第二話 異変
飛び出した勢いのまま、村の北へと小走りしながら道を駆ける。
しばらくは家々が立ち並ぶ風景が続くがだんだんとまばらになっていき、その代わりに田んぼが多くを占めるようになる。
今は雪解けの時期で、田んぼには踝くらいまで水が張ってある。
もう少しすると田植えをして、見渡す限り早苗でいっぱいになるのだろう。
フラスカではずいぶんと昔から、田植えはみんなでやる一大イベントのようなものになっている。
かくいう俺も毎年手伝ってきたが、あれは何度やっても慣れなくて、いつも腰を痛めて一週間は引きずってしまう。
「アラン坊ー!」
そんなことを考えていると山の入り口が見えてきたところで、遠くから俺を呼ぶ大きな声と共に、田んぼのあぜ道から人が歩いてくる。
そろそろ八十才だというのに年老いた感じのしない、ガッシリした体格の見知った老人、村長だ。
「ああ村長、おはようございます。何してるんですか ?」
「おう、今は水の入り具合を見てんだぁ。今年も水量は問題ねえから、無事に田植えができそうだぁ。今度も頼むぜぇ、アラン坊」
「あー、田植えですか。また腰が痛くなるなあ……まあ、手伝いはしますけど」
「頼むぜぇ。それにアラン坊はもう少し筋肉をつけなきゃいけねえしなぁ。そんなひょろっこいんじゃあ、女にはモテねえぞぉ」
「はいはい、頑張りますよ。ただまあ残念なことに、この村に僕と同じくらいの女の子はいませんけどね」
「おぅ?まだ知らねぇのかぁ。最近越してきた家の長女がアラン坊と同じくらいだったぞぉ。村の南の方に住んでる。一度挨拶に行っときなぁ」
「へえ、それは知らなかったですね。まあ、挨拶は後日折をみて行きますよ」
「おう。それがいいだろうなぁ。同じぐらいの年ごろの子は他にいねえし、仲良くするんだぜぇ ?」
「分かってますよ」
村長の言葉に、内心少し驚いていた。
なにせこの村に十代は俺だけだ。
そこにいきなり同じくらいの年ごろの、しかも女の子が来るって言うのだから驚かない訳がない。
しかし、なるべく平静を装うように心がける。
村長は、僕が驚いたりあたふたしたりするのが大好きで、そうすると高確率で茶々を入れてくるのだ。
「つっても、女慣れしてねぇアラン坊じゃなあ」
ほらきた。そう言って村長はニヤニヤしながら俺をみてくる。
「はいはい」
流しぎみで反応すると、村長は一瞬つまらなさそうな表情をしたが、すぐに思い出したかのような表情に変わる。
「あ、それはそうと、急いでたんじゃねぇのかぁ、アラン坊 ?」
「あ……」
ハクのことを思い出し、「じゃあまた」と少々急ぎ足で挨拶をして村長と別れた。
その後そのまま小歩りしていくと、すぐに山に到着した。
家からだと、だいたい二十分くらいだろうか。
この山はあまり高い訳ではないが、欝蒼とした木々のせいで実際の高さよりも高く、大きく感じる。
初め入り口は開けているが、中に入るとすぐに薄暗くなった。
何か変なものでも出てきそうな不気味さがある。
まだ小さかった頃、この急に暗くなる感じが怖くて一人では入れなかったものだ。
さっそくおじさんにもらった鈴を軽く鳴らしながら歩く。
ある程度整備された道から段々と整備のされていない獣道のようなものへと変わっていく。
この道を辿って半日ほど歩くと、マルーシャという少し大きめの町に出る。
僕も何回か行ったことがあるが、ここフラスカでは想像もできないほど賑わっていた。
そのまま十分ほど歩いたところで、大きめのほら穴をみつける。
「ハク」
ほら穴の入り口付近でしゃがみながらそう呼ぶと、子犬が胸に飛びついてくる。
銀色の毛並み、体の割に長い尾、鋭いながらもまだ幼さを残す瞳をもった、片手で持ち上げられるサイズの子犬だ。
一昨日みつけた時に美しい銀の毛が、透き通った白色に見えたため、安直だが『ハク』と名付けた。
「ウォゥ!」
ハクは嬉しそうに一声吠えて、俺の顔を舐めてくる。
「ハクまって、くすぐったい……。ていうかちょっと臭いって。帰ったら洗ってやるからな」
ハクの頭を何度か撫でた後胸の上からどかし、服を二、三度はたいて立ち上がる。
そして、昨日ほら穴の中に置いていった簡易的な釣り竿とバケツを取り出す。
ハクの朝ごはんのためにとバケツの中に用意しておいた魚は、一匹残らずなくなっていた。
ハクはかなり運動能力が高いようで、近くの池に行った時は自分で魚を獲っていたが、それで俺が置いていった魚も全部食べてくれていたようなので、釣った甲斐もあるというものだ。
「よし今日も釣るぞ」と小さく意気込み、池へと歩き出す。
すると、後ろからちょこちょことハクがついてきた。
山の中は人の出入りが少なくいつも静かだ。
それは今日も例外でなく、落ち葉をザクザクと踏みしめる音しか聞こえない。
ただ、今日はその静けさがいつも以上のように感じた。
なにか背筋が寒くなるような、不気味な、居心地の悪い静けさ。
嫌な予感がする、というのがしっくりくる表現だろうか。
すると突然、ハクが耳と尾をぴんと立てた。
心なしか毛も逆立っているようにみえる。
少し驚いてハクの方へと視線を落とすが、特に何もないようなので気にしないことにし、ゆっくりと目線を戻す。
その時、俺はソイツの存在に気づいた。
