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 アイボリーの塗装が、所々剥げた貯水タンクの表面はヒヤリとして、ふくらはぎに冷たい。

 五階建てのビルの一番高い所、貯水タンクの上に、猟銃を肩に立てかけて、アキラはあぐらをかいていた。灯のようなものはまったくない。月が世界を青く映している。遠く、虫の音が聞こえる。

 昼間は暑いが、夜になると、少し冷えるようになってきた。

 ジーンズのハーフパンツにスニーカーを履いているが、ソックスは着けていない。スニーカーの中から脛の内側に細長く窪みが走り、膝の手前まで伸びている。傷痕、手術痕だ。あちこち綿の飛び出した、オレンジ色のダウンジャケットは、一番のお気に入りだ。

「見ろよ。中秋の名月だ」

 タンクの下で、空を見上げて、ライフル銃を提げたゴロウが言った。

 満月だ。

 夜だというのに、濃い影が地面に落ちている。ここからでも、ゴロウの髭もじゃの顔がよく見えた。

 答える代わりに立ち上がり、空を見上げた。

 月が少しだけ近くなった。

「昔は町の灯やスモッグで、これほど綺麗には見えなかった。特に、こんな町中じゃあな。街灯と車のヘッドライト、パチンコ屋のネオン。繁華街なら、一晩中、昼みたいに明るかったもんだ。クラブに入ると、着飾った美女がたくさんいてな。高い酒を注文させられて、バカ高い代金をふんだくられた」

「パチンコ?」

 ゴロウがこっちを見た。

「ああ、ギャンブルだよ。マミヤさんたちが、サイコロ転がして遊んでるだろ?昔は、ギャンブル専用の機械があって、それに金を賭けたんだ」

「へぇ」

 アキラたちは、町中に腐るほどある捨てられたビルの一つを丸ごと住居にして、約百人で暮らしている。こうした集団生活は、かつて『みかど市』と呼ばれたこの町全体で二十数か所あり、ビルを利用したこれらの住居は“ハイブ”と呼ばれていた。

 マミヤというのは、このハイブのリーダーだ。

 アキラは、マミヤとその取り巻きである五十代組が、茶碗の中でサイコロを転がしているところを思い浮かべた。

「覚えてないのか?」

「パンデミックのとき、俺はまだ7歳だったからな。知らないことも、たくさんあるよ」

「きっと、パチンコなんかやらない、真面目なご両親だったんだろうよ」

「ゴロウさんは、金持ちだったんだろ?着飾った美女と高い酒を飲んでいたのかい?」

 ゴロウは笑った。「仕事でな」

「仕事?そりゃあ、羨ましい仕事だな」

「接待って言ってな。仕事の取引先が、ご機嫌取りに連れて行ってくれるんだ。俺は、あんまり好きじゃなかったがね」

 アキラには、よく分からなかったが、深く訊くことはしなかった。こうして昔の話を聞くのは好きだったが、一々質問していたのでは、永久に話が終わらないからだ。

 物々交換が主流の今となっては、『通貨』の概念すらあいまいで、当時は取引の際、それを媒体としていたことは知っていても、『金持ち』がどういったものなのかはピンとこない。ゴロウは“エリート商社マン”というやつだったらしいが、他にどんな種類の金持ちがいたのかも、知らない。

 髭だらけの顔にギョロリとした目玉。見た目に似合わず、ゴロウが優秀なのは、よく知っていた。頭のキレは、ハイブで並ぶ者がいない。リーダーのマミヤも、ゴロウには一目を置いている。ゴロウはまだ四十前で、年長の者を立てて今の立場に甘んじているが、アキラは、真にリーダーに相応しいのはゴロウだと思っていた。

 ゴロウはいつも冷静で、感情的になったところなど、見たことがなかった。争い事を極端に嫌い、喧嘩を吹っ掛けられても、絶対に乗ることはしない。しかし、喧嘩が弱いかと言うと、そうではなく、彼はアキラたち若者に、徒手格闘の技を教えていた。なんでも昔、複数の格闘技を学んでいたのだという。

