10.教授
「うわ。広いな」
春夏の大学は予想以上に大きかった。
僕と義也が通っている三流私大とは大違いだ。
「さすがは天下の一流大学様だな」
そんな卑屈をこぼしながら、僕は春夏のゼミの教授の研究室へと足を向けた。
校内の綺麗に整備された道には、左右に金木犀の木が植えられている。
道を歩くと、自然とその香りに包まれて、秋の全盛期を感じられる。
「ええと、この建物かな?」
佐々木さんに教えてもらった研究棟は8階建ての大きな建物だった。
横にも長くて、どちらかというと企業ビルみたいなイメージだ。
「こんにちは。
学生の方ですか?」
中に入ると、受付の女性がにこやかにこちらに話し掛けてきた。
受付なんているの!?
ウチの大学はゼミの研究棟なんか入り放題なんだけど。
「あ、えと、ここの学生、ではないんですが、その、高梨教授にお話を伺いにまいりまして」
別に普通に聞かれたことに答えればいいだけなのに、なんだかしどろもどろになってしまう。
無駄に冷や汗をかいている気がする。
「アポイントメントは取ってありますか?
お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
明らかに不審な僕にも、受付の女性は優しい笑顔を崩さずに丁寧に対応してくれる。
そのおかげで、少しずつ落ち着いてきた。
「あ、はい。取っております。
柊秋冬で、と、申します」
「かしこまりました。
少々お待ちくださいね」
それでもまだ緊張していたのか、変な話し方になってしまった。
受付の女性は少しだけクスッと笑ってから、パソコンをいじりだした。
カッと顔が熱くなる。
「柊様。
お待たせしました。
確認が取れました。
お手数ですが、こちらに必要事項を記入してください」
「あ、はい」
出された用紙に必要事項を記入すると、ストラップ付きのネームプレートを渡された。
それを首から下げて、僕はようやく先へと進むことができた。
「高梨教授の研究室はそちらのエレベーターで3階まで上がっていただいて、廊下を突き当たりまで進んだ先になりますので」
「あ、はい。
ありがとうございます」
僕はぺこっと頭を下げて、教えてもらったエレベーターに乗り込んだ。
「ふう」
1人になって、ようやく一息つけた。
ここまで来て、僕は高梨教授に何を話すのかをまったく考えていないことに気が付く。
来れば何とかなると思ってたけど、そういえば何て話そう。
そもそも春夏は教授に相談したんだろうか。
してたとしても、してなかったとしても、なんて切り出せばいいのか。
頭の中でぐるぐると考えてみるけど、結局うまい言い方が思い付かず、なるようになるかと、特に計画を立てずに行くことにした。
エレベーターが開いて3階に足を踏み入れる。
なんだか、ひんやりしてる。
打ちっぱなしの壁がよりその印象を強くする。
突き当たりまでがずいぶん長く感じる。
人っ子一人いない。
防音にでもなってるのか、並ぶ扉からは何の音も聞こえない。
本当に、ここには人がいるんだろうか。
「ここか……」
ようやく突き当たりに着いた。
なんだか年季入ってるな。
重そうな鉄製のドアをノックすると、すぐに声が返ってきた。
「どうぞ」
男性の声だ。
思ったより若い。
「失礼します」
ドアを開けると、30代にも見える端正な顔立ちの男性が立ち上がって出迎えてくれた。
教授なんだから、きっと実年齢はもっと上なんだろうけど、カジュアルな服装と相まって、だいぶ若く見える。
「はじめまして。
高梨です。
佐々木くんから聞いたよ。
君が柊秋冬くんだね。
橘くんの恋人だった」
高梨教授はにこやかに笑みを浮かべて僕を誘う。
物腰もやわらかくて、親しみやすい感じだ。
『恋人だった』
という言葉に少しだけ胸を痛める。
「すみません。
突然お邪魔してしまって」
僕は精一杯ハキハキとしゃべった。
春夏がこの教授と楽しそうに話している場面を想像して、妙な対抗心を燃やしてしまったからだ。
「さあ、そんなところに立ってないで、こちらのソファーにどうぞ。
いまお茶を淹れましょう」