数十メートル先に、ソイツがいた。
心臓が狂った秒針のように早鐘を打つ。 黒々しい不吉な色。
立ち上がったら僕の倍はあろうかという巨体。
熊だ。
四足歩行でかがみ、何かを貪っている。
股から何かが飛び出していた。
足だ。
驚きで、呼吸さえうまくできなくなる。
そう、その足は人間のそれだったのだ。
時間が止まったかのように感じられ、体に電流が走り、震える。
その人間は抵抗していなかった。
もう、生き絶えているのかもしれない。
グイ、とハクがズボンの裾を引っ張る。
そこで我に帰り、止まった時間が動き出す。
おじさんも言っていたがこの山には熊なんていないはず。
だが今、目の前にいる。
そして人を貪っている。
それが現実だ。
頭をフル回転させて考える。
逃げるべきか、あの人が生きていることを信じて助けに動くべきか、自分の中で葛藤する。
だがすぐに前者の選択を決意する。
後者は危険すぎる。
一人で突っ込んでも、犠牲者がもう一人増えるだけだと目にみえてる。
村に戻り応援を呼ぶしかない。
決意してから行動は早かった。すぐに膝を曲げ、ハクが吠えないように口のところをおさえて抱き上げる。
気配を殺してゆっくりと反転する。
そして一歩踏み出す。
そこで鳴ってしまう。
カラン、と。
乾いた音。
再び時が止まる。
恐る恐る振り返ると、ちょうど熊もこちらへと振り返るところだった。
目が合う。
聞いたことがある。
食事中の獣は……獰猛だ。
熊がこちらに向かって走りだしたのを見て、俺もハクを抱えたまま全力で走る。
何度も後ろを振り返るが、絶望的だ。
熊の全速力は毎時六十キロにまで達するという。
数秒で距離を詰められ、咄嗟に近くにあった登りやすそうな木に登る。
熊が木を登れる場合があることも知っていたが、これ以外に手はない。
登ってこない可能性にかけた。
が、願いも空しくほんの少し躊躇した後に登ってくる。
「こっちくんなよ!」
登ってきたところを、折った枝でパチンと叩く。
だが全く効果はない。
やばい、やばいやばいやばい。
俺はなんとか高ぶる気持ちを抑え、冷静になって何か手を考えようとしたが、悲しくなる程に何も出てこない。
その時だった。
ハクが動いた。
一声吠えて俺の肩を蹴り、熊に襲いかかる。
頭に飛びついて噛み付く。
が、一振り。
熊が蚊でも処理するかのように軽く、ほんの少しだけ爪を一振りする。
しかしそれだけでも十分な威力だ。
ハクは血を伴って宙に舞う。
「ハク!このやろぉぉ!」
俺は無意識的に飛んでいた。
一瞬上昇した体は、重力によって引き寄せられ、下方へと進路を変える。
それに加えて、曲げた足を急速に伸ばす。
熊への、渾身のドロップキック。
放った蹴りは綺麗に熊の顔面に入る。
全体重を乗せたためかなりの威力だったのだろう、よろついて木から落ち、頭から地面にぶつかる。
俺も足で着地するが、高くから落ちたため激痛が走る。
もしかしたら骨折したかもしれない。
しかしそんなことは気にせず、倒れ込むようにハクに近づく。
気を失っているようだった。
血の量は恐らく致死量ではなく、手当てをすれば大丈夫なように見え、思わず吐息が漏れる。
だがホッとしたのは束の間だった。
視界の隅で何かがのそりと動く。
黒い、何かが。
「え……嘘でしょ」
顔から血が引いていくのが分かる。
立ち上がろうとするが、痛みでそんなことは不可能だった。
万事休す、とはまさにこの事だろう。
熊は二足で立ち上がりこちらを威嚇してくる。
全ての時間が百分の一倍速くらいのスローに感じられ、走馬灯のようなものが見えた気がした。
そこで突然ゴツン、と鈍い音がする。
それと同時に時間が特異性を失い、通常のものへと逆戻りする。
俺の顔ぐらいはある大きな岩が地面に転がるのが見えた。
熊はよろつき、飛んできた方向を睨む。
俺も咄嗟にそちらの方を向く。
そこにいたのは黒いフードを深く被り、同じく黒色のコートを身にまとった人間だった。
熊の攻撃対象が、その人へと変わる。
ダメだ。
武器でもない限り、一人じゃどうにもならない。
「逃げて!」
気付いたときには叫んでいた。
だがその人はその場から動かない。
そして次の瞬間、熊が鋭く尖った右爪を振り下ろす。
しかしその人は素早く間合いを詰め、かがんで脇へと潜りそれを躱す。
背後にまわりつつ、熊の背中に左手を当てる。
聞き取れなかったがその人がボソッと何かを呟くのが聞こえた。
直後、バチンと、静電気のような、空気が振動する音が響く。
ただ、静電気のそれよりもはるかに大きかった。
その直後、熊が声にならない声をあげて直立し、二、三度痙攣したかと思うと張った糸が切れたかのように倒れた。
え、やった……のか?
思考停止していると、すぐにフードの人がこちらを向き、走りよってきた。
「無事か!少年」
フードの中は見えなかったが、その人はそう叫んだ。
聞いて安心するような、なんというかカリスマ性のある声だった。
その声を聞くとなぜか、助かったのだと緊張感が和らいだ。
俺はほっとしてその人へと倒れこみ、あっさりと意識を手放した。
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