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 望月城を立って三日後、千代女は躑躅ヶ崎館を訪れ、信玄の前で頭を下げていた。

「うむ……さすがに長尾だな。千代女、よう調べてくれた」

「いえ、越後の協力者のおかげでございます」

 信玄はそうだなと頷き、書状を丁寧に折りたたむ。

「出陣は六月ぐらいになるだろう。その時はお前も共に動いてもらう」

「はっ」

 千代女は無感情な声で答えるとそのまま立ち上がって、部屋を辞そうとする。

「待て。お前に一つだけ聞きたいことがある」

「はっ。なんなりと」

 千代女は悪寒を感じた。

「お前はまだ若い。養子ではなく、三郎の後、どこかから婿を取るなどは考えぬのか?」

 千代女は一瞬、信玄へ殺意に似た感情を覚えた。千代女の男嫌いを信玄が知る由も無い為、若い千代女に新しい婚姻を進めるのは分かる。しかし、信玄は『婿を取るなど』と言った。それとなく、信玄は自身の側室になれと迫っている。千代女は肌が粟立ち、何とも言えない嫌悪感に襲われた。

「大丈夫か? 顔色が優れぬぞ?」

「結構でございます!」

 信玄が腰を浮かしたのを見て、千代女は思わず叫んだ。控えていた小姓が「無礼な!」と千代女に負けず劣らずの声で叫んで勢い良く立ち上がったが、信玄によって止められた。

「良いのか? 望月の血が徐々に薄れて行くのだぞ」

「構いませぬ。私は旦那様や家臣の者達とも話し合い、決めたことでございます故。旦那様には良くして頂きました。これ以上の幸せを得ることは私には今生ではもうありませぬ」

一瞬、千代女と信玄の間に静寂が走った。外の風が室内によく響く。先に信玄が口を開いた。

「真にそう思うているのか?」

「何と言われようと、これだけは私と旦那様の心中で揺らぎませぬ」

 千代女は信玄の誘いの言葉に対し、ありったけの感情を込めて返答する。偽りの情愛であっても信頼よりも自身を心底驚かせ、ましだと思った男はいないだろう。滅ぼした敵の娘さえも気に入ると側室に迎える信玄のような男のものになるなど死んだ方が良い。

「養子の件はこちらより書状をお送り致します。時を見て……旦那様の目に届かぬように」

千代女は信玄を拒むようにはっきりと言った。信玄は目を見開いていたが、互いにそれ以上、何も言わずに会合を終えた。

 信玄の下を辞した千代女は小姓に呼び止められ、注意を受けた。その後、あてがわれた部屋に戻る。

「顔色が優れない様子。何があった?」 

 我が物顔で部屋で寝そべっていた蓮が声をかけてきた。

「何故いる?」

「殿が心配だと付き添いを命じた」

 蓮は伸びをして体をあちこちに捻る。蓮の様子を見ていると千代女は溜め息しか出てこない。蓮のことは千代女が信頼と婚姻した時に伝えたが、ここは躑躅ヶ崎館である。少しは礼儀と警戒心を持って欲しいと千代女は思った。

「教えては……くれぬか」

 蓮は千代女の表情から内心を読み取ったのだろう。信玄との話の内容は口に出すだけで吐き気がしそうなものであったと。千代女は一つ、大きく頷く。蓮はわざとらしい溜め息を吐いて下を向く。しかし、すぐに顔を上げた。

「されど、一つだけ教えてほしい」

 蓮は人差し指を立てて千代女に近付く。

「越後から帰ってきた時、少し惚けていたところがあっただろう」

「えっ」

 千代女は目を丸くした。千代女自身でも気付かなかったことだ。蓮にそれほどだったのかと問うと彼女ははっきりと頷いてみせた。

「まぁ、私だけだろうから。そこまで気にすることはない」

 蓮は笑ってそう言うが、千代女自身、気が気でなかった。信頼は千代女が最も隠していたいことを悟っていた。もしかすると、気付かれていたかもしれない。敵国から帰ってきた者が気分良さそうにしているところをはたして見逃すだろうか。

