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父の菜園

作者: 藤原博也

 父が家庭菜園を始めたいと言い出したのは、まさに突然のことだった。

 いつも無口な父は、特別な用のない限り自分から話しかけることなど殆どなかった。

その父が夕食の時間に突然言い出したのだ。

 父が何かを言い出すときといえば、たいがい勉強や遊びのこと、そして母に対する小言ばかりだったので、父が話し出すと僕も母もやけに緊張をしたものだった。

 そして、父の小言がひとしきりつづいたその後には妙にしらけた空気が家の中を取り巻くものだから、僕は父の存在がけむたく、近寄りがたいものとなっていた。

 しかし、その日に限っては違っていた。

 初めて見る明るい表情で、夕飯の食卓を囲む僕たちに家庭菜園の話をはじめたのだ。

「どうしたんですか、突然。」

 母が戸惑いの表情を隠そうともせず父に言った。

「たまたま近くの農家の方が、土地を貸して下さるというものだら。」 父はいつもと違い、遠慮がちに母の了解を得ているようだった。

「私はイヤよ。虫に刺されたり土で汚れて・・・ごめんだわ。」

 小言でないことを知った母が無遠慮に言った。

 母は、どちらかといえば都会的な女性で、休日に家族で出かける場所といえばショピングなどを楽しみたい方だった。だから、家族でハイキングに出かけた記憶など一度もなく、それが僕には不満だった。

 僕が小さい頃、海水浴に出かけた時も、母は一人だけ水着に着替えようとはせず、海岸の後ろの方で日傘をさし、およそ海岸には似つかわしくない格好で僕と父の様子を見ているだけだった。