教授は僕のそんなちっぽけなプライドを見透かしたかのように小さく笑うと、シンクに向かった。
「失礼します!」
僕はそれに気恥ずかしさを覚えたけど、声の大きさでそれを誤魔化して腰を下ろした。
部屋の中はけっこう広かった。
たぶん僕の部屋よりも広いだろう。
ブラインドの下ろされた窓際に教授の机。
その手前に向かい合わせのソファーと小さなテーブル。来客用だろうか。
さらにその手前にはゼミの学生用と思われる大きなテーブルと、椅子が何脚か置いてある。
ここで、春夏は過ごしていたのだろうか。
「おまたせ。
コーヒーで良かったかな?」
「あ、はい。
ありがとうございます」
教授が大きなテーブルの横にあるシンクからマグカップを2つ持ってきた。
香り高いコーヒーがゆらゆらと湯気を揺蕩わせる。
本当はミルクと砂糖が欲しかったけど、教授がそのまま飲んでいるのを見て、何とかブラックのまま一口飲んだ。
だいぶ苦かったけど、飲めないほどじゃない。
顔に出さないようにするのが大変だった。
「さて、」
僕がマグカップを置いたのを確認すると、教授は口を開いた。
「ここに来たのは、橘くんのことだね?」
「はい……」
教授は回りくどいことは言わず、いきなり本題に入るようだった。
僕も適当な話題なんて思い付かないから、その方が助かる。
「君は、」
「はい」
「あ、いや、なんでもない」
「?」
なんだ?
「橘くんが私に相談してきた内容についてだろう?」
「なんで分かるんですか!?」
「君の顔に書いてあるよ」
「ええっ!?」
僕が顔を触ると、教授はくっくっくっと笑いを噛み殺していた。
「と、言うのは冗談で。
橘くんから言われてたんだ。
君が私の元を尋ねに来ることがあったら、君はきっと、彼女の悩みを知ろうとしてるんだろう、と……」
教授はそう言うと、春夏を思い出すように目を細めた。
「春夏は、教授にどんな相談を……」
僕が尋ねると、教授はこちらをまっすぐと見据えてきた。
「すまない。
そのことは橘くんから口止めされているんだ」
「そんなっ!」
春夏っ!どうして!
「……疑問に思うだろう。
恋仲である自分に話せないなんて、と。
だが、彼女は君のためにも、絶対にそれを話さないでほしいと言ってきたんだ。
そして私は、今となってはそれを彼女の最後の願いと思って、遵守すると決めた。
だから、すまない」
教授はそう言って、深く頭を下げた。
「……それは、春夏が誰かに尾けまわされてたことですか?」
僕がそう言うと、教授は少しだけ驚いた表情を見せた。
「誰からそれを?
ああ。そういえば、幼い頃からの親友にも少しだけ話したと言っていたね。
その子かな?」
春夏はこの人に百合のことまで話してたのか。
春夏に信頼されている感じが、なんだか僕の心に嫌な澱を沈殿させる。
「たぶんそうですね」
表には出さないようにしたのに、勝手に憮然とした感じになってしまった。
教授はそれを感じ取り、苦笑してみせた。
「心配しなくても、君が考えているようなことは何もないよ。
これでも結婚してるんだ。
小学生に上がったばかりの娘もいる。
安心してくれ」
教授はそう言うと、左手の薬指にはまった指輪を見せてくれた。
とはいえ、完全に安心は出来ない。
だからこそ、大学生相手に遊び心を燃やすこともあるだろう。
僕の明らかに安心していない様子に、教授は困ったようにコーヒーを口にした。
「せっかく来てもらったのに、たいしたことを話せなくてすまないね」
教授はそう言うと、がたっと席を立った。
もう話はおしまいだということだろう。
僕はコーヒーのお礼を言ってから、ドアに向かう。
ドアノブに手をかける僕に、教授が最後に声をかける。
「もし君が、もう少し真相に近付けたら、もう一度来なさい。
その時は、私に話せることは話そう」
「……わかりました。
ありがとうございました」
僕は振り返らずに返事だけを返して、教授の部屋をあとにした。
2人分のマグカップを片付けながら、教授がぽつりと呟く。
「ここに来たということは、彼は彼女の日記を読んだということか。
彼女は結局、やはり最後には彼を選んだんだな」
教授はそう言って、マグカップを洗い出した。




