18.西日は今日も沈む
2人しかいない屋上に風が吹く。
日が沈みだして、空気が冷えてきた。
もう10月も終わりだ。
これからどんどん寒くなってくる。
でも、僕がいま感じている寒気は、それとは関係ない気がする。
佐久間先生がタバコに火をつける。
大きく一吸いし、はぁと煙を吐いた。
「おまえはもうここの生徒じゃないから、遠慮しなくていいよな」
そう言って悪そうに笑う先生は、僕が知っている佐久間先生だった。
さっき一瞬見せた、とても冷たい表情が嘘のようだった。
先生はタバコの煙を燻らせたまま、くるっと振り向くと、屋上の柵にもたれかかって、顔を隠し始めた太陽を眺めた。
「……あの、」
「秋冬よぉ」
先生はそのまましばらく黙ってタバコを吸っていたので、不安になった僕が話し出そうとすると、先生は前を向いたまま話し始めた。
「おまえがどっから何を聞いたのかは知らないが、橘のことをこれ以上追うのはやめておけ。
その先には、ツラいことしかないぞ」
先生の言葉とともに出た煙が、先生の頭から抜けるように空へと消えていく。
「……先生は、何を知っているんですか?」
僕が尋ねると、先生はうつむいて溜め息を漏らした。
「俺は、何も知らなかったんだよ。
何も知らなかったから、何も出来なかった」
「先生?」
先生は僕に背を向けてたから、僕には、先生が柵をつかむ手を強く握りしめていたことが分からなかった。
少しして、先生はふっと力を抜いて、空を仰いだ。
「……あの時、もっとちゃんと話を聞いてやっていれば。
もっと、周りを注意深く見ていれば。
橘は、それに気付いていたのに……」
「先生、なにを?」
先生は、僕というより、過去の自分に話しているようだった。
また少しして、先生はタバコの火を消すと、くるりとこちらを振り向いた。
悲しそうな顔をしていたけど、いつもの気だるげな佐久間先生だった。
「橘には、同窓会関連のことで来てもらったんだ。
その時、たしかに橘から相談を受けた。
でも、俺はその日は忙しかったから、あまりちゃんと話を聞いてやれなかったんだ。
秋冬。
おまえは、どこまで知ってるんだ?」
「どこまで……。
春夏が、誰かに監視されてるんじゃないかって悩んでることなら……」
僕がそう言うと、先生はこくりと頷いた。
「そうか。
俺が橘から聞いたのも、そのことだ。
橘の大学の教授には?」
春夏のゼミの、高梨教授のことだろう。
「聞きました。
でも、あまり話してくれず。
もう少し詳しく知ったらまた来なさいって言われて……」
「そうか。
橘はその人にけっこう相談にのってもらったらしいから、本当にこの件を追いたいなら、もっとしっかり話を聞くといい」
「わかりました」
「だが、」
先生が僕の顔を正面から見つめる。
「俺は、おまえはもうこの件から手を引いた方がいいと思う。
俺の考えが合っているなら、この先には悲しい結末しかない。
秋冬。
おまえが傷つくことになるだけだ」
「……先生」
先生の考えが何なのか、それは分からないけど、先生が僕のことを心配してくれてることだけは分かった。
「俺は忠告したからな」
先生はそれだけ言うと、屋上の鍵を僕に渡し、入口に向かっていった。
「まあ、そこでしばらく考えるんだな。
西日を眺めながら風に吹かれてると、いろいろ考えも浮かんでくるさ」
先生はそれだけ言って、屋上から出ていった。
「……」
僕は先生みたいに柵につかまって、屋上から見える景色を眺めた。
春夏を追うのをやめる?
幻影を追うのはやめろと?
その結果、僕が傷付くだけだから?
それは、悲しいな。
僕はうつむく。
「ははっ……」
それも、ありかもしれない。
でも、そんなわけにもいかない。
再び顔を上げると、地平線には、半分ほどになった夕焼けが、やり尽くしたのかと、それで満足なのかと、太陽の断末魔となって僕を責めてくる。
目を差すような西陽。
このまま沈んで良いのかと、闇と夜とに呑まれて良いのかと、消えかけの太陽がこれでもかと、僕の瞼に差してくる。
いいわけがない。
僕が傷付く?
もうこれ以上、何が傷付くというのか。
このズタボロの心の、どこに傷を付けると言うのか。
先生。
心配してくれてありがとう。
でも、僕はやっぱり、まだ春夏を追います。
その後、屋上の鍵を返す僕の顔を見た先生が、少しだけ悲しそうに、
「バカ野郎」
とだけ呟いた。