「母さんも一緒に泳ごうよ。」と僕が母に近づいたとき、母は「砂だらけで来ないで。」と本当に嫌そうに言って僕を寄せ付けなかったことが今も印象に残っている。

 だから今度のような話を母が賛成するはずはなかった。

「もちろん、畑のことは私ひとりでやるつもりさ。」

 最初から覚悟していたように父がいった。

 そして暫く沈黙が続いたまま食事が続いた。

 僕はとばっちりが来ないように緊張しながら、背筋を伸ばし、いつも以上に礼儀正しく食事をした。

「ところで、場所はどこなの。」

 強い口調で言ったことを反省をしたのか、母が優しく尋ねた。

「家の裏の道を歩くと左手に水田があるだろ。その畦道を歩き、あの小高い丘の向こうの斜面のところだよ。」

「遠いわよ。それにあそこには畑など無いはずよ。」

「畑などないさ。だから開墾をして畑をつくるのさ。」

 再び母は信じられないといった表情で父を見つめ、深いため息をついた。

「いいんだよ、休日に少しずつ楽しみでやるんだから。」

 父は母の反応などおかまいなしに、自分の気持ちを告げているようだった。

「鍬を買ったり、肥料を買ったり、結局八百屋で買うよりはるかに高くつくわね。」

 母は父の言葉を理解しようともせず、一方的に言った。

「私が野菜を作りたいのはそんなものじゃない。何でおまえは現実的な話しかできないんだ。」

 父はやや荒い口調で母に言うと、それっきり二度と菜園のことは口にしなかった。

いつものように食卓にはとりつくしまのない、しらけた雰囲気が漂っていた。

 いつもなら母の味方をする僕だが、今日は父が少し可哀想な気がした。



二、


 次の日曜日、僕が起きると父はすでにいなかった。

 畑に行ったのかと思い慌てて玄関に出ると駐車場の車がなかった。

 おそらく、どこかに作業道具を買いに行ったのだろうと思った。

 僕の予想どおり、父は鍬や鎌、そして大きなビニール袋に軍手や長靴などの作業用具を買い込んで帰ってきた。

 母はその姿に目をやると、「今日の買い物で、何ヶ月分もの野菜が買えたのにねぇ。」などと嫌みを言ったが、父は知らん顔でひとり居間で作業着に着替えていた。

 暫くすると、先ほど買い込んできた鍬や鎌を手に裏の道を左に折れ、畦道を歩きだしていた。

 僕はパジャマのまま畦道を歩く父を追いかけた。

畦道を歩く父の背中が不思議といつもより大きく見えた。

「大丈夫?ひとりで。」

 僕が心配そうに言うと、父は黙って僕の頭を優しく撫でた。

 畦道が終わり小高い丘の前に着くと、そこから先には鬱蒼と生い茂る草木があるだけで道らしきものはなかった。

 父は暫く考え込んでいたようだが、やがて鎌を手にとると元気よく草を刈りはじめた。

「どこかに道はないの。遠回りしてもどこか道を見つけた方がいいよ。」

 僕の忠告にも父は耳を傾けようとせず、父は黙って草を刈り続けた。

 慣れない手つきで草を刈っては束ね、その後を鍬で道筋をつける。その繰り返しだった。

 見上げると、丘一面にびっしりと草が生えていて、気の遠くなりそうなその仕事の量に僕は『手伝うよ。』などとはとても言い出せなかった。

僕は暫く父の作業の様子を見ていたが、単調な繰り返しが続くだけだったので家に戻ることにした。

 父はその日、昼ご飯を食べるために一度戻ってきたが、すぐにあの丘の道づくりに戻っていった。

 僕は夕暮れまで遊んでいて、父の事などすっかり忘れていたが、帰り道に畦道の前を通り過ぎようとして父を思いだし、丘を見ると僅かに道とはいえないほどのか細い筋がひとつついていた。

 それからの父は休日の度に朝はやくから遅くまで作業を続けたが、その姿はまるで何かにとり憑かれたようだった。

 母は父が作業に出かけると「いつまで続くのかしらね。」などと僕にいいながら笑っていたが、僕には母に対する父の挑戦かもしれないなどと一人考えていた。

 結局、母は思いのままの休日を過ごし、父の作業には全くの無関心だったが、僕はたまに父の事を思い出し、畦道の入り口に立ち、作業の進み具合を眺めることがあった。 

 二ヶ月ほどすぎた頃になると、丘の向こうまでよろよろとした道が出来ていて、すでに作業をする父を畦道越しに確認することはできなくなっていた。

僕は父の作業をする姿が見えなくなる頃から(父はどこか遠いところに行ってしまったのではないか。)とひとり錯覚することがあった。

 しかし、そんな休日が過ぎていくにつれ、僕は父のことを気にしなくなり、いつしか友達との遊びに夢中になって休日を過ごすようになっていた。

菜園を始める前の父の休日といえば、体の不調を訴え、決まったように同じ場所でごろりと横になり新聞を読んだりテレビを見たりして過ごす事の多い父だったが、あの菜園づくりを始めて以来、体の不調を訴える事もなく、むしろ僕にとっては父の姿が生き生きとして、時に頼もしくさえ見えていた。

そして気がつくといつの日からか、平日と同じように、休日も陽のあるうちは我が家から父の存在が無くなっていた。

 しかし母は、休日の度に家にいる父より、早朝からいなくなる父の方がはるかに気楽なようだった。

 そして、あの菜園づくりの話を父が母にして以来、父は菜園の話を全くしなかった。

 母も菜園の様子を尋ねるどころか、その事にふれようともしなかった。

 いつしか、父の作業着姿が僕には当たり前の姿となり、畦道を歩く父の姿も自然に見えた。

 そんな生活が当たり前のようになり、僕たちの生活が過ぎていった。



 父が菜園づくりを始めてから半年が過ぎた頃、作業の帰りに収穫したばかりのキュウリやなすを持って帰ることが多くなった。

 母はあの時に言った言葉のことなどすっかり忘れたかのように、当たり前にそれを食卓に並べた。

 そして僕も不揃いなその野菜を頬ばった。

 それは母がいつも食卓に並べる野菜とは比べものにならないほどみずみずしく新鮮で・・・・・本当の野菜の味を父から教えてもらっているような気がした。

 本当のことを言えば、僕はその菜園に一度でいいから連れていってほしかった。

 しかし、父が汗水を流し大切な休日に作り上げた菜園に収穫の時だけ連れていってとは言えなかった。だからいつも休日の夕暮れになると父の帰るのを楽しみに待っていた。

 父も、僕を誘うことはなく、むしろ自分だけの世界をひとり楽しんでいるようだった。

 そして、その感覚はいつしか僕の頭の中で次第に強くなっていた。「菜園に連れていって。」などと言おうものなら、何故だか分からないが、父が激怒するに違いないとさえ思うようになっていた。

 母もきっと同じ気持ちだったかもしれない。

 立ち入ってはいけない所。我が家の菜園はまさにそんな存在だった。


 

三、


父が菜園を始めて三度目の春、僕は中学校に入学した。

 思いのほか、中学校生活は忙しかった。

「君たちはもう小学生じゃない。ここは中学校なんだ。」などと怖そうな先生からいきなり怒鳴られ、僕たち一年生はかけ足で一学期を過ごしていた。

 家に帰れば食事中にも居眠りをし、勉強どころではなく泥のように眠った。救いは唯一、どんなに疲れていようとも、ぐっすりと眠った翌日にはすっかり疲れがとれていることだった。

