=ΦωΦ= 努力してまで変人とは仲良くなりたくない Uo・ェ・oU
「どうなってんだ」
その悪態はいったい何に対するものだったのか。
駆けていた足を止めて、ハインは肩で大きく息を吐いた。
(くそっ)
今さらながらむくむくと怒りが湧いてくる。
あの男はいったい何が言いたかったのだろうか。何もかも見透かしたような顔をして、意味のわからない戯言を垂れ流して、ちくちくとこちらを刺激しながらこちらの反応を楽しんでいる節もあった。
気に食わない。
そもそも解せないのが、ハインの名前を知っていることだ。しかもフルネームときたらもはや笑うしかない。
(六年前から一度も名乗ったことはなかったはずなのに)
疑問は尽きないが、考えたところで答えが出ないこともわかっている。
ハインはかぶりを振って辺りを見渡した。
つまらない街並みだけが広がっている。面白味はどこにもない。
そしてこれだけ街中を走り回ったというのに、劇場とやらが一向に見つからなかった。それなりに大きな施設だと思うのだが、それらしいものがどこにもない。
さらに不思議なことに、街の住人に尋ねても腑に落ちないことしか言わないのだ。
(五年前につぶれただと?)
公演があるとビラを配られたのは昨日だ。内容はいちいち覚えていないが、おかしなところはなかった。
まさか幻だったとでも言うのか。
バカらしい。
だが現実として、街のどこにも劇場はない。それが物語っているのではないか?
「くそっ、どうなってやがる」
苛立ちから壁を蹴る。
どこで間違えた。どこで選択を誤った。
(バカ犬……)
額に当てていた拳を離す。
姐さんの呼び声がハインの、後ろ向きに沈下しそうになっていた意識を浮上させた。
「……姐さん」
応えるように姐さんが鳴く。
今一度、ハインはかぶりを振った。
「あのヤロウのいい加減なでまかせかもしれない」
ハインが引くぐらいおかしな言動をする男だったのだ、その可能性は高い。
身軽な身のこなしで肩に乗ってきた姐さんにうなずきを返し、ハインは再び駆け出すべく踵を返した。
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結論から言うと、マーシャは無事だった。
あっけらかんとした間抜け面を晒して、帰ってきたハインに呑気な挨拶をするくらい何事もなかった。
駆け寄るハインに逆にきょとんとするほどだ。
「マーシャ書き置きしたじゃないっすか」
そう言われてしまえばハインに継ぐ言葉はなくなってしまう。できたことと言えば、八つ当たりにマーシャの頭を叩くことだけだった。
謂れのない暴力に当然マーシャは怒ったが、このマーシャというバカ犬は怒りが継続しないことに定評がある。チップス――あの雌豚がまた差し入れで持ってきたらしい――を口に詰め込んでやったらおとなしくなった。
が、問題はそこではない。
「なんでいるんだよ」
陰険に唸る。
部屋にいたのはマーシャだけではなかった。
「ちょっと悪戯心で脅かしたら問答無用で連行されちゃって」
申し訳なさそうにしながらも、困惑した風に頭を下げたのは、あのビラを配っていた劇団員だった。手の中でのっぺりした仮面を手持ち無沙汰に弄びながら、時間を気にするようにチラチラと時計に目をやっている。
なんでも、練習中に劇場にやってきたマーシャをちょっと驚かしたら、たいそう立腹されたそうだ。
マーシャらしいといえばマーシャらしい。
「僕はその後が気になってね」
そしてもうひとり。
忌々しく睨みつけてやっても、そいつは少しも動じなかった。
「お兄さんの知り合いっすか?」
「違ぇよ」
尋ねてくるマーシャに苦々しく否定を返す。
こんな訳のわからない変人と知り合いになった覚えはない。頼まれてもなりたくない。
ハインの態度に不思議そうに瞬くマーシャとは対照的に、そいつは楽しそうに笑うだけだった。本当にいけすかない。
