撫でられると、悪夢のなごりは鎮められるように消えていった。
「クロ、エ……」
「ひどくうなされていた。薬湯を飲むといい。すこぶる苦いが、嫌な夢を見なくなる」
「起こして、ごめん……ありがとう……」
シアンの遠慮は意に介さず、クロエが薬湯を持ってきた。抹茶色をした、とろみのある液体だ。
葛湯のようなものだと思い、ふうふう冷まして、ひとくち口に含むが──あまりの苦さに「ぐぷっ!」と、えずいた。
「うっ、うぇっ……なにこれ!? 不味いっ!!」
「すこぶる苦いと、伝えておいただろう?」
「そ、そうだけど! なにをどうしたらこんなヒドい味になるの!?」
「飲みくだすコツは、心を無にすることだ」
「いやいやいや! こんなん無理だよ!」
クロエの金の瞳と視線がぶつかる。しばし顔を見合わせてから、どちらからともなく笑いがこぼれた。
「やっと笑ったな」
「え……?」
「シアン。舞いたくなければ、舞わなくていいんだ」
「……うん」
「鳴神には私から言っておく。安心して眠りなさい」
「クロエ……ありがとう」
ふとんにもぐると、まぶたがとろとろと落ちてくる。シアンを見守る金の瞳がやわらかく微笑んだ。
◇◇◇
嫁いでひと月がたった。
里にいたころにできなかったことができるぶん、舞い手だからといって優遇される機会もない。
クロエが仕事のときは、家にひとりきりだ。今はもっぱら、まき割りと料理に励んでいる。
少し手が荒れるようになったけど、新しいことを覚えたり身に付けたりするのは楽しかった。
そんなとき、珍客が家の戸をたたいた。
「こんな不細工に、クロエさまの嫁がつとまるのかしら?」
第一声がそれだった。
闖入者はイヤミたっぷりな態度で、家の中までずかずかと侵入してきた。
たれ目に、つり上がった細眉。派手な柄の着物をさらりと着こなしているが、クロエと同じように、狐の耳と尻尾が生えている。
声は朗々として野太い。白く細い首には、くっきりと喉仏が浮かんでいた。
「あたしはダキニ。男神であり女神でもある、色気のかたまりのような存在よ。ひれ伏して敬いなさい」
「はあ。クロエの客なら、クロエがいるときに来たほうがいいですよ」
「ふっ、愚かね。留守だから来たのよ! これは宣戦布告。あんたみたいな泥棒猫、あたしが追い払ってやるわ!」
「泥棒猫って……」
「知らないでしょうから教えてあげる。あたしとクロエさまとのなれそめは──」
ダキニは嬉々として、クロエとの出会いを語りはじめた。
……そういえば昔、威張りちらしてばかりいる、しょうもない兄弟子がいたっけ。力量もないくせに野心家なのが災いして、結局破門されてしまったが。
シアンはありし日を思い出しながら、ダキニの話に耳を傾けた。
男の体でありながら女性の心を持っているダキニは、神の里における異端者だった。半端者、見苦しいやつ、と罵られ、物や食事を盗まれ、蔑まれながら生きていた。
そこへ、たまたま通りがかったのがクロエだ。
「あたしに石を投げてくるやつをドォンと投げ倒してね。〈おれのそばにいろ。ケンカの仕方を教えてやる〉って言ってくれたのよ! 最高じゃない? あのころは大きな戦争もあって、クロエさまも生傷がたえなかった。せめてものお礼に、傷によく効く塗り薬をつくって差し上げたの。おまえはすごいなって褒めてくれたわ!」
当時を思い出して興奮したのか、ダキニは嬉しそうに、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「いい? クロエさまの大部分は、優しさでできてんのよ! 口数が少ないから勘違いされやすいけど、こっちの気持ちが冷めるようなおべっかを言わないだけなの。ほんとに、ほんとに、とっても優しいんだから!!」