 だが、それは無いとすぐに悟る。信頼ならば、すぐに信玄へ書状を送るだろう。そして、千代女は躑躅ヶ崎に到着した時に捕らえられていたはずだ。

「で、越後で何があった? 男嫌いのあなたでも良いと思った人でもいたのか?」

「いない」

「なんだつまらない……じゃあ、何故?」 

 蓮は好奇心に満ちあふれた目を千代女に向けてくる。千代女が望月の為、武田を裏切ることなど有り得ないと察しているようだ。こうなった時の蓮はしつこい。よく知っている千代女は肩をすくめた。 

「誰にも言うな……」

 前置きを入れて、千代女は越後で見た桜の話を簡単に話す。

「そ、そう……」

 話し終えた時、蓮は言葉と身体を震わせていた。不自然な息の吐き方をしている。笑いを堪えているのが丸分かりだ。

「よい。笑いたかったら笑え」

 千代女は赤い顔で蓮を睨む。蓮は笑いの代わりに大きく息を吐くと微笑みながら口を開く。

「良いと思う。人など些細なことで何かに惹かれるものよ」

 千代女は顔をしかめる。桜は散る時こそ華であると武人の象徴のようなものだ。武人はすなわち男を差す。そのようなものに見とれた自身を千代女は恥じた。しかし、望月城へ戻っても蓮に見破られる程度まで惚けていたとは思ってもなかった。

「桜は散り際が綺麗と言うけど、私はそう思わないな」

 蓮は襖を開いて外が見えるようにする。まだ桜の花は少し咲いていて、風に流されて散っている。千代女は外を見ないようにと視線を逸らす。蓮が千代女の方を向いた気もしたが、無視する。

「桜の魅力は咲いている時が一番だと思う。ほら、何と言うか……純潔で、誰にも侵されない領域があるというか……優美な女性? のような……」

 自身なさげに手を回しながら蓮は言う。だが、最後に発した言葉は千代女の心に強い衝撃を与えた。

「花が散るのはどの花も同じ。桜はただ綺麗で人を魅了する力があるから散り際が良いと言われる。だが、理由は花が綺麗に咲いているから。違う?」

 千代女は振り返ってきた蓮に頷く。蓮は子を見る母のような笑みで千代女に近付くと手を千代女の頭に置いた。

「私達はまだ二十。旦那様のように病を得ている訳でもない。少しずつで良いから偏見とか捨てよう。無論、無理に直せとは言わない」 

 最後の言葉は千代女の男に対する偏見のことだろう。気遣いに感謝しながらも千代女は蓮の手を頭から退かせる。さすがに髪を結ってから人、同い年の者に頭を撫でられるのは恥ずかしい。さすがに男嫌いを直すことは不可能だろう。

 千代女の脳裏にあるのは住み慣れていた近江望月の里での闇。下級の位にある家の者は女の了承も得ずに売り払い、地位を確立していた。何度も同じ光景を見てきた千代女は男に対して疑念を抱いた。引きずられ、喚く娘を無表情で見送れるのだろうと。

 そして、千代女が男を嫌う決定的に出来事が起きた。ある時、一人の男は嫌がる娘に向けて「減るものではないだろう?」と言い放った。その時、千代女は一緒にいた蓮の止めがなければその男を殺していただろう。

「思い返すこともしては駄目」

 蓮から強い口調で指摘され、千代女は現実へと戻される。

「何故にそこまで分かる?」

「私とあなたの仲だって言っているでしょうに。もう私の前では何も隠しごとはしないこと」

「……肝に銘じておく」

 千代女は素直に応じると蓮の頭に手を置く。蓮は一瞬驚いて、顔を赤くし、嫌だと言って千代女の手を振り払おうとしたが、意趣返しだと千代女は蓮の頭から手を離さない。その間、千代女は先程の信玄とのことも忘れ、半ば強制的に童心に帰らされて蓮とじゃれ合った。

 


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