「こんな技術が、役立つ日が来るとは思わなかったよ」。彼は、そう言って複雑な顔をする。

 ゴロウは屋上を時計回りに歩きながら、ビルの下を覗き込んでいた。アキラも、貯水タンクの上からビルの周囲を見渡した。

 かつては、大きな商業地区だったこの辺りで、この五階建てビルは最も低い建造物だ。三方を大きな道路に囲まれているおかげで見晴らしがよく、敵の接近をいち早く確認できることが、このビルがハイブに選ばれた理由だった。それに、電力の供給が途絶え、エレベーターが動かない今、無駄に大きなビルに住むことは不便でしかない。百人程度の集まりでしかないアキラたちにとっては、このビルでも大き過ぎるくらいだった。

 月の明るい夜は、奴らも動きやすいはずだ。用心しなければならない。

 ハイブを襲う盗賊、“ワスプ”に備えて、男たちは二人組を作り、日替わりで夜通し警備することが義務付けられていた。一階はバリケードによって固められていて、昼間は梯子を使って二階から出入りしているが、夜間は取り外されている。警備は屋上から、ビルに近づく者がいないか見張ることが主だ。ビルの四隅にはサーチライトが設置されており、有事の際には、発電機を起動して周囲を照らせるようにしてあった。


 パンデミック(強い感染力と死亡被害が著しい疾病の世界的大流行)が世界を変えたのは、今から約十年前のことだったとアキラは記憶しているが、原因となった『D13型ウィルス』が現れたのは、それより2年ほど前のことだった。アフリカの、聞いたことも無いような名前の国で大流行し、その様子が世界中で報道された。

 まだ、テレビ局が機能していたその頃、連日ニュースで、白い防護服を着込んだ人たちの作業風景が映された。とはいえ、現地から遠く離れた日本ではまだまだ他人事で、コメンテーターたちが机の上で指を組み、自らの知識がいかに優れているかということを競い合っているだけだった。もうすぐ自分たちにも、その火の粉が降りかかることも知らず、対岸の火事を眺める表情で「これは、他人事ではないですよ」と語った。

 発症後の致死率100%。空気感染し、絶大な感染力を持つウィルス、D13。何より厄介だったのは、感染者の判別が極めて困難であること。しかも、潜伏期間の個人差が大きく、当初は二週間以内と言われていたが、後に感染から三ヶ月後に発病するケースも報じられた。

 ウィルスの侵入を危惧して、空港や国境を封鎖する頃には、既に国内に入っていて、そうなると、もう、手に負えなくなる。

 感染者は、発病しても、すぐにそれとは気づかない。はた目にも、少し顔色が悪いくらいで、どう見ても健常者と変わらない。しかし、病気は確実に進行していて、そのうちに、内臓の働きが衰え、酒に極端に弱くなったり、下痢が続いたりする。最初に現れる自覚症状は、大抵の場合、腎臓機能の低下による血尿で、それが出ると急速に症状が進んでいくと言われていた。やがて感覚器官に障害が現れ、臭いが分からなくなったり、耳が遠くなったりと、まるで人間という機械の何処かにある配電盤のブレーカーを一つ一つ落としていくように、機能が失われていき、末期には、目もほとんど見えなくなる。

 五感の、ほとんど全てを奪われた患者は、外から見ていても、意識があるのか、無いのか判別のしようがない。何も感じない、思わない、真っ暗闇の中で、ふいに諦めたかのように、息を引き取るのであった。

 ウィルスの存在が公表されてから、僅か半年で、アフリカのいくつかの国は、国として機能しなくなった。

 当初、積極的に支援を行っていた先進諸国の保健機関も、これは手に負えないと分かると、次々と撤退を始めた。アフリカ行の飛行機や船が全てストップし、ヨーロッパで、海を渡って避難してきた難民を、軍隊が射殺したという事件が報じられた。

 しかし、ウィルスの絶大な感染力の前では、全てが後手後手で、気付けば、感染は世界中で止めどなく広まっていた。こうなると、途上国よりも、むしろ先進国の方が早く、櫛の歯が欠けるように世界中から国が消えて行った。

 島国であることと、比較的対応が早かったことから、日本はまだ、もった方だった。

 アメリカで感染の収拾がつかなくなった頃、全ての海外便の飛行機や船をストップし、江戸時代以来の鎖国状態に突入する、この際、多くの日本人が海外に取り残されたが、これは必要な犠牲と断じられた。