「……クロエが優しいのは、俺も分かるよ」
悪夢にうなされていたときも、ねほりはほり訊いたりせず、嫌な夢を見なくなる薬湯をつくってくれた。
困っている者にひたすら寄り添う。難しいことを、さりげなくやってのけるのが、クロエなのだ。
ふ〜ん、とダキニが目を細めてシアンを見つめた。
「クロエさまのこと、少しは分かってるじゃないの」
「クロエは……誰にでも優しいんだろうね」
胸がちくりと痛んだ。クロエは優しい。それは疑わない。
けれどその優しさは、シアンだけに向けられるものではなく、ダキニにも、他の誰かにも、等しく注がれるのだ。
「伴侶だって、べつに、俺じゃなくても……」
「ちっ。落ち込んでるやつって、めんどくさいわね」
「え……?」
「恋仇とバチバチの火花を散らしてみたかったのに、これじゃ張り合いがないじゃない」
ダキニは「ふんっ!」と鼻を鳴らし、びしりと人差し指をシアンに突きつけた。
「クロエさまを甘く見ないことね! あんたを手に入れるために、あのかたはずいぶん苦労されたの! だけどそれは、あたしが教えてあげることじゃないわ。気になるなら、直接お訊きなさいな」
「ダキニ……」
「気持ちってのは、カタチがないんだから。ちゃんと伝えなきゃ、ないも同然よ。見えないからこそ、伝えなくちゃならないの!」
力強く、励ますような言葉に、シアンは目を白黒させた。
「なんか今、すごく良いこと言ったな。俺、びっくりしちゃった」
「あったりまえよぉ! あ、そういえばあたし、今日は良いモノ持ってきたの」
そう言って、襟元から小さな紙片をとりだした。
「つい先日、クロエさまのお小さいころの姿絵を競り落としたんだけど──ハァ〜ッ、お子さま時代からあのかたは凛々しくてらっしゃるのよねぇ。あたしの、タ・カ・ラ・モ・ノ」
ぴらぴらと振って、これ見よがしに自慢する。
「神様の世界って、姿絵売ってんの? ちょ、ちょっと、俺にも見せて! あっ、なに出し惜しみしてんだ、神様のくせに!」
「おほほほ、くやしかったら、つかまえてごらんなさい!」
ドタバタと追いかけっこをするうち、シアンとダキニは意気投合し始めた。
「クロエのここがいい選手権!」「クロエ流いなりずし講座」などが突発的に始まり、声が嗄れるまで、盛大にクロエを褒めたたえあう。
こうして数時間があっという間に過ぎた。
「俺、友達いないから、ダキニと話せて楽しかった。なあ、クロエのこと、よかったらまた教えてよ」
「とっ、友達なんかじゃないわよっ! で、でもまあ、あたしもあんたが嫌いじゃないわ……」
「また遊びに来いよな。今度はクロエ特製のおいなりさん用意して待ってるから」
「はぁっ? あ、あたしを絆そうったって、そうはいかないわよ、このアバズレ!」
言葉は悪いのだが、ダキニはなんだかソワソワして嬉しそうだ。ぐるんぐるんと大きな尻尾を振り回している。
「しかたないわねっ! また来てあげるわよっ、覚えてなさい!」
キィキィ叫びながら帰ってゆくのを、シアンは手を振って見送った。
◇◇◇
その日、神仙島の神々が集まる会議があった。クロエは朝早くに家を出たが、夕方には帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
めずらしいことに、クロエは少々落ち込んでいるように見えた。尻尾がだらりと重たげにぶら下がっている。いつも凛々しい三角形の狐耳も、どことなく覇気がない。
「なんか、嫌なことでもあった?」
出迎えたシアンを見つめて、クロエは黄金色の瞳をやわらかく細めた。
