3.願い願う
春夏とは大学は別々だったけど、僕は春夏の実家の近くに一人暮らしをすることになったから、実家から大学に通う春夏とは頻繁に会うことができた。
時間が会えば、一緒に帰ったりもした。
春夏の家は厳しい家庭で、サークルとかは禁止だった。
さすがに可哀想かなとも思ったけど、僕は正直安心してた。
春夏は贔屓目なしに見ても、かなり人目を引く容姿だ。
黒目がちの大きな目。
キレイな口元に、笑うと浮かぶえくぼ。
さらさらの黒髪は艶やかで、腰のあたりまであるのに全然重たく見えなかった。
それに何より、春夏はよく笑った。
本当に楽しそうに笑う春夏の周りには、人がいっぱい集まった。
太陽みたいに眩しい笑顔。
僕は、その笑顔からもう目が離せなかった。
それに対して僕は、お世辞にもイケメンとは言えなかった。
第一印象で出てくる言葉は、ほぼ100%「優しそうだね」だ。
可もなく不可もなく、相手を傷付けないための、モーストベターワードだ。
背もそこまで高くはない。
春夏よりかろうじて高くなれたのが不幸中の幸いだ。
大学で春夏と知り合った人は、彼氏として僕を紹介されると決まって微妙な顔をする。
分かってる。
「なんでお前が?」
だろ?
もう見飽きたよ、その顔は。
そんな僕の背中を春夏は思いっきり叩く。
「私が選んだのは秋冬なんだから!
堂々としてればいいの!」
「春夏、顔真っ赤だよ」
「うるさいわね!
秋冬もじゃない!」
僕たちはそうやって、2人でよく笑った。
「旅行に行かない?」
大学に入って初めての夏休み。
春夏が突然、そんなことを言い出した。
どうやら、春夏の父親が出張でしばらく家を離れるらしい。
春夏の母親には僕たちのことは話してあって、どうやら応援してくれているようだ。
春夏が母親に相談したら、二つ返事でオーケーしてくれたらしい。
僕は飛び上がって喜んだ。
春夏の母親が二人分の旅費を負担してくれると言っていたが、僕は自分の分は自分で出すと言った。
おかげで大学から始めたバイトの給料はふっ飛んだけど、これは男の意地だ。
いま使わずしていつ使う!
そう言ったら、春夏は呆れた顔をしながら笑ってた。
そうして僕たちは、深い森にぽつんと佇む湖が有名な観光地にやってきた。
大好きな春夏と二人での旅行。
僕はそれだけで嬉しくて舞い上がっていた。
春夏も心なしか、いつもよりよく笑っている。
食事が美味しいと笑い、空気がキレイだと笑い、僕がつまずいて転んで笑った。
本当に楽しい時間だった。
しばらくして着いた湖は、その美しさに圧倒された。
それと同時に、恐ろしくも感じた。
なんだか、畏れ多いような、あんまり長い時間ここにいてはいけないような、そんな畏怖すら感じるほどの美しい湖だった。
春夏も、その湖をキラキラした瞳で見つめていた。
キレイだった。
春夏は、その湖よりも、ずっとずっとキレイだと思った。
思わず、そう口に出してしまいそうになって、僕は慌てて口をつぐんだ。
「キレイだねー」
って言う春夏に僕は、
「そうだねー」
としか返せなかった。
そして、その夜、僕と春夏は初めて男女の仲になった。
僕はどうすればいいのか分からず、ものすごくあたふたしてた。
でも、春夏もおんなじようにあたふたしてて、僕たちは思わず笑っちゃって。
あたふたしよって春夏が言ってくれてからは、ずいぶん落ち着いて出来たと思う。
次の日の朝、目が覚めると隣に春夏がいて、僕は幸せで、どうにかなってしまいそうだった。
「おはよ」
「お、おはよう!」
毎日交わしてた挨拶も、その日は特別な意味を持っている気がして、僕は変に緊張してしまったのを覚えてる。
朝食を済ませてホテルを後にして、帰りの電車では、春夏は疲れて眠ってしまっていた。
肩にもたれかかる春夏に、僕は微動だに出来ずに固まっていた。
ああ。
この旅行中に、僕はいったい何回神様に時よ止まれと願っただろう。
この瞬間を永遠たらしめてくれと祈っただろう。
そして、願わくば、この人生最大の幸せを、これからも味わわせてくれ、と。
そんな、身の丈に合わない願いを願ったから、バチが当たったのだろうか。
お前ごときが過ぎたことを願うなと、神様が怒って、僕から春夏を奪ってしまったのだろうか。
だとしたら、神様はなんて残酷なんだろう。
なんて、くそ野郎なんだろう。
僕は膝にうずまっていた顔を上げる。
辺りはすっかり暗くなっていて、明かりをつけていない部屋は真っ暗だった。
月明かりが申し訳程度に、窓の形に部屋を照らす。
ぐう
お腹が鳴った。
思わず苦笑する。
こんな気持ちでもお腹がすくのか。
こんな気持ちでも生きようとするのか。
このままでいれば、僕もすぐに春夏の元に行けるのだろうか。
そんなことを考えたりもしたけど、結局、腹の虫には勝てずに、僕は台所に向かった。
自分の弱さが情けなくなる。
賞味期限の切れたパンを、牛乳で無理やり流し込む。
なんの味もしない。
春夏がこの世界からいなくなってから、色も味も感じなくなった。
なんで僕は食べてるんだろう。
もう食べる意味なんてないのに。
なんで食べるのか。
生きるためだろう?
なんで生きるのか。
春夏がいたからだろう?
もう、春夏はいないじゃないか。
なのに、なんで僕は食べるのか。
なんでまた、僕は生きようとしてるのか。
「うっ!」
唐突にこみ上げてくる吐き気に負けて、台所に駆け込む。
げほげほと咳き込み、たったいま流し込んだものを胃酸ごと吐き出してしまう。
パンが腐っていたとかじゃない。
生きる意味なんてないのに生きようとする自分に、その矛盾に、僕の頭と心と体がケンカしてるんだ。
世界で一番で、世界で唯一の大切な人を亡くした僕の精神は、もう限界だった。