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ニャンコとワンコ  作者: とてとて
第1幕 幽冥ノ詩
9/60

=ΦωΦ= 度入り済み Uo・ェ・oU

「えう、どうしてっすか」

「知るか」


 呆然としたマーシャに返すハインの声は冷たかった。

 退屈に耐えきれなくなったマーシャがあの変人を無理やり帰らせた日の翌日、ハインはマーシャに伴われる形である場所へと来ていた。

 劇場跡地。

 柵で囲われた空き地と、芸術的な落書きの目立つ――ニャンコが書かれているところが評価が高い――立て看板のあるそこに、マーシャが訪れたという劇場はない。がらんとしたそこに、昨日今日何かが建っていたという痕跡はなかった。


「でもここにあったんすよ! マーシャ確かに中に入ったっすもん!」

 ムキになるマーシャの頭を軽く叩く。優しくではない。普通にだ。

「狐に化かされたんだな」

「コンコンもワンコ系っすけどワンコじゃないっすよ!」

 反応する箇所が違うような気がしないでもないが、そんなことはいつものことだ。いちいちハインも指摘したりはしない。

「お前の眼球、度が入りすぎてぼやけてたんじゃないのか?」

「マーシャ確かに中に入ったっすもん! ちゃんと舞台にも上がったっすもん!」

「ナイト劇場で合ってるんだよな?」

「そ、うっす、けど……」

 尻切れる返事にハインがとった行動は、勝ち誇った表情でマーシャを見下ろすことだった。

 人を散々方向音痴だの迷子のお兄さんなどと罵ってくれた恨みは、一夜明けた程度では晴れるはずがない。悔しそうに歯噛みするマーシャを、ハインは勝者の特権でせせら笑った。

「あ! で、でも! このビラ間違ってたんすよ!」

 慌てたようにポケットから取り出された、くしゃくしゃに丸められたビラにいちべつを向ける。


 ここへ来る前にも聞いたが、ビラに載せられていた公演日は五年前のものだったらしい。目の前にあった劇場が閉鎖したのも五年前だ。

 これを偶然の一致と見るのは愚かに過ぎる。

 考えられる可能性としては、あの劇団員による悪戯が最有力。次点で、ふたりして狐に化かされたか。

 どのみち、劇場が存在しないことだけは確かな事実だった。

「マーシャ見たんすよ」

 往生際の悪いマーシャの恨みがましい視線が劇場跡地に向けられる。

 跡地は跡地。いくら睨み付けたとしても、そこに劇場が建つことは、当然ながらあるはずがなかった。


「マーシャ? 何してるの?」

 横手から声がかかる。

 視線を転じれば、こちらへ向かって歩いてくる雌豚の姿があった。

 なぜ呼びかけに自分が含まれていないのか、問い詰めたらまた愉快な反応を示してくれそうな予感にゾクゾクするではないか。雌豚は決してハインと目を合わせようとはしなかったが。