だが同時に目的がわからない。
あんな冗談を言って、そいつにいったいなんの得がある。
「どうしたっすか?」
相変わらずバカ面のマーシャを見下ろす。
「お前、あの変人と何話した?」
考えられるとしたら、これにハイン抜きで会うため。ハインがいては不都合な話をするため。
いまいち想像できないが、変人の考えることなどハインにわかるはずがない。
「ワンコのカッコかわいさしか話してないっすよ?」
「バカかお前。吠えるしか能のないワンコがカッコイイはずもカワイイはずもないだろ」
「ニャンコよりはずっとカッコイイしかわいいっすよ」
伸ばした手をマーシャは慣れた動きで避けた。
無言で睨み合う。譲れない戦いがここにあった。
「僕は犬のほうが好きかな」
普段ならば誰も割って入ってこない争いに、口を挟んできたのは変人だった。
「はん、てめぇみたいな変人にゃ、ニャンコの素晴らしさがわかんねぇだろうな」
通常なら噛み付く発言でも、そいつの発した言葉ならば歓迎できてしまうハインがいる。これを同志にはしたくない。
そいつは激しく心外とばかりに、わざとらしく肩をすくめた。
「僕はただ、君と友人になりたいだけなのに」
「絶対ぇやだ。帰れイモムシ」
「い、いもむし?」
上擦った声がそいつから漏れる。初めてそいつが示した素の反応だった。どうやら予想外の罵倒内容だったようだ。
それを見れただけでハインの気分が少し晴れた。
ふふんと鼻を鳴らす。
「犬も猫もかわいいと思うけどな」
ぽつりとこぼされた言葉は、ハインもマーシャも聞き流せるものではなかった。
床を踏み抜く勢いで部屋の奥へと駆けこんでいったマーシャの動きに合わせてハインも弓なりに体を反らす。
「お兄さん!」
「任せろ!」
ベッドの上に転がっていた枕がトスされる。照準を合わせて、ハインはスマッシュを決めた。
「わふっ!」
吸い込まれるようにして、枕は劇団員の男の顔面に命中して動きを止めた。
戻ってきたマーシャとハイタッチ。前髪をかき上げて、自分の中で最高の爽やかさでもってハインは笑った。マーシャも満足そうに笑っている。
「正義は果たされた」
「いい仕事したっすね」
「なんで?」
鼓膜を揺らす疑問には答えてやる気はさらさらない。
ニャンコにもワンコにも尻尾を振る不埒なクソ野郎には当然の報いだ。ニャンコならニャンコ、ワンコならワンコ。そこはちゃんと線引きしておいてもらわなければ困る。人間の風上にも置けない。
「それよりおいバカ犬」
「バカじゃないっすけどなんすか?」
「お前どこ行ってたんだ?」
忘れるところだった。これは聞いておかなければならない。
街中を探し回った愚痴をぶつける前に投げた問いに、しかしマーシャはきょとんとした顔を見せただけだった。絵に描いたような見事なバカ面だ。
「犯人のお兄さんのところって、さっきも言ったじゃないっすか」
「だからどこだよ」
「劇場っすよ?」
「あ?」
眉間に寄ったしわが濃さを増す。
何を言っているのだろうかこのバカ犬は。
呆れたようにマーシャを見下ろしていたら、なぜかにんまりとした笑みを浮かべられた。
「お兄さ~ん? もしかして~? 迷ったんすか~?」
猫撫で声――バカ犬のくせに――でぬかすマーシャに、盛大に顔の筋肉が痙攣した。今、ハインはマーシャに思いっきり、いや、おもくそバカにされている。許しがたい屈辱である。
手を伸ばす前に距離を取ったマーシャが、嬉しそうに目をキラキラさせてこちらを指さしてきた。
「お兄さんの方向音痴ー」
音を立てて額に青筋が立った。それはもう盛大に。
だがしかし、ハインもおとなだ。この程度で怒り出すなど、そんな大人げない。
「てめぇ!」
大人げなかった。
胸を張って言おう。大人げないおとなですと。おとなだからと我慢するとか、子どもを甘やかすとか、そんな選択肢は端からハインの中にはない。
世間体など気にしてなるものか。
