52.最後の日記、最後の夢、最期の言葉……
橘家のリビング。
今は誰もいないその部屋で、読む人のいない日記に新たな文字が刻まれる。
『秋冬……。
ありがとう。
ごめんね。
あいつは私がしっかり叱りつけておくから。
だから、秋冬はまだこっちに来ちゃダメ。
そんなの、許してあげないから。
……幸せになってね』
そんな言葉を紡ぎ終えると日記は役目を終えたかのように、すうっとその姿を消した。
夢を見た。
春夏と2人であの湖にいる夢だ。
もう何度目だろうか。
回を重ねるごとに不穏に、そして希薄になっていった春夏。
春夏は、僕を恨んでいるんだろうか。
それとも、僕が春夏のことを忘れていってるのだろうか。
……それは、どっちも嫌だな。
でも、なんだろう。
今日の夢はいつもと違う。
なんだか、夢なんかじゃなくて、春夏と2人で旅行に行ったあの時みたいに視界がクリアで、世界全体がキラキラ輝いてるみたいだ。
「ねえ!」
春夏がこちらを向く。
白いワンピースをはためかせて、大きな白い帽子を抑えながら。
世界が輝いてるのは、きっと春夏が隣にいるからだ。
「見て!
すごい綺麗ね!」
そう言って、輝くような笑顔を向ける春夏。
「……春夏の方が綺麗だよ」
「えっ……?」
「え?」
あれ?
僕、いま声に出してた?
いつもはそんなこと言えないってなるはずなのに。
「もう!
なに言ってんの!
バカッ!」
真っ赤な顔して湖に顔を向ける春夏。
帽子で頑張って顔を隠そうとしてる。
なんだろう。
そんな春夏がとても愛おしい。
今ならなんだって言える気がする。
というか、今しか言えない気がする。
今を逃したら、もう二度と……そんな、気がする。
「……ホントだよ。
僕は、春夏と出会えて幸せだった。
春夏は何よりも綺麗で、何よりも愛おしい人なんだ」
「……」
春夏は帽子で顔を隠したまま動かない。
ただ、帽子をぎゅーっと掴むその手がプルプル震えてて、手まで真っ赤になってるのが分かった。
「……だから、ごめんって言うのはもうやめるよ」
「……」
「その代わりに、たくさんのありがとうを言う。
これから、ずっと」
「……」
……分かってる。
これは夢だ。
泡沫の幻だ。
だから、もうすがるのはやめよう。
春夏もきっと、それを望んでないから。
「春夏。
ありがとう。
僕はもう大丈夫だから。
春夏ももう、ゆっくり休んでよ」
「……そう」
春夏は短くそう言うと、大きな白い帽子を手放した。
風に吹かれて、帽子はどこまでも遠くへと飛んでいってしまった。
「……もう、私がついてなくても大丈夫なのね?」
「……うん」
ホントは大丈夫なんかじゃない。
でも、今はそう言わなきゃいけない気がする。
「……ふふ。
強がっちゃって」
「……あっ」
春夏は軽く微笑んだかと思うと、僕の方に駆け寄ってきて、僕のおでこに軽くキスをした。
「秋冬。
私は幸せだったわ。
あなたと一緒にいられて、ホントに幸せだった。
後悔はしてない。
秋冬も私といて幸せだったのなら、もう後悔なんてしないで。
これからは未来を見て、歩んでいって」
「春夏!」
春夏が光り輝き、空へと昇っていく。
「ほら。
そろそろ起きなきゃ。
あなたを大切に想ってくれてる人が、あなたの帰りを待ってるわ」
「……春夏」
「秋冬。
幸せになってね」
「春夏!
なるよ!
僕は幸せになる!
ありがとう!
ホントにありがとう!
春夏!」