2011年以前の話 認知症に気づいたきっかけ
元々、ヨシコが寅蔵の様子を変だと感じるまでには、かなりの期間があった。
2010年春、かかりつけ医で定期健診中、寅蔵の肺に小さな影がみつかった。
悪性の疑いがあるということで、総合病院を紹介していただき、手術をすることになった。
当時の寅蔵は、自営の塗装業をやっており、一人気ままに、頼まれるまま家屋などの塗装に行っていた。
たった一人でやっているとは言え、ほどほどに仕事はあった。
何と言っても価格が安いのが、一番の魅力だったらしい。通常100万以上かかるような案件でも、60万くらいで引き受けていた、とヨシコは記憶している。
見積もり計算がしっかりできないということと(計算苦手)、足場は丸い木の棒でひとりで組むことができたため、とにかく、安かった。
足場を一人で組んでまた解体できる、というのはこの業界でも今どきはなかなかいないのではないだろうか。傍から見ると、非常に原始的な光景となるのだが、それでも寅蔵にはそれで十分のようだった。
さて、イヤイヤながら行った手術。内視鏡手術ではあったが全身麻酔。
最初から注意されてはいたが、術後、麻酔の影響でか、夜中に不穏な言動が増えた。
どこにいるのか分からない、のは序の口。
部屋の巾木の黒っぽい部分を
「穴が空いてる、子どもが吸い込まれるから近寄らせるな!」
と、けっこう真剣にヨシコに注意したり、夜中に置き出して、うろついたり。
ヨシコは何度か病院から呼び出しを受け、その度に泊りに行った。
しかし、看護師さんがおっしゃるには、高齢者の術後にはあんがい、一時的なせん妄状態がみられることが多いのだそうだ。そして、しばらくすると収まると思いますよ、とありがたい言葉をいただく。
確かに、そんな妄言や不穏な動きも退院後しばらくしたら徐々に収まってきた。
ようやく体調も戻ったようで、仕事に意欲をみせていた五月頃、仕事でトラブルとなる。
しかも、以前からのつき合いである従姉のA宅。
店舗兼二階建て住宅の塗装を(そのうちにお願いね、程度に)頼まれていた寅蔵は、なんと見積もり等の作業をすっぽかし、いきなり足場を持ってA宅に行ってしまった。
半泣き状態のAから連絡をもらい、ヨシコはあわてて現場にかけつける。
なんと、すでに足場が出来あがっていた。しかも、試し塗りらしいペンキの跡もある。
すったもんだの末、足場はそのままで、店舗と住宅部分の塗装をなるべく急いで行うことになった。
ヨシコと、当時失業中のヨシコのダンナとが慣れない養生シートや刷毛を手に、丸木の足場とヘナヘナの梯子を渡り歩き、どうにか作業を手伝い、いちいち作業を見張るAの目線や梅雨に泣かされながらもやっと7月中旬に塗装を済ませることができた。
ようやく塗装が完了してからは寅蔵、トラブルになったという感情だけはしっかりと根付いてしまったようで、
「こりごりだ」
と家で寝転んでいることが増え、ほとんど仕事に出たがらなくなってしまった。
それにつれて、今までも少なくはなかった忘れ物がさらに多くなった。
特に車のキー、財布はほとんど毎日探していた。
眼鏡もよく無くしたが、なければないで字を見ないだけのようだった。元々細かい文字や数字は見ない人種だったので。
思えば、A宅の仕事を(たぶん)勝手に始めてしまったのも、Aが「(いつかまた)塗装お願いね」などとあいまいな言い方をしたせいもあったのだが、寅蔵の判断力がかなり落ちていたせいもあったのかも、と後からヨシコは感じたのだった。
大きな仕事も終わって秋口、あまりにもやる気の減退したようすの寅蔵をみて、ヨシコはふと、テレビで見たチェックを試みてみた。
両手を前に出し、影絵にするような『はと』に手を組むテストだった。
「ねえ、ちょっと手を出してみて」
ヨシコは寅蔵の目の前で、はとを作ってみせる。同じように寅蔵も両手を出した……しかし「はと」に組むのがどうにもできなかった。
数日後、ヨシコはかかりつけ医に電話で問い合わせ、認知症の検査をお願いした。
そして検査の日。
寅蔵の肺の様子を訊きたいと、○○先生が呼んでるから、とウソをついてヨシコは嫌がる寅蔵をどうにかかかりつけ医に連れていった。
いくつかのテストを受ける様子を、ヨシコも脇でみていたが、あれほどまで(ペンキ屋に次いで)農業にも従事していたはずなのに
「畑で取れる野菜を4つ教えて」
と先生に訊かれたとき、かなり考えてから
「まめ」
としか答えられない寅蔵をみて、ああ、やっぱりこれはかなりホンモノだなあ、とヨシコはため息をついたのであった。
脳のCT画像を説明しながら、先生は
「効くか分らないけど……アリセプトという薬を試してみる?」
と尋ねてきた。
○○先生大好きな寅蔵は、先生お勧めならば、とうなずいていた。
何のために飲むかは、本人は多分分っていないようであったが。
気づいたらここまでで1万文字越えてしまいました。まだ続きます。いやーんごめんなさい