批判したければすればいい。
人間としての軸はぶれまくっていることがハインの自慢である。
「ニャンコはすぐに迷子になるっすからな。ワンコのおまわりさんが必要っすか?」
「っざけんな! 一緒になってワンワン鳴くしかできねぇ無能なワンコが偉そうにしてんじゃねぇ!」
「違うっす! あれはちゃんと説明できないニャンコに困り果てただけっすもん! ワンコ賢いっすもん!」
鼻で笑う。ふくれっ面をしてマーシャが地団駄を踏んだ。
そこで振り返る。
「お前ら帰れ」
多くは言わない。望まない。ただ帰れ。
ハインが要求するのはそれだけだ。
「は、はぁ……」
劇団員のほうは素直に従って立ち上がるが、気持ち悪い意味不明男のほうは立ち上がる気配を見せなかった。ハインが一番帰って欲しいのはこちらだというのに。
マーシャに見送られて部屋を出ていく劇団員は無視して、そいつを無言で睨む。
ふっとそいつの相好が崩れた。
「気に食わない?」
「わかってんなら俺の前に現れんじゃねぇよ」
空気が険悪になっていくのがわかった。
その空気を打ち破るように、そいつは立ち上がる。帰ってくれるのかと思いきや、両腕を開くそいつ特有のスイッチを入れてそいつは口上を始めた。
「聞こえるかい? 彼らの奏でる調べが」
頭を抱えたくなるのを我慢する努力は放棄した。
「あのお兄さん、頭おかしいっすな」
頭を抱えてしゃがみ込むハインの横に座って、マーシャはマーシャなりにそいつの変人性をキャッチしたらしい。マーシャが変と評価を下すのだから相当変だ。
「僕は聴きたいんだ。何よりも美しく、何よりも壮大で、何よりも蠱惑的な、幻想の詩を」
ひとり舞台に酔いしれる演者が、聴衆を無視して繰り広げる独りよがりの大演説。今のそいつを表現するとしたら、それに尽きた。
マーシャと揃って体育座りをするハインが、勝手に指名された観客だ。
言っている内容はさっぱりわからないし、理解させようという気概はそいつから一切感じられない。そいつはただ、思ったことを思ったように思ったタイミングで垂れ流すだけ。
傍迷惑以外の何物でもない。
それだけに、そいつの目的が強く気になった。
ただの変人で終わらないことをハインは知っている。何もかもを見透かそうとする眼差しを覚えている。
(旅団アーグルトン。その団長サイレント)
記憶の片隅に放置されていた情報を引っ張り出す。
隣で飽きたマーシャが姐さんにちょっかいをかけているのが気になるが、まだ許容範囲だ。おとなの対応をしている姐さんの素晴らしさに尊敬の念を強くする。
黒く艶やかな乱れのない毛並みが、無粋な言葉で飾り立てなくても姐さんの高貴さを語りつくしているかのよう。触れたら熱いのだろうか、冷たいのだろうか。もしかしたら触れた瞬間に世界の果てへと飲み込まれてしまうかもしれない。黒でありながら、黒という一語では語り尽くせない鮮やかな黒。それはさながら原初の色。
やはり姐さんは手の届かない遥か天上から舞い降りた美の最高峰。
うっとりするハインの視線すら、姐さんを穢してしまうかもしれない。悶えるようにハインは瞼の裏に姐さんの姿を覆い隠した。
それはともかくとして。
旅団アーグルトンは拠点を持たない放浪の組織だ。規模としては大きくはなく、知名度としてもたいしたことはない。
ただ流れ、流れ着いた先で彼らの掲げる“正義”を執行する。法に依らない正義は、時に過激と言わざるを得ない。だが対象が犯罪者となると、容認せざるを得ないのが今の世界のあり方だ。
発現者による犯罪は発現者が裁くべし。それが世界の定めたルールだった。
そして旅団アーグルトンに所属する団員は例外なく発現者。団長サイレントもその例に漏れない。
どんな能力を有しているのかは知らないが、発現者を甘く見ていると痛い目にしか遭わない。下手に刺激しようものなら、望まない諍いを起こすこともあり得た。