「……相談役を任された。本来は持ち回りの役職だが、鳴神に推薦されてしかたなく……。これから呼び出しが増えるだろう。暇を持て余したじじさまたちの話し相手をするんだ」
はあ、と肩を落とした。
クロエでも愚痴をこぼすのかと、シアンは少しびっくりした。クロエが弱々しく笑う。
「おまえは若いのだから、苦労は買ってでもしろ、などと言われた。まったく。苦労を崇め奉るやつにかぎって、議論を脱線させるくせにな。じじさまたちとの茶会など、付き合いきれん」
「複雑そうだね。そういう役割って、もっと年上の神さまのほうが適任じゃない? 断れないものなのか?」
一瞬口を閉ざしたクロエが、気まずそうに視線を逸らした。
「鳴神には、恩があるからな」
「恩?」
「まあ、なんというか……」
クロエは口を開きかけたが、すぐに言葉を呑み込んでしまった。
シアンには言えないこともあるのだろう。好奇心で訊き返したことを後悔した。
「ごめん、詮索するつもりじゃ……」
「きみと結婚したかったから、仲立ちを鳴神に頼んだ」
「へえ、そうなんだ……────ん? ん? んえぇ!?」
シアンは驚きのあまり、すっとんきょうな叫び声をあげた。
「きみのご両親は、私との婚姻をどうにか断ろうと奔走したようだが、最終的に鳴神に雷を落とされて、承諾されたと聞いている」
「雷って……あっ、あのときの?」
「きみの実家、燃えかけただろう?」
シアンの両親が神仙島からの遣いを追い返したら、どでかい雷が庭に落ちた。古くから植えてあった松の木がぱっくりと割れ、あかあかと燃え上がり、父も母も「これは神罰だ!」といって震えあがっていた。
そんなことがあったので、
「後継は弟子から選ぶ。おまえはとっとと嫁に行け!」と吐き捨てるように言われ、シアンはすみやかに神仙島へ送り出されたのだ。
「脅すような真似をして、すまなかった。そういうわけで、私は鳴神に強く出れない」
「うそ……」
「きみに嘘は言わない」
「だって、だってクロエは……俺じゃなくてもよかったんでしょ」
「──なに?」
我ながら子どもじみた言い方だと思いながらも、問わずにはいられなかった。ずっと訊きたかったのだ。
「子をつくりたくないから……だから伴侶は、男であれば、誰でもよかったんだよね? そう言ったよね?」
忘れもしない。祝言の日に、クロエは言った。
戦神が子をつくっても誰も喜ばない。だから伴侶は男から選ぶことにしたと。
愛されなくてもいい。はじめはそう思っていたシアンだけど、クロエと暮らすうち、クロエの優しさにふれればふれるほど、胸が苦しくなった。
好きになってほしかった。
自分のことを想ってほしかった。
クロエの気持ちを、優しさを……独占したくなった。
過ぎた願いだと思いながら、クロエの心の片隅だけでも、シアンのものにできたらと夢見た。
口をへの字に曲げて黙り込んだシアンに、クロエは小さく嘆息し、頭をかいた。
「すまない。私の言い方が間違っていた。人里の春の祭りを眺めていた私は、きみに……シアンに、一目惚れしたんだ。シアンでなければ、伴侶などいらなかった。シアンでなければ、欲しくなかった」
「う、うそぉ……」
「何度も言うが、きみに嘘は言わない」
「俺、俺は……好かれなくても、よかったんだ。そこまで望むのは、ぜいたくすぎる。クロエは優しい神さまだから、伴侶に迎えてもらえて、俺は嬉しいけど……クロエは本当に、俺でよかったのかなって……」
「よかったに決まっている!」
これまでにないほど強い口調で言われ、びくりと肩が揺れた。
「わ、私が好きなのは……シアン、きみなんだから!」
告白を終えたクロエは、きまり悪そうに瞳を揺らした。目もとがほんのり赤く染まっている。