「自宅待機のお姉さん」

「自警団のマリよ。待機はしてないわ」

 いつになく沈んだマーシャの声に、雌豚の訝しげな目線が掠めるように一瞬だけハインに向けられる。

 悪いことが起きていたらまずハインを疑うその姿勢はなかなか悪くない。後でまた泣いてもらおうとハインは決めた。やつれる程度で抑えてやるのがベストだろう。


「劇場がないんす」

「……劇場?」

 雌豚の怪訝な表情がさらに濃くなる。

「マーシャ、ここの劇場に昨日入ったんすよ。なのに今日来たらなかったんす」

 指し示されたくしゃくしゃのビラに目線を落とし、そこで雌豚は驚いたように目を見開いた。

「それ、どこで手に入れたの?」

「犯人のお兄さんがくれたっすよ」

「犯人っ!? 通り魔の犯人がもうわかったの!?」

「へう」

 突然身を乗り出してきた雌豚に、驚いたマーシャの体が横に傾く。こちらへ向かってきたので、片手で頭をつかんで支えてやった。

 小さく痛いと聞こえたが、こちとら親切心でやってやっていることなのだから文句を言われる筋合いはない。むしろ感涙に咽び泣くくらいしてもいいと思う。

 ギチギチと力を込めるハインと、ハインの手首をつかんで暴れるマーシャとの力比べに、しかし雌豚のほうは頓着せずにさらに身を乗り出してきた。

「誰? 誰なの犯人は? どこにいるの?」

「うるせぇな。誰も通り魔の話なんかしてねぇだろ」

 不機嫌に低くなった声で告げても雌豚は怯まなかった。興奮から上気させた顔でハインにまで詰め寄ってくる。

 鬱陶しいことこの上ない。

 決めた。やつれる以上の目に遭わせようと。


「犯人のお兄さんはこの劇場の人っすよ、たぶん。でも通り魔とは関係な――」

「ナイト劇場は五年前に取り壊されてるわ。関係者がいるわけないじゃない。そいつが犯人なのね? どこのだるぇ!?」

 振り下ろした拳骨が、雌豚の脳天を容赦なく叩き潰した。いや、潰してまではいないが、多少へこんだような気がする。

 頭頂部を押さえてうずくまる雌豚に、さらに追撃にとかかと落としをかます。雌豚が石畳に沈んだ。

「行くぞマーシャ」

「はーいっす」

 踵を返すハインに合わせてマーシャも回れ右をする。

 話の通じない輩はまったくもって迷惑だ。

「ま、待って……」

「いくら払う?」

「ね……猫缶一ヶ月」

 足を止める。

 振り返れば涙目の雌豚がいた。やはりこの雌豚はこうでなくてはいけない。イキイキした雌豚ほど気味の悪い生き物はいない。

 マーシャからくしゃくしゃのビラを奪い取ると、それを丸めて雌豚へと投げて寄こした。決して当てる気はなかったのに、奇跡的に運の悪い雌豚は可哀想にも額にそれを受けて、さらに瞳の湿気を増した。


「そのビラはなんだ?」

「こ、これは、劇団ラビリンスの、ラスト公演になるはずだったものよ」

「ラスト公演?」

「五年前に劇場の取り壊しが決まったんだけど、劇団ラビリンスだけがそれに最後まで反対し続けてね」

 雌豚の広げたビラには確かにその名がプリントされている。隅のほうに小さく。

「その劇団が劇場取り壊しの当日に公演しようとしていたのが、この『狂王子』だったの」

「だった、てことは失敗に終わったわけか」

「なんかかわいそうっすね」

 見たこともない集団に同情する気はさらさらないが、無念だったろうと想像することはできる。

 どんなに抗ったところで覆せない決定というものがある。ましてや規模の小さな一組織。劇場の決定――あるいは領主、国の決定――に反対したところで揺らぐはずがない。

 が――

「いえ……」

 雌豚の反応を見るに、話はハインが想像するほど簡単なものではないらしい。


「劇団ラビリンスは劇場取り壊しの一週間ほど前に、全員練習中の事故で亡くなっているのよ」


 渋面になるのが自分でわかった。

 やばい。また厄介事が意図せず関わってきている。

「あくまで邪推だけど、彼らは消されたんじゃないかって」

「どこの誰に?」

「………………領主様だよ」

 頭を抱えたくなった。

 これはもう厄介とか厄介じゃないとか、もはやそういうレベルの話ではない。一番関わってはいけない部類の話だ。

「えう? じゃあ、これをくれたお兄さんは誰だったんすか? マーシャが見た劇場はなんだったんすか?」

「お前がバカだから狐に化かされたんだよ。そういうことにしとけ」

「むぬ?」

「おい雌豚、俺らはこの仕事を降りる。悪いが他を当たってくれ」

「え」

 マーシャの腕をつかんで今度こそ踵を返す。話の展開についていけていないマーシャではあったが、腕を引かれて歩くことに抵抗はしなかった。こういうときにマーシャは楽でいい。

