8.扉
「ただいまー……」
応える人のいない部屋で一人ぽつりと呟く。
前は、春夏がご飯を作って出迎えてくれたこともあったけど。
もうずっと、夜に帰ると家の中は真っ暗だ。
そんなの当たり前なのに、その当たり前が僕の心を寒くする。
「冬服、出さなきゃ」
着ていた長袖の襟付きシャツをクローゼットにかけるついでに、カバーのかかったコートを引っ張り出す。
前後も中も確認して、カビとかが生えてないか確かめる。
匂いも、大丈夫そうだ。
これなら消臭スプレーをかけておくだけで、すぐに着れそうだ。
僕はそのコートを持ち出して全体にスプレーをかけた。
乾かすために窓のカーテンレールにでも引っ掛けておこう。
「さて、」
とりあえずのやることが終わったので、春夏の日記の続きを読むために腰を下ろそうとした時、突然、ドアがドンドンドン!と激しく叩かれた。
「うわっ!」
インターホンがあるのに、なんでわざわざ驚かすようなことを。
「義也のやつか?」
あり得る。
あいつなら、こんなくだらないことも喜んでやりそうだ。
「義也!
急にびっくりするだろ!」
僕は勢いよくドアを開けた。
「あ、あれ?」
だが、そこには誰もいなかった。
顔を出して左右をきょろきょろ見回してみたが、無機質な廊下に両隣の部屋のドアがしんと閉ざされているだけだった。
この階の人たちは基本みんな夜中まで帰ってこないから、誰かのイタズラってこともないだろう。
靴を履いて、正面の柵に手をかけて身を乗り出してみても、宵闇の中、蛍光色の街灯に照らされた道には、猫の子一匹さえいなかった。
「おかしいな。
なんだったんだ」
僕は首をかしげながら、やれやれと家に戻った。
部屋に入って、テーブルの前に腰を下ろし、今度こそと春夏の日記に手を伸ばそうとすると、
「あれ?また?」
日記は再び開かれていた。
しかもご丁寧に、次に僕が読もうとしていたページだ。
春夏が早く読めと催促しているようだ。
『9月15日 曇り
昨日は百合に思い切って相談してみた。
でも、あまりちゃんと聞いてくれてなかったかも。
そういえば、百合は義也と別れたって言ってたな。
まだ引きずってるんだよね、きっと。
余計なこと言って困らせてごめんね』
そういえば、義也がそんなこと言ってたな。
その負い目もあって、百合は春夏の相談にちゃんとのってあげられなかったことを悔やんでたのか。
あ、百合に義也と別れた理由を聞こうと思ってたのに忘れたな。
いや、そんなこと聞くもんじゃないか。
義也の言うことはけっこう適当だから信用ならないし、きっと、百合は義也のそういうところに嫌気が差したんだろう。
「まだ続きがあるな」
『百合は夜道に気を付けてって言ってたな。
たしかに、さすがに白昼堂々何かをしてくるとは思えない。
それに、その誰かがホントにいるのかもまだ分からないんだし。
どうしよう。
他に相談できる人は……
秋冬は……
やっぱりダメ。
いつも甘えてばっかじゃ。
しっかりしなきゃ!』
春夏…………
今回ばかりは、僕を頼ってほしかった。
絶対に、何があっても、何を犠牲にしてでも、君を守らなきゃいけない事態だったのに。
『お母さんにも心配かけたくないし、教授なら、何かアドバイスしてくれるかな』
「教授……」
春夏が専攻してたゼミの教授かな。
たしか、量子力学の権威だとかいう。
その人は、春夏から何か聞いたのだろうか。
ピンポーン……
「わっ!」
突然、玄関のチャイムが鳴った。
また?
いや、でも今度はちゃんとチャイムを鳴らしてるのか。
でも、この部屋に来る人なんて……
「えっ?」
しばらくそのまま座っていると、ドアノブががちゃりと回る音がした。
しまった!
あのあと、玄関のカギを閉め忘れてた!