「……あのさ、クロエ」
シアンは着物の帯にいつも舞扇を差している。身についた習慣だ。扇の要の部分に、手をかけた。
「俺、舞ってもいいよ」
シアンの言葉に、クロエが目を見開いた。
「俺にできることがあるなら、やりたいんだ。俺に舞わせるために、鳴神がクロエに圧力かけてるんなら、俺は舞うよ。自分のつとめとして、しっかり舞ってみせる」
シアンは顔をあげて、にっこりと笑った。
クロエは一瞬目を瞠ったが、固まったみたいに動かない。なにも言わずにシアンを見つめている。
「俺のこと考えてくれて、ありがとう、クロエ。俺も、クロエの役に立ちたいんだ」
心からの本音だった。クロエが与えてくれた優しさ、あたたかさ。シアンを救ってくれたもの。その半分でも返せたらいい。自分もクロエのために、なにかあたたかなものを差し出したい。
クロエの肩が揺れて、片手で口もとを覆った。むぐぅ、という謎のうめき声が洩れる。
「ひょっとして……照れてる?」
ふさふさの尻尾が、ぴぃんと一直線に立っていた。漆黒の毛並みも、心なしか、ツヤツヤと光ってみえる。
こほんとせきばらいして、体勢を立て直したクロエが、おずおずと口を開いた。
「きみの舞が見たい。今ここで」
「えっ、今?」
「奉仕の舞ではなく、きみが舞いたいように舞ってくれたらいい。気が進まないか?」
「そうじゃないけど……衣装とか実家に置いてきちゃったし、それに……」
神仙島に来る前に聞いた話では、クロエがシアンの舞を目にしたのは、成人する前のこと。シアンがまだ少年と呼べたころの話だ。
シアンが小柄で痩せっぽちなのは今も変わらないが、それでも昔のようにはいかない。
舞踊は芸だ。経験が年輪のように積み重なり、舞は深みを増す。若さはなくなるが、体に刻まれたものはなくならない。円熟してようやく、舞は芸となる。
無心に舞っていたころには、よくもわるくも、戻れない。
「……クロエが気に入るようには……きっともう、舞えないと思う」
胸がつぶれるような思いで、そう告げた。
クロエのために舞いたいと言ったのに、「昔と違うじゃないか」と幻滅されるのではと、怖くなったのだ。
さあっと血の気が引いていく。
「私はシアンの舞が見たいんだ。シアンの舞だから、見たいんだ」
くじけそうなシアンを支えるように、両腕を優しくさすられた。クロエの手は温かい。穏やかに細められた瞳の奥には、慈しむような愛情がこもっている。
「舞うきみが、風に溶けそうで……あの少年は人なのか、花の精なのか、どちらだろうかと見つめていた。気がつけば、目が離せなくなった。春がめぐってくると、きみを見るために里へ降りた」
「俺を見に……?」
「シアン。私は春が来るたび、きみを見ていた。私だったら、きみを泣かせないのに。つらい思いをさせないのに。どんな宝よりも大事にするのに。いつかあの〈家〉からきみを連れ出そうと……それだけが私の願いだった」
ひとすじの光が差し込んでくる。
ダキニの言ったとおりだ。気持ちには形がない。形がないはずなのに、クロエの言葉を聞いただけで、シアンの胸にはあたたかな、光のようなものがあふれている。
舞いたい──クロエのために。
そして自分のために。
一心に、舞いたい。
シアンはひとつ深呼吸をした。右足を後ろへ引き、美しい膝折り礼を披露する。
「とうの立った舞い手ではございますが、胡蝶の舞をひとさし、ご覧にいれましょう」
口上を述べると、体が自然に動きだす。帯から扇を抜き、詞章をうたいながら扇面を開いた。幼少のころから舞い親しんできた、胡蝶の舞曲だ。
手を動かすたび、花が開くように。
扇を揺らすたび、蝶がたわむれるように。