 後ろから慌てた制止の声が追ってきたが、ハインはそれを振り切って通りを進んだ。


 冗談ではない。

 発現者による通り魔だけならば良かった。ハインひとりが割を食うだろうが、それで寝食の保証がされるのならば安いものだ。

 だがどうだ。

 安い仕事で終われるはずだった件に旅団アーグルトンが絡み、そこの団長である変人にはなぜか付きまとわれ、おまけに最初に接触したこの街の住人が実は五年前に亡くなっていた人物かもしれないときた。もしかしたらこの先もさらなる厄介事がこちらの意志を無視して降りかかるかもしれない。

 危険だ。この街はいろいろと。

 予定は大幅に狂うものの、さっさとこの街を発ったほうがいい。


『――……君はどこまで逃げ続けるつもり?』


 頭をよぎった声がハインの足を止めた。背中にマーシャがぶつかる衝撃を感じながら奥歯を噛む。

(くそっ! くそっ! くそっ!)

 沸き起こる憤りに任せて壁を殴りつける。石造りの壁はそれで崩れるわけでもなく、ただハインの拳にジワリとした痺れを返すだけだった。

 どいつもこいつも気に入らない。何もかもが腹立たしい。


 だがそんなハインの内心の憤りなどお構いなしに発言するのが、マーシャという名のバカ犬の特徴である。

「お兄さん、あれなんすかね?」

「あ?」

 指し示されたマーシャの指の先を辿り、そこにあるものがくだらなかったらとりあえず脇腹を攻めよう。セクハラギリギリ――とハインは思っているが世間一般から見れば普通にセクハラだ――なことを考えつつ、ハインは面倒くさそうに視線を移動させた。

 そして固まった。

「なんだあれ」

 思わず呻く。


 視線の先には人がいた。恐らく、人。

 両腕を力なくだらりと垂らし、丸められた背中を右にゆらり左にゆらりと揺らしながら、ずるりずるりと歩く。足先まで伸ばされたくすんだ灰色の髪はそれの顔を覆い隠し、一切表情を伺うことができなかった。距離があるにしても、男なのか女なのかを判別することはできそうにない。

 ボロ布をまとったかのような粗末な装束もまた、それの不気味さを演出する一助になっていた。そんな演出は誰も望んでいないというのに。

 まさにホラー。迫真の演技だと褒める気にはなれないが。

 横を見れば、普段は無意味に明るいバカ面のマーシャの顔も強張っていた。怖いもの知らずのマーシャではあったが、唯一ホラー免疫だけは低い。そこだけは年相応の少女らしかった。

 視線を戻す。

 どうしたものか。

 呪われているとしか思えない動きで近づいてくるホラーな物体との距離はまだある。回れ右をして駆けだせば余裕で逃げることができるだろう。ホラー物体が予想外の動きをしなければ。

 というかだ。あれはいったいなんだ。

 もしかしたらハインとマーシャが知らないだけで、ああいうスタイルで散歩をするのがこの街の流儀なのかもしれない。最近の流行りでもいい。体を張った渾身の変質者という可能性も捨てきれない。


「ひぅっ!」

 隣でマーシャが小さな悲鳴を上げた。

 先を越された。ハインも悲鳴を上げたかったが、こういうものは早い者勝ちだ。

 足を止め、のそりと顔を上げたホラー物体の様子に、驚くなと言うほうが無茶である。髪の毛のせいで顔はまったく見えなかったが。

 悲鳴を上げる権利はおとなしくマーシャに差し出したものの、だからと言ってハインがそれに怖がっていないということでもない。今も全力で怖がっている。

 足下の姐さんだけが泰然自若とした姿勢を崩さなかった。

 さすが姐さん。素敵すぎる。

 場合が場合でなければ、姐さんの前に跪いて感涙にむせび泣いていただろう。姐さんへの賛美を貧相な言葉で飾り立てる努力を惜しまなかったはずだ。


「ひぎゃあぁぁぁぁあぁぁぁ!」

「うおぉおぅぉぉぉ!?」


 誰だ、悲鳴を上げる権利をマーシャに譲ると言ったのは。

 悲鳴を上げて後退るハインの腕に、涙目のマーシャが縋り付いてくる。恐怖による混乱で力加減にまで意識が回らないのか、割と強く抱え込まれている。結構痛い。

 が、むしろそれはプラスに働いたのかもしれない。

 ホラー物体がいきなり真っ二つに裂ける瞬間を目の当たりにしたのだ。そんな非現実的な光景を見せつけられて、現実逃避で昏倒しなかったのは、その痛みがあったからこそだ。というか全力で気絶したかった。させてくれ。