 連日、昨日は東京、今日は大阪といった風に、感染の疑いを持つ者が見つかったと報道された。数日後、感染はしていなかったと続報が流れ、日本中が安堵に胸を撫で下ろす。

 結局、最後まで感染者の発見が報じられることはなかった。ただ、あるときを境に、あれほど続出していた「感染の疑いを持つ者」が見つからなくなった。パンデミックのニュースが無くなることはなかったが、それも徐々に少なくなり、ご当地の微笑ましい話題が多く取り上げられるようになった。テレビ番組は何故か、映画やドラマの再放送ばかりになった。CMの種類が減り、同じものが、三回以上続けて流れるなんてことも、よくあった。

 インターネットの掲示板や街頭で、既に国内で感染は広まりつつあること、報道規制の敷かれたマスコミを信用してはいけないと声高に言う者もいたが、多くの人たちは、それを信用しなかった。後から考えれば、どう考えてもおかしいことだらけだったが、確かに、当時はほとんどの人が、ウィルスの蔓延を信じなかった。

 残酷な未来から目を逸らしたかったのかもしれない。僅かな希望にすがりたかったのかも知れない。


「アキラ、お前にお客さんだぜ」

 下からゴロウの声がした。

 貯水タンクの梯子を上る気配がして、長い黒髪を後ろで束ねた少女の顔が現れた。

「何しに来たんだよ」と、嬉しい気持ちを押し殺して言う。真意を悟られぬよう、口を尖らせてみせたが、頬が緩むのを押さえられない。「遊んでるんじゃないんだぞ」

 ユイは、アキラの恋人であり、婚約者だ。

 百人という小さな単位で暮らし、他のハイブともほとんど交流がないため、年頃の男女が出会うことは困難だ。特に、このハイブでは十代、二十代の居住者が少なく、女性に至っては、十代後半ではユイ一人、二十代も四人だけであった。

「今日は冷えるからさ。あんたのことだから、どうせ、昼間とおんなじ恰好で見張りしてるだろうと思ってね」

 そう言ってタンクの上に出した左腕には、畳んだ毛布が抱えられていた。

ユイはアキラと同い年だが、まるで姉のように接してくる。

「…ありがと」。ボソリと言う。嬉しいのと、ばつが悪いのが半々だ。

「ほら、座んなさい」と、ユイはアキラを強引に座らせて、毛布をその肩にかけ、自分もちゃっかり潜りこんだ。

「子供たちは?」

 無論、アキラたちの子供ではない。ユイは、ハイブの身よりのない子供の世話を任されている。

「みんな、もう寝たよ。…うぅ、サブい。よく、こんな所で脚出してられるね」

 ユイが着ている上下のえんじ色のジャージ越しに、その体温と柔らかさが伝わってきた。

「見張りは俺がやっとくから、お前らはしばらく、そうしてな」

 ゴロウが気を効かせて言った。

「サンキュー、ゴロちゃん!」とユイ。

「ちぇっ、まったく、妬けるぜ」と、向こうを向いたゴロウが独り言のように言った。

 恋人と毛布に包まって眺めるのは、廃墟になった街並みだ。灯のともらない無数の建物が、月明かりによって青く浮かび上がっている。

 ここに住み始めてもうすぐ五年。最初の頃は食べ物もほとんどなく、ワスプに見つからないことを祈りながら、隠れるようにして暮らしていた。

 道端には片付ける者のない遺体がいくつも転がっていた。ウィルスで死んだ者も、いくらかはあったかもしれないが、多くは人によって殺された者だった。イノシシや野犬に食い荒らされているものも、いくつもあった。

 バリケードを設置し、死体を片付け、井戸を掘り、アスファルトを剥がして、僅かばかりの畑もできた。

 郊外には大きな集落があり、大規模な農園を営んでいる。月に一度、物々交換で食料や武器、発電機などに使う燃料を分けてもらえる。ひとまず、生きていくための、最低条件は整ったと言えた。

 ユイが、アキラの肩に頬を寄せた。

 正面のガラス張りのビルは、下から三階くらいまでガラスが全部割れてしまっている。しかし、石を投げても届かない五階あたりから上は、まだ全部残っていて、そこに大きく満月が映っていた。

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