しかし、辛いのは休日にも部活動が早朝からあることだ。

 だから早朝から僕は学校へ、そして父は畑へ同じ時間に家を出ることがある。

 特別な会話をする事もなく、黙って畦道のところまで歩く。そして、父は畦道に向かい、僕はそれまで引いていた自転車に乗り、学校へと急いだ。

 途中、ふり返り父の姿を見ると、畦道を歩く父はいつも胸を張って歩いていた。その歩く姿を見ると何となく安心し、僕は再び部活動に遅れないためにペダルをこぐ。

 とりあえず僕の中学校生活は充実していたのだ。

 だから畑の事や父の事など、殆ど考える事なく毎日を過ごしていた。

 それでもたまに、帰り道に作業を終えて畦道を歩く父の姿を見ることがあった。

夕日に照らされ肩を落とし、どことなく元気のない父の姿がやけに印象的だった。

そんな姿をみる度に母も手伝えばいいのにと僕は思った。

 そういえば一度だけ部活の帰りがけ畦道で父の帰りを待っていたことがあった。

 休日の度に黙々と作業しているであろう父の姿が脳裏をかすめ、なんとなく哀れに思ったからだ。

 父を待つ間、畦道の途中に佇み、辺りの様子を眺めていた。

 畦道を歩く僕の足音に驚いて水田に飛び込む蛙や耳元をかすめる虫達の羽音。そのすべてが暫くぶりで懐かしかった。そして、稲の葉先にはつゆがきらきらと夕日に照らされ輝いていた。

 やがて丘をおりてくる父の姿が見えた。

 僕は畦道を父の方に向かった。

 父は僕に気がつかないのか、うつむきがちに黙々と歩いている。

「父さん。」

 僕が呼ぶと父はぎょっとして一瞬立ち止まり険しい顔をして僕を見つめた。

「僕だよ。」

 父を安心させようとして声をかけると、父は「分かってる。」といったままよそよそしく僕の前を急ぎ足で通り過ぎた。

 僕は父の意外な反応に驚いていた。

それは突然声をかけられたからではなく、確かに僕だと分かって険しい顔をして通り過ぎたのだ。

それは僕の知っているいつもの父ではなかった。

 そして、すれ違いざまに僕の知っている父の汗のにおいと一緒に、ほのかに香水が漂っていたような気がした。 

 僕は呆然として父の後ろ姿を見送った。 

 家に帰ると、シャワーを浴びた父が食卓にやってきた。

「さっきは迎えにきてくれてありがとう。」

 いつも通りの父が、僕に気をつかいながら優しく話しかけてくれたが、僕はあの畦道での出来事がショックで返事をすることができなかった。

そしてあの日以来、父にまとわりついていたほのかな香水の匂いを忘れる事ができなかった。

 やがて、一学期も終わりに近づく頃になると憂鬱な期末試験が近づいてきた。

 今まで勉強などどうでもいいと言わんばかりに夢中で部活の指導をしていた先生が今度は急にテストでがんばれなどという。

全く、中学の先生は身勝手で自分本位だと僕は思った。


四、


 その日は試験前ということで、休日の部活動は禁止のはずだったが、打ち合わせをするということで、他の先生には内緒で部活動のメンバーが集められた。しかし、打ち合わせは思いのほか早くおわり、僕は試験勉強をするために家路を急いだ。

 いつもの畦道の前を過ぎようとしたとき、父の菜園がなぜか気になった。

 いつもなら無意識に通り過ぎるその菜園が・・・・・・。

(菜園に行ってみようか。)と思った。

 それはほんの軽い気持ちからだった。

 「手伝おうか。」そんな言葉かけで、簡単に父が受け入れてくれると思ったからだ。

 僕は自転車を土手に投げかけると畦道をとぼとぼと歩き出した。

入道雲が遠く見え、七月とはいえ夏真っ盛りといった陽気で、水田は一面浮き草に被われ、稲が元気よく空に向かい伸びていた。

 いつか父に頭を撫でてもらいながら歩いた畦道がやけに細く、たよりないものに感じた。

(こんなに細かったかな?。)などと独り言を言いながら、僕はなんとなく陽気な気分で畦道を歩いていた。

 しかし、畦道を過ぎ、父の作った丘の小道にさしかかると、なぜか急に気分が重くなった。

 始めて菜園に行く緊張感からではない。

 父のプライバシーを覗き見るような気がしたからである。

 気がつくと丘の小道をゆっくりと忍び足で歩いていた。

 初夏の日差しはきびしく、小道を被う草のせいでワイシャツは殆どびっしょりになっていた。

 それでも僕は休むことなく、ゆっくりと菜園に向かっていた。

 (行ってはいけない。)そんな胸騒ぎがした。

 もう少しで菜園にたどり着く所にススキの株があった。

 僕はそのススキの陰に隠れ深く深呼吸をした。そして、そっと菜園を覗いたのだ。

 野菜の柵の葉の隙間から父が見え隠れしている。

(父がいた。)