 ホラー物体がずるりと前に出る。

 頭頂部から股にかけて縦半分に裂けた体の中から。

 グロテスクな色合いの粘液が糸を引く。まだ高い位置にある太陽の光を受けて、よりグロテスクな色に染まる様は、見ているだけで胃から何かが込み上げてきそうだった。具体的に言えば朝食べたチップスだが。いや、さすがにもう消化しているか。

 毛先から滴り落ちる粘液が鼻につく臭気を漂わせた。


「なんすか?! いったいなんなんすか!?」

 そんなことを訊かれても、ハインが答えを持っているはずがない。

 あえて答えてやれるとしたら、変質者、だろうか。こんなハイレベルな変質者は今まで見たことはないが。

「一皮剥けて成長したってことじゃねぇのか?」

「物理的に皮を剥かなくても人は成長できるっすよ!」

 マーシャのくせになかなかうまいことを言ってくる。

 べちゃり。

 継ぐはずだった言葉は、そんな音によって遮られた。

 音の発生源は言うまでもない。ホラー物体だ。恐ろしく遅い足取りではあるが、ホラー物体が足を前に出すたびにそんな足音がこちらへ届いてくる。

 ハインもマーシャもゆっくりと後退った。

 べちゃり。

 ホラー物体が一歩進む。ハインとマーシャが一歩下がる。

 べちゃり。

 ホラー物体が転んだ。

「…………お兄さん」

「俺に振るな」

 どこか悲しそうな声を出すマーシャの額を八つ当たり気味に小突いておく。

 なんというか、実に反応に困るホラー物体――いや、なんとなく恐怖が少し薄れたのでホラー紛いと名付けよう――である。このまま回れ右をして帰ってもいいのだろうか。判断に迷うところである。


 が、そんな迷いは持つべきではなかった。


「「ぎゃーーーーーーーー!」」


 ふたりの悲鳴が唱和する。

 転倒していたはずのホラー紛い、もとい、ホラー兵器が地面を恐るべき速さで這い寄ってきた。思わずマーシャを突き飛ばして回避行動をとってしまったハインを責められる者などいまい。いていいはずがない。いたらちょっとこっちに来て変わって欲しい。変われ今すぐ。誰でもいいから。

 ホラー兵器が這い抜けていった道には、糸を引く粘液が轍のように残されていた。

 顔を上げる。道を挟んだ向こう側にいたマーシャ――どうやら突き飛ばしたおかげでホラー兵器に轢かれずに済んだらしい――の瞳に過剰な水分が集まっているのが見える。ふるふると小さく震えているのは、これから起きる大爆発の予兆だ。

 そろそろと片手を上げる。それは制止の合図のつもりだったのだが、マーシャにはどうやら手招きに見えたらしい。ものすごい勢いで駆け寄ってきた。

「お゛に゛い゛さ゛ぁ゛ん゛!」

 あり得ない発音を駆使して縋り付いてくるマーシャの頭をわしゃわしゃと撫で繰り回す。

 ハインには見える。足の間に尻尾を丸めて挟んでいる小型犬の姿が。


 それはともかくとして。

 縋ってくるマーシャはそのままに視線を転じる。ホラー兵器が這い抜けていった先に。

「ぉ……」

 抜けた息が無意味な母音を発する。

 ホラー兵器はまだいた。這い抜けてなどいなかった。

 バネが跳ねるようにして起き上がったホラー兵器がこちらを向く。膝の役割を完全に無視した動きに恐怖を感じていいのか、ねっとりとまとわりつくような視線に息を呑めばいいのか。

 無言で、マーシャを肩に担ぎあげる。

 べちゃり。

 ホラー兵器が先ほどの再現をするかのように倒れた。


「もう勘弁してくれーーーーーーーーーー!!」


 ハインは後ろを振り返らなかった。


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