38.状況整理・百合の背後
「今ごろ、秋冬は義也と話してるのかしらね」
百合は目深にかぶったキャップを少し上げて、申し訳程度に大気の温度を上げてくれる太陽を見つめた。
「今日も寒くなりそうね」
今日は長丁場になりそうだからと、百合は厚手のコートに身を包んでいた。
手がかじかむが、もし携帯で写真を撮ったり録音をしたりという場面になった時に、咄嗟に操作できないので手袋はしていない。
「……おっと!」
百合は身を潜めていた電柱の陰に改めて隠れ、キャップ帽を目深にかぶり直した。
百合の今回の目的となる人物が門を開けて出てきたのだ。
彼女は橘家のお手伝いさんである由恵。
どうやら、近所のスーパーに買い物に行くようで、小さなハンドバッグを腕にかけて百合が隠れている場所とは反対方向に向かって歩き始めた。
そして、百合はその後ろをバレないようについていく。
なぜ百合が彼女を尾行することにしたのかと言うと、秋冬とともに春夏の父親に話を聞きに行った日。
春夏の父親に秋冬と2人で話がしたいと言われ、由恵と席を外した時に彼女の態度に不信感を抱いたからである。
『旦那様の素晴らしさをご理解いただけていれば、お嬢様もあんなことには……』
由恵がなぜあんなことを言ったのか。
さらに、春夏の父親は彼女のことを疑っているという。
百合は由恵の行動に不審な点がないかを確認するために、彼女を尾行することにしたのだ。
「……尾行ってムズいわね」
百合が由恵を尾行し始めて1時間。
百合はすでに心が折れかけていた。
というのも、由恵が異常に警戒心が強いのだ。
違和感を感じているのか、ちょいちょい後ろを振り返るし、よく周りをキョロキョロと見回す。
百合はそのたびに肝を冷やし、物陰に身を隠した。
「……でも、ホントにあの警戒の仕方はおかしい。
やっぱり、あの人には何かあるわね」
物陰でそう呟く百合は、自分の後ろに迫る人物の存在に気が付かない。
「このまま尾行してれば、何かしっぽを出すかし……きゃっ!」
そして、百合は後ろから何者かに口をふさがれた。
「一度、落ち着いて情報を整理してみよう」
僕は義也が帰ったあと、バイトまでまだ時間があったので、皆の話を思い返してみた。
そもそものきっかけは春夏の日記。
それが僕の家に突然送られてきたんだ。
いろいろ話を聞いたけど、結局、日記を送ったのが誰なのか、まだ分かってない。
それで、そのあとは百合の所に行ったのか。
そこで、春夏の悩みのこととかも聞いて。
そのあとは、佐々木さんに取り次いでもらって高梨教授にも話を聞きに行ったな。
その時はたいしたことは話してくれなかったけど……あ、そういえば、その時に兼次さんとも会ってたんだな。
で、春夏のお葬式のあとから一度も行ってなかった春夏の実家に行った……。
まだ仏壇に手を合わせることは出来なかった。
でもそこで、春夏が自殺じゃないことが分かったんだ。
しかも、お手伝いさんの旦那さんが事件の目撃者で。
僕は、春夏が自殺じゃないって分かって、正直、少しほっとしてた。
そして、そんな自分を嫌悪した。
春夏は自分で自分を殺めてしまうほどに追いつめられていたのか。
僕はそのことに責任を感じていたから。
僕が春夏のことを理解してあげられなかったんだと悔いたから。
それがそうじゃないと分かって、少し気持ちが軽くなった自分に、嫌気が差した。
この事件を追っているのも、結局は僕の自己満足なのかもしれない。
僕が動かなくても、教授とか春夏のお父さんとか、すごい人たちが事件を調べてる。
それなら、僕は義也の言う通り、おとなしくしておくべきなんじゃないだろうか。
……でも、
僕はそれじゃ納得できない。
わかってる。
これは僕のエゴだ。
でも、それでも僕は……。
……話が逸れちゃったな。
えっと、春夏のお母さんたちに話を聞いたあとは、高校の担任の先生に話を聞いて、
先生は春夏の相談にちゃんとのってやれなかったことをずいぶん後悔してたな。
で、その時も、誰かに見られてたって言ってたっけ?
で、そのあとは百合と一緒にまた教授のところに……あ、その前に佐々木さんと義也とも話したっけ?
ん?
それはそのあとだっけ?
なんか分かんなくなってきたな。
とりあえず、教授の所では、兼次さんとも話して。
2人の背景を知ったんだ。
で、2人も事件の犯人を追ってた。
それで犯人の候補として挙がったのが、春夏のお父さんと、佐々木さんと、義也。
でも、春夏のお父さんは違った。
あの人はあの人で犯人を追ってた。
で、そこでお手伝いさんも怪しいってことになって。
そのあとは佐々木さんと義也に話を聞いた。
佐々木さんは事件当日に誰かと電話してたけど、誰と電話してたか覚えてないって言うし、義也は春夏と電話したけど携帯を壊したって言ってた。
つまり、どっちもアリバイがない。
あ、お手伝いさんも実質、アリバイはないのか。
でも、義也は自分が犯人じゃないって証明になるかもしれない春夏の携帯を探してた。
それに、僕を守るために僕が事件を探るのを止めるとも言ってた。
でも、佐々木さんもお手伝いさんも僕のことを心配してくれてたし。
正直、誰が犯人なのかなんて分からない。
もしかしたら、全然違う人なのかもしれない。
「……はあ、ダメだ。
ぜんぜん分かんないや」
僕はこたつに入りながら、はぁと天井を仰いだ。
古いアパートの木目が恨めしげに見つめてくるような気分になる。
「……久しぶりに見てみるかな」
僕は机の引き出しに入っている春夏の日記を取り出した。
真っ白な装丁に、『diary』とだけ書かれた本。
「ま、教授たちに相談に行った所までしか書かれてないけど、振り返りは大事だよね」
そう呟きながらページをめくる手がピタリと止まる。
驚きながらも、そこに必然性を感じていた僕もいた。
白紙のはずの新しいページに、春夏の文字が書かれていたからだ。