第28話 乱切り
「おっちゃん、水くださいな~」
「おう。10ズィルバーな」
“ほい”っと、無造作に小銭を宿のカウンターに放る。代わりにこの手に握られたのは、素焼きの小さい壺だ。マグカップよりふた周りほど大きいだろうか、それに8割ほどの水が注がれる。濁りの無い、清浄なる水。これならば、きっとあの果実酢もきっと喜んでドリンクとなってくれるだろう。
その壺……いや、コップに原液を注ぎ、成神に手渡した。
「美味しい?」
「うん、おいしい。間違いないね、これは。出来れば炭酸水で割ってみたい」
「あぁ、確かに、炭酸水もいいかもな。どこかに炭酸冷泉か井戸でもあればいいんだけどな」
「うん。でも、やっぱりふつうのお水でも凄く美味しい」
“ありがとう”、彼女はそう小さくお礼を言い、少し顔を俯かせながらゆっくりとマイフェイバリット果実酒をちびちびと楽しんでいる。ごくごくと元気よく飲むのも、このように大事そうに飲んでくれるのも、買ってきた身としては嬉しい限り。この成神がそうしてくれるのならば、長い旅路で苦労して手に入れた果実酢であっても、きっと俺は報われた気持ちで気分良く成仏出来るだろう。まぁ、あの酒場までさほど遠くない上に、俺はちゃんと生きているが。
なんか、こう、成神久遠を眺めていると、こいつのためなら世界でも滅ぼせそうなそんな気持ちになってしまう。もちろん、根の優しい彼女は、“世界を滅ぼす”なんてことを望むはずも無いが……。
成神の隣に腰をかける。距離は、拳1つ分。多少柔らかいベッド故に、座面は傾きその距離もゼロになる。肩が触れ合う。
「お、スマンスマン」
「ん? いいよ、べつに。それより、これちょっと飲む?」
「そだな、ちょっともらおうかな」
酒場には人がいる、明るい、うるさい。それは悪くない。でも、このふたりだけの静かな空間も、悪くない。むしろ、何よりも失いたくないほど。
この宿には風呂がない、シャワーはあるが既に利用可能な時間も過ぎている。街の公衆浴場も同様。なので、2人は少しばかり汗の匂いをさせている。別に、そんなに嫌ではないが、少し寝て落ち着いた成神はそのことを気にしている様子である。
あれを飲みつつも、彼女は隣り合う俺のベッドに座りなおす。気にしているのだろう。気にはなるけど、少なくとも俺だけはそれに嫌悪感は抱かないのに。
「お前、気にするなよ、汗の匂いなんてさ。臭くないよ、く――」
お馴染みの鉄拳制裁。人体の正中線を突いてくる、打ち所が悪かったら最悪死ぬような所を的確に。ただ、今回はそんなに痛くなかった。
「う、うーん……36点くらい、かな。どうした、調子でもよくないのか? あんまりありがたくないぞ」
「うるさい、うるさいわね、ばかっ」
再びの鉄拳制裁。でもやはり、精彩を欠く。
「ほれほれ、さっさと飲んで、寝るぞ」
明け方の、緑の萌える、朝霞。こんなにも爽やかな空気が、宿の窓の外に広がっている。言い表せない程に美しい借景は、田舎のばあちゃんを思い出す。
朝早くカブトムシを取りに行くんだ。朝露でズボンの裾が濡れるんだけど、それもお構いなしだった。それを思い起こしたら、少しばかりホームシックになってしまう。それでもこの“空気”の魅力で俺は虜であることを免れないでいる。それでもいい、というより、それでいい。
こんな感じの、なんて言ったっけ、フィトンチッドかな。この空気を瓶付けしたら、たぶん1瓶500円くらいの値段をつけても問題はない、そんな感じがする。まぁ、俺は絶対に買わないけど、高いもん。それに、食べられないしね。
「朝だよ! 起きて! ピピピピピッ! 朝だよ! 起きて! ピピピピピッ! 朝だ――」
「うッッさいわね! もう!! 目覚まし時計ごっこやめ! 殴っていい!?」
「おう、こいよ! こいこい! 今すぐこい! エブリタイム・バッチコーイ!」
「はぁ……。もう……ふふっ」
微笑の含まれる呆れ顔をする、成神。その呆れ顔を眺めていたいけれど、俺の視線に気が付くと彼女はすぐに顔を伏せる。“いいだろ、減るもんじゃあるまいし”と思うのだけど、その仕草もちょっと面白くて、嫌いじゃない。
「ちょっと散歩行こう~。そんでもって、酒場で飯食おう~! お腹空いた~」
「うん、いいね」
朝食を併設酒場で済ませ、家路に着く。
“さぁ、ちょっと休もう”と家の戸を開けると、安息を許さない騒がしさが待っていた。塩見リコ、雨飾千晴、芦尾志月、この3人が勝手に上がって談笑をしていた。
「おっ。おかえり~。朝帰りかぁ、一体2人は何をしていたんでしょうねぇ。詳しい話は私たちが和人の作った朝食を食べた後で聞かせていただきましょう」
この塩見リコ、いまだに学校新聞の記者魂が抜けずにいるようだ。
「っておい! 俺が作ることは決定事項!? いや、いいけどさぁ……もぉおお」
薪はその身体をパチパチと、炎は燃えて揺らぐ。少しばかりの煙を立てて、鍋を溢れんばかりに沸き立たせる。ぐつぐつとしている鍋へ肉を叩きいれる。これぞ男の料理、といった感じで、大雑把な所を指摘されると思ったが、すぐ後ろのテーブルで彼女たち4人は談笑に夢中だった。誰か1人くらいは手伝って欲しいと思った瞬間、雨飾千晴1人が唐突に立ち上がり調理台へと手伝いに来た。
「和人くん、手伝うよ。じつは、ぼく、料理得意なんだよう」
「マジか。それじゃーねぇ、えっと、そこの野菜一口大に切って鍋に全部入れといて」
「分かったんだよ~」
リズミカルに乱切りに。ニンジンはその姿を植物から素材へと変化を見せる。めちゃくちゃに切ってるなぁ、と感じたけれど、その実、それぞれの重さが同程度になるように切られていた。まぁ、そこまで厳密に分割しなくてもよいのだけれど、この包丁捌きは信用できる包丁捌きではあった。




