ゲーム
俺は、重い気持ちに包まれながら、教室へと向かうため、新館へと続く廊下をゆっくりと進んだ。
ラブレターが直接?勘弁してくれ、間接的に受け取るのも嫌なのに、何でああいう発想に至るのかなぁ…、どういう思考回路なんだろうなぁ…。
苛々しながら、廊下を曲がった時だった。俺は、そこに居てはいけないはずの人物を目にした。
廊下を曲がってすぐ先にある階段を、あの黒い女性が、まるで、俺が来るのを待っていたかのように、コツコツとヒールの音を響かせながら、こちらへ降りて来る。
微笑を浮かべながら、呆然と立ち尽くす俺の目の前に、女は接近してきた。
「何で…。」
俺は、それしか言う事が出来ない。
「何でぇ?何で私が此処に居るのかって事かなぁ…?居るから居るんだけどさぁ…。」
先生?先生なのか?黒いスーツ…でも…。
「あはっ、私、先生じゃあないよぉ?ただ、正秋、貴方の事が心配で心配で…。つい、見に来ちゃったぁっ!でも良かったぁ…。」
ねっとり、ねっとりと、吐息まじりに、耳元でゆっくりと喋り続けながら、ついに目の前までに来た女は、俺の頬をまるで品定めするかのように撫でる。
「相変わらず無能でぇ…。安心して、遊んであげられるぅ…。あははははっ!」
俺は、その俺を煽る言葉にハッとして、頬を触る女の手を叩く。
「無能って何だよ!前も、今日も俺を馬鹿にする事を、一方的に言って、俺になんか恨みでもあるのかよ!?第一、犯罪だろ!勝手に、敷地内に入ってくるとかさ!」
女は、相変わらず笑顔のまま、叩かれた手を自分で撫でながら、俺を見つめる。
「罪を犯してでもぉ、貴方と遊びたいのよぉ…。貴方に伝えたいのよぉ…。貴方に教えてあげたいのよぉ…。貴方が、知りたい事、知らない事、分かりたい事、分からない事、私は全部知ってるのぉ…。すっかり、忘れてたんだけどさぁ…、前に貴方と出会って、あのビクビク怯えてる感じ…。思い出したのよぉ…。貴方が、私を見ても、何とも無かったのは腹立つけどぉ…。仕方ないよねぇ…、無理やりぶっ飛ばされたんだもんねぇ…中途半端な力で、遠い遠いあの日からさぁ…!」
思わずいけない事を言ってしまった時のように、女は口を覆い隠す。
でも、それはうっかりではない、故意だ。俺は、それをはっきりと感じ取る事が出来た。
「遠い…あの日…?俺を馬鹿にし過ぎんのも大概にしろ。」
俺はそう答えたが、心の中では動揺していた。あいつが勝手な事を言っているだけだとわかっていても、心が落ち着かない。
「強がっちゃってぇ…本当は、ずっと今も怖くて怖くて怯え続けてたんでしょぉ?今の貴方がそれを証明してる。顔に出てるよぉ?怖いよねぇ、自分が何者かわからないって…周りの人が教えてくれた事を、藁にも縋る思いで信じ続けてさぁ…。真実を知れば、壊れちゃうものねぇ…。所詮、貴方の信じていたものは虚像でしかないって事…、ねぇ、今しか見れないって、どれくらい辛いのかなぁ?教えてよぉ!」
「う゛る゛さ゛い゛っ゛!!!!」
俺は、怒りの勢いに任せて、気付いたら、女の首を絞めていた。
しかし、女は苦しむような姿すら見せなかった、むしろ俺を見つめるその瞳は…。
「う゛っ!」
俺は激痛に耐え切れず、女の首から手を離した。激しい頭痛と共に、脳裏に突如、着物を着た誰かが鮮明に浮かんだ。俺をゴミだとしか見ていないような瞳、俺はこの人物が誰なのか、今なら…分かる。今目の前にいる、この女だ、容姿、そしてあの瞳…同一人物だ。
「あはっ…、勢いに任せて行動しちゃう所とかさぁ…そのまんま過ぎて嗤っちゃうよねぇ。第一、貴方みたいな、しょっぼい男に、私が殺せるわけなんて無いでしょぉ?その場程度の勢いで、殺られるような女じゃないんだってぇ…。」
でも、誰なんだ?誰なんだ?俺がこいつを分かったとして、知っているのか?少なくとも今の俺は知らない…。
「その痛みってさぁ…。記憶に関連してるんだよぉ…。とっても痛そうで面白い。その痛みを沢山経験すればするほど…思い出せるよぉ…。小さな記憶が積み重なって、完璧な記憶となる…塵も積もれば山となる、ってねぇ…。知りたいんだったら、行動しなきゃ…、分かりたいんだったら、自分からやらなきゃ…。今これが、馬鹿で無能で愚かで可哀想で滑稽で無様な貴方に、与えて上げられるヒント…。かなり、大きいでしょぉ?そうだなぁ…、思い出したら、あそこに来てねぇ?あの時間、あの場所…あははっ!」
女は、まるでゲームの説明をするキャラクターのようだった。
そして、階段をゆっくりと上り始めた。
「ま…て…」
俺の小さな声は、きっとあいつに届いても届かないだろう。
そして、階段の踊り場で足を止めてこう言った。
「人間ってさぁ、過去も踏まえての今だって思わない?」
それは、俺ではない誰かに言っているようにも思えた。
女はそう言うと、再び歩き出し、俺の居る場所からは完全に見えなくなった。
俺に…何で、そこまでして思い出して欲しいんだ…。
女は、どうやってここまで侵入して来たんだろう?かなりのリスクのはずだ、それなりに生徒もいる。もし、俺がこの時間に来なかったら、相当な無駄足…待てよ、この時間に来る事を知っていた奴が一人いる。もしかしたら、岡田が…!?
俺が、俺を知るには、渡された一本の糸を辿るしかない。あの女が俺に言った事は、あながち間違いではない、俺は逃げてきた。過去を知りたいと思いながらも、自分がとんでもない人間だったら、どうしようと。でも、もうわかってしまった。俺は、恐らくとんでもない人間だった。あんな女に、あれだけ言われるんだ…、そういう事なんだろう。なら、もう恐れる事なんてない、怯える事なんてない、クズがクズの本質を知るだけだ。ただ、それだけだ。
遠くで、チャイムが聞こえる。そろそろ運動部の朝練が終わって、何も無い生徒が登校してくる時間だ。きっと、岡田も来るだろう。ゆっくりとしている時間なんて無い。俺は、階段の手すりに頼りながら、一段ずつゆっくりと踏みしめて行った。