僕は慌てて飛び跳ねて、玄関まで走った。
狭い部屋だからすぐに着くはずなのに、こういう時ばかり、やたらと時間がかかる気がする。
手を伸ばせばすぐ届くからと、足元に積んだ雑誌が今は恨めしい。
カギをかけようとした寸でのところで、無情にも扉が開かれる。
「お?
なんだ、いるんじゃねえか」
「よ!義也、かぁ~」
「なんだよ、来ちゃ悪いのか」
義也がムッとした顔をしながら靴を脱いで部屋に上がってくる。
僕は安心したら腰が抜けてしまった。
「来て早々悪いんだけど、ちょっとトイレ貸してくれよ。
寒くて冷えちまった」
「あ、ああ。
どうぞ」
義也がやべーやべーと言いながら、持っていた袋をキッチンに置いて、トイレに駆け込んでいく。
僕は今度こそしっかりとカギを閉めた。
「あ、そうだ」
テーブルに春夏の日記を出しっぱなしだった。
僕はそれを閉じて、ベッドの奥の方に隠した。
義也に相談して一緒に考えた方がいいはずなのに、僕は何となくそれが嫌だった。
これは僕と春夏だけの秘密。
そう、思っていたかった。
「ふ~。セーフ」
「おい、ちゃんと手を拭いてよ」
義也が手をふりふりしながら出てきたので咎める。
義也はあ、わりーわりーと言いながら、キッチンにかけてある手拭きで濡れた手を拭いた。
「ほれ、またおでんを買ってきてやったぞ。
やっぱ寒い日にはおでんだよな」
「ほんと好きだな、それ」
義也が掲げた袋には、見覚えのある容器が入っている。
僕がバイトをしているコンビニのおでん容器だ。
「……義也。
ここに来るとき、誰かと会わなかったか?」
「ん?
誰かって誰だよ?」
「いや、会ってないならいいんだ」
やっぱり気のせいだったのかな。
その後、おでんをつつきながら、僕は先ほどの出来事を話した。
「はぁ!なにそれ!
こわっ!
ホラーじゃん!」
義也が両手を抱えて震える素振りを見せた。
そういえば、こいつそういう系苦手だっけ。
「まあ、きっと僕の勘違いだよ。
風も強かったし、何かが当たったんじゃないかな」
僕がそう言うと、義也は急に深刻な表情をし始めた。
「秋冬……」
「ん?」
「言っとくが、俺じゃないからな!」
「なにが?」
「だから、部屋をノックしたのは俺じゃないぞ!
そんな怖いことして、なんかを呼び込んだらどうすんだよ!
俺じゃないから、俺を巻き込むなよ!
呪われたり取り憑かれたりするなら、勝手にやってくれ!」
義也はそう言って、あたりをキョロキョロ見回し始めた。
「……なにやってんの?」
「い、いや、なにかの気配がっ!
そうだ!
こんな時はエロいことを考えればいいんだ!
秋冬!
エロ本をここに!」
「いや、そんなのないから」
「バ、バカなっ!
おまえホントに大学生かっ!?」
「……もうおまえ帰れば?」
そう言うと、義也は本当に帰っていった。
帰り道の方が怖いんじゃないのかな。
「まったく、そそっかしいやつ」
義也のおかげで、なんだかまた少し元気が出た気がする。
僕は残ったおでんを胃に流し込んだ。
容器を捨てるために立ち上がろうとした時、窓がガタン!と音を立てる。
「うわっ!」
どうやら、窓にかけたコートが風で揺れたみたいだ。
気付いたら、外には強風が吹き荒れていた。
窓を叩く風の音がとても不気味に感じる。
「ああもう!
義也があんなこと言うから怖くなってきた!
もう寝よ!」
僕は怖さを忘れるように、電気を消すと、すぐに布団に潜り込んだ。
暗闇に揺れるコートが、人がぶら下がっているみたいだなんて、ちょっとでも考えた自分を殴りたい。
それでも、おでんで暖まった体は布団の柔らかさも相まって、すぐに僕を眠りへと導いた。
義也が出ていったあと、玄関のカギを閉めるのも忘れて……