だからハインもこの迷惑な変人に強く言うことができないでいるのだ。そうでなかったらとっくに摘み出している。
まったく困った世の中である。
ハインのように、姐さんに従僕することを無常の喜びとする世の中に早くなればいい。
いや、姐さんはハインだけの姐さんだからそれも困る。姐さんを頂点に頂きつつも、姐さん以外のニャンコに尽くすニャンコ奴隷にあふれた世の中になればいい。そのためにニャンダー教を一刻も早く広めなくてはならない。
そうだ、ニャンダー教だ。
ニャンコ奴隷たるハインの第一使命はそれではないか。
何をこんなところで変人に絡まれて膝を抱えているのだ。そんなヒマがあるとでも思っているのか。
「世のニャンコに幸あれ!」
立ち上がり様に声を張り上げる。
変人の口上が止まっていた。ついでに動きも。マーシャは姐さんに幸せニャンコパンチをされて犬歯を剥き出しているが、これは通常通りなので気にすることはない。というか羨ましい、変わって欲しい。
「バカ犬てめぇそこ変われ!」
肩口を蹴ると、抵抗もなくこてんと転がるマーシャの体。が、油断していたら足を噛まれた。
「いってぇ! こら、てめ、バカ犬!」
「ほふうふぁんふぉふぁふぁ!」
「誰がバカだバカ犬てめぇ!」
容赦なく歯を立ててくるマーシャの頭をつかんで引きはがす。足――脛の辺りだ――にはくっきりと歯型が残っていた。どれだけ強い力で噛んだんだこのバカ犬は。
「世界に愛されるのはワンコっすよ! ニャンコは黙ってるっす!」
「聞ーきー捨ーてーならねぇな! ああ?!」
「ワンコこそカッコかわいいの王さま!」
「ニャンコこそこの世の美の頂!」
振り下ろした頭突きがマーシャの額に突き刺さる。
あう、と呻いてたたらを踏んだマーシャの足がハインの足を踏み抜く。
ぐぎ、ともらしたハインのチョップがマーシャの額に追撃をかけた。
後はもう通常業務と言ってもいい。ふたりして四つ足になって、威嚇のし合いの始まりである。
そしてあわよくば、この状況についていけなくなった変人が静かに退場してくれれば言うことはない。
打算まみれの戯れに、しかし変人はハインの予想の斜め上を独走した。
「それが君たちの“正義”?」
瞬間的に警戒心が完全な敵意に変わった。マーシャがざっと顔色を青くさせて怯えるくらい。
すぐに冷静にはなったものの、変人に向ける眼差しは温度をマイナスにしてしまっている。これを常温に戻すことは困難だろうと自分でもわかった。
「おい、他人の正義は本人が語るまで探らないのが常識だろ」
「暗黙の了解に強制力はないよ」
澄ました顔で言うそいつに、ハインの中の感情はますます怒気を帯びる。
わざと煽るようなことを言っているのだろう、そいつの口はそこで止まるほど利口ではなかった。
「僕は聴きたいんだ、“正義”の奏でる妙なる調べが」
「まるで発現者同士で争わせたいと言ってるみてぇだな?」
「それが正義であれば、発現者であるかどうかなんて些細な問題でしかない」
本気で頭がおかしいのではないかとハインは疑った。
――いや、それも今さらだ。
襲ってきた脱力感にハインは再びしゃがみ込んだ。
話の通じない輩を相手にしても、得られるものがあるどころか一方的に疲弊するだけだ。そんなことに体力を使うのは愚かすぎる。
(これが頭か)
胸中で呻く。
旅団アーグルトンは思っていた以上に奇妙で厄介な組織なのかもしれない。
どこまでそいつが本気なのかはわからないが、団長からしてこうなのだから一筋縄でいかないとわかる。もし仮に、この組織と敵対することになったら――
かぶりを振る。
無意味な妄想だ。ニャンコに手を出さない限りはハインに争う理由はない。
今一度そいつを睨み据える。
(厄介な街に来ちまったな)
慾望の街カーズナイト、滞在二日目の夜が更けようとしていた。
本日のニャンコの布教
ニャンダー教に入れ。話はそれからだ。
……ワンコ派? 論外だ。帰れ!