ひたすら、シアンは舞った。
扇を押し上げるようにして宙へ跳ね上げれば、家の中に春風が吹き、鳥や蝶が飛び交い、花びらが舞う。
舞うのが楽しいと、生まれて初めて思えた。
クロエが、まぶしいものを見るような目で、シアンを追っている。
舞いながら、シアンはふと気づいた。はだしで舞うのは、これが初めてだ。
稽古や舞台では、かならず、白い足袋を履く。足にぴたりと合う白く清らかな足袋を履くと、足元が白魚のようにきらめいて見えるのだ。
家の中とはいえ、はだしで舞うのは、ちょっと恥ずかしいかも……。
そう思った瞬間、気が逸れた。
つま先が畳のへりに引っかかり、体が前へ傾く。
しくじった──頭の奥が冷たくなる。
シアンが倒れ込んだのは、大きな胸だった。
「……ごめん。途中だったのに」
「かまわない」
「こんな有様、おやじやおふくろが見たら、拳骨ふりかざして怒るよ。この怠け者め、って」
「私は怒らない」
「うん」
「誰もきみを叱らない。きみのしたいように、していいんだ」
「うん……うん」
体をあずけて、シアンもそっとクロエの背中に手をまわした──そのときだった。
ぽしゃん、と間の抜けた音が天井から聞こえた。
クロエの耳がぴくぴくと激しく動く。危険を感じとったのか、尻尾がぶわわっと、タワシのように膨らんだ。
「雨……?」
「いや。屋根に何かが落ちた」
「外、見てみる?」
窓を開けて様子を見ようとしたとき、「ぱしゃん!」と何かが庭に降ってきた。その衝撃で庭の砂利が跳ね上がり、ぴしゃっと窓を打つ。
シアンは小さく悲鳴を上げた。
──ぱしゃぽしゃ、ぽこぽこぼこぼこ……どどどどどどぉぉぉーんっ!!!
滝のように、空から黒々とした物体が降ってくる。おまけに、なにやら泥臭いような臭気まで、うっすらと部屋の中に漂ってきた。
これはもしや……戦乱の前兆ではなかろうか?
シアンはクロエの胸にすがりついて身を震わせた。そんな伴侶をいたわるように、クロエは穏やかに語りかける。
「シアン、シアン。大丈夫だ。外に出てみよう。大丈夫。怖いことは何もない」
「ほ、ほんと……?」
「本当だ。私がきみを守るから」
戸を開けて、シアンも、クロエの背の陰からおそるおそる顔を出す。そして、なぜ泥臭かったのか理解した。
「さかな……?」
空から魚が降っていた。
どの魚も獲れたてのようで、びちびちと地面でのたうっている。
「ニジマス、イワナ、アユまで落ちてる! 神仙島は、魚が降るのか?」
「鳴神のしわざだ。あいつめ……私はあぶらあげがいいと言ったのに!」
「これ全部、川魚だよ」
「相談役の就任祝いだろうが、ここまでくると嫌がらせだな」
庭や縁側、庇や雨樋にまで、空から降った魚がそこらじゅうで跳ねている。
「今夜は魚料理だね」
「私も手伝う」
「刺身、塩焼き、すり身でしんじょ……これだけあれば、いろいろ作れそうだよ」
シアンは木桶に水を汲んで、庭へ運んだ。生け簀にするのだ。
「うちだけじゃ、捌ききれないや。ご近所にもおすそわけしよう。食べきれないのは干物にしようね。クロエ、鳴神に会ったら、ちゃんとお礼言うんだよ」
「……シアンはすごいな。きみといるだけで、明日が楽しみになってくる。私は幸せ者だ」
クロエがなんのてらいもなく「幸せ」と言うので、シアンは耳たぶまで真っ赤になった。
「お、俺も……」
ぼそぼそと口の中でつぶやく。
耳の良い夫には、すべて届いているだろう。頭の上に飛び出した三角形の耳が、嬉しそうにぷるぷると揺れている。
──クロエみたいな神さまに愛されて、俺も幸せ。
お読みいただき、ありがとうございました。
こちらは【全年齢BL企画・BR新レーベル計画】参加作品です。