 先ほどまでの、訳の分からない不安はどこかに消え、父に声をかけようとした。

 その時である。もう一つの姿が見えたのだ。

僕はその見え隠れしているもう一つの姿が誰なのかを知ろうとした。

その姿ははっきりとは確認できなかったが、髪の長さやシャツの色から判断すると間違いなく女性のようだった。

(母が来ているのだろうか。)一瞬そう思ったが、母がこんな鬱蒼とした丘を登ってくるはずはなかった。

 僕はそのススキの株にへなへなと腰を下ろし、額の汗を拭った。

しかし、汗は後から後から首筋を流れた。

(母であってほしい。)僕は心の中で願った。

あたりは静かで、ときおり木々が風に揺らぐ音以外は心臓の鼓動が聞こえるだけだった。

僕はススキをかき分け、二人に見つからないようにさらに菜園に近づいて行った。

作物の棚の間からはまるでぽろぽろと抜け落ちたジグソーパズルのように二人の姿が見えた。

僕が抜け落ちたジグソーパズルの一つひとつのピースを頭の中でつなぎ合わせると、二人の距離があまりにも接近しいることが分かった。

 そして作物の間からは時折、父の腕に絡んでいる細い女性の腕が見えかくれしていた。

 僕は菜園の近くの茂みに身を隠し、二人の話し声を聞こうとした。

 会話の内容ははっきりとしないが、確かに父の声がする。

 そしてそれに受け答えるような女性の声も。

その声は僕の期待とは裏腹にまちがいなく母のものではなかった。

 僕はめまいを感じ、その場にうつむいた。

それは僕が小さかった頃、初めて母に連れられて行った父の職場で感じためまいと同じものだった。

 あれほど家では強い父が、まるで別人のようにぺこぺこと頭を下げ、気弱そうに上司の指示を受けながら仕事をしていたのだ。

 そして、そこにはいつも僕の前で見せている父の姿などみじんもなかった。

 ぼくにとっては世界一の父が・・・・・・・・。

 僕は『今、僕の目の前にいる父は父じゃない。』と心の中で叫んでいた。

僕はその時軽いめまいを感じて母の手をふりほどくと、その場から一目散に逃げ出した。

 なぜか無性に悲しく、後から後から涙がこぼれたのをはっきりと覚えている。

 そして、今のぼくはあの時よりも、もっと激しいめまいを感じている。

(父に裏切られた。)そんな気持ちの中で僕の中にいた父が遠のいていった。

 菜園の中を見え隠れする父は今まで、僕や母が見たことのない父だった。

 僕は激しい嫉妬心と、見てはいけないものを見たような罪の意識の中で、丘を一気に下り、畦道を駆け抜けると家路を急いだ。

乱暴に靴を脱ぎ捨てると、母との会話もそこそこに自分の部屋に入った。

 暫くは呆然と立ちつくしていたが、やがて横になり天井を見上げた。

しかし、いくら自分自身の気持ちを整理しようとしても、気持ちの整理などつかなかった。

やがて夕暮れになり、父はなに食わぬ顔で野菜を籠に入れ戻ってきた。

 母は当たり前にそれを食卓に出したが、僕は野菜を食べる気にはなれなかった。

「どうしたの、今日は野菜を食べないの。」

 何も知らない母が僕に話しかけた。

「べつに。」

 僕は知らん顔をしていた。

 時折、食事をする父を睨んだが、父はいつものとおり平然と食事をしていた。

 そして、その日を境に僕は学校の行き帰りに畦道の前を通ると、必ずあの丘を見つめるようになった。

 あの丘の向こうには僕や母が入り込むことのできない父だけの特別な菜園がある。そして次の休日も父があそこに行くのだと思うと無性に悲しかった。


五、


 夏休みも半ばを過ぎた平日の午後、僕はあの菜園に向かった。

 あたりを伺いながら畦道を歩いた。

 絶対にいるはずのない父がどこからともなく出てきそうで、恐ろしかったからだ。

 丘を一気に登り菜園についた。

 太陽が容赦なく照りつけ、その日差しに負けることなく野菜は力強く育っていた。

 僕は父の拓いた畑に仁王立ちに立っていた。

 足下には見事な町並みが遠くひろがっている。

 よく見ると西側の畑の縁には父のつくった道とは別に、町に続く一本の小道が続いていた。

僕はあの時の香水の香りを思い出し、侵してはいけない父だけの秘密の場所に佇んでいるような気がしてならなかった。

菜園は静かで、まるで時間が止まっているようだった。

 僕は乱暴にトマトをもぐと、畑の隅に腰を下ろした。

遠くかすかに、自動車の警笛が聞こえる。

 トマトを頬張ると生ぬるく、口の中一面に青臭さが広がった。

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