Uo・ェ・oU 棒に当たっても泣かない負けないがんばる!
「わんわん大捜索!」
「どわぁ!?」
それがお兄さんの声を聞いた最後だった。
などという不穏な展開にはならないと思うが、それまで隣を歩いていたお兄さんが突然消えた。それはもう突然に。さっと。ぱっと。
ガコン、と音を立てて床に開いた穴が閉じる。
「…………わぁ」
数秒間の後に我ながら棒読み気味な声が喉から放出された。
お兄さんが穴に落ちた。それは間違いない。
直前に具現化されていたワンコたちが穴が開いていた場所のにおいを嗅いだり、前足で確認するように触れたりしている。中型ワンコを中心に具現化されたワンコたちは、しかしすぐに穴から興味を失った。行儀良くおすわりをしてマーシャを見上げてくる姿は、マーシャの命令を待っているのだろうことがわかる。とってもお利口さんだ。
「じゃあ犯人を捜すっすよ!」
ぐっと拳を固めて宣言。ワンコたちはそれを受けて一斉に散っていった。
穴の下に消えたお兄さんのことを心配しても意味はない。どうせマーシャが心配してもお兄さんはお兄さんで勝手にどうにかするだろうし、姿が見えないことから姐さんもお兄さんについていったのだから無茶なことをする恐れもない。だったらマーシャもマーシャの好き勝手に行動してもいいはずだ。
護衛に一匹だけ残ったワンコの頭を撫で、マーシャは通路を進み始めた。
「わんわんわーんこ♪ わんわーんこー♪」
スキップでもしそうなほどの軽快な足取りで、上機嫌に鼻歌なんて口ずさみつつマーシャは行く。お兄さんがいないからのびのびしている、というわけではない。決してない。
よくわからない舞台装置やら大道具やらが散見している舞台裏を抜け、楽屋が連なる通路へと出る。舞台裏に収まりきらなかったのか、こちらにも大道具らしきものがあった。並んで歩くのは厳しそうだがひとりで歩く分には問題なさそうだ。
何も指示を出さずとも先行するワンコの賢さに頬が緩む。やはりワンコはカッコかわいくてお利口さんだ。
前方を行くワンコのくりんとカーブを描く尻尾が右に左に揺れる。手を伸ばしてつかんでしまいたい衝動を抑えるのにとても苦労した。マーシャのために頑張っているワンコのお仕事の邪魔をするなんて、ワンコを愛する飼い主失格である。
うずうずと疼く気持ちを宥めることに心血を注ぐマーシャのことなど知らず、ワンコはワンコの仕事を忠実に行っていた。
ピンと立てられる耳。突然駆けだすワンコ。さほど距離の離れていないドアの前で立ち止まり振り返ってくるワンコの、少しだけ誇らしげでだけど警戒を促すような顔に緩んでいたマーシャの頬もきりっとした。
小走りに駆けワンコが待機するドアの前へと移動する。
耳を澄ましてもドアの向こうから音は聞こえてこない。だけどワンコが警戒している以上は誰かがいるのだろう。ワンコに対して絶大な信頼を寄せているマーシャはそれを疑うこともなかった。
労いのためにワンコの頭をひと撫でする。
ドアノブに右手を添えて、マーシャは体勢を低くしているワンコに目で合図を送った。
一息にドアを引き開ける。放たれた矢のようにワンコが室内へと飛び込んでいった。
「うううううわぁ!」
室内から悲鳴。
遅れてマーシャも室内に飛び込んだ。
「あ」
先に飛び込んでいったワンコに押し倒されている人物を見て、
「なんでここにいるっすか?」
マーシャは首を傾げた。
カッコかわいいマーシャのワンコに押し倒されていたのは、マーシャを犬小屋ではない粗雑な牢屋に閉じ込めておきながらなぜか脱走させてくれたあの地味なお兄さんだった。カッコかわいいワンコに押し倒されている姿も実に地味である。
今にも喉笛を噛み千切らん勢いのワンコに下がらせ、情けない顔を――相変わらずアルコール臭い――している地味なお兄さんを引き起こしてあげる。
「お、お嬢ちゃん?」
そこでようやく地味なお兄さんはマーシャのことに気づいたようだった。
「地味なお兄さん、迷子っすか?」
「え、あ、ん、んー……」
困ったように眉をハの字に下げる地味なお兄さんは、マーシャの隣でお利口さんにおすわりしているワンコをなぜか怖がっている様子だった。こんなにカッコかわいいのに。
しょうがないので通路を警戒するようにワンコにお願いして地味なお兄さんから遠ざけてあげる。
視界から消えて、あからさまに地味なお兄さんがホッとしたように肩から力を抜いた。
ワンコがいなくなってホッとするなんて、もしかしたら地味なお兄さんはニャンコ派なのだろうか。姐さんをかわいいと言っていたし。
もしそうだったとしたら。
「マーシャは地味なお兄さんを助けてあげないっすもん!」
「いでででででで!」
引き起こすためにつないでいた手をぎゅうと絞る。お兄さんになら割と無視される行動だったが、地味なお兄さんは派手に痛がって暴れてくれた。おかげで手を振りほどかれた。
信じられないものを見たかのような目を向けてくる地味なお兄さん。マーシャはぷっくりと頬を膨らませてみせた。
「なんなんだよぉ」
弱りきった地味なお兄さんの顔に手を伸ばす。ぷにりと頬をつねれば、さらに困惑気味に地味なお兄さんの眉尻が下がった。
「地味なお兄さん、なんでここにいるっすか?」
おじさんを自称しているのに意外と張りのある頬をぷにぷにと堪能する。感触的には犯人のお兄さんと並ぶほどである。その合間に先ほどは答えてもらえなかった問いを再度発する。
片頬だけではなく、両頬にまでマーシャの手が伸び出したことに顔を引きつらせた地味なお兄さんは、しかし特に抵抗らしい抵抗はしなかった。そのままの状態を甘んじて受け入れつつ、質問に答えてくれる。
「ふぉれあほひはんひふぉ」
「何言ってるかわかんないっす!」
理不尽な文句に、地味なお兄さんの顔に諦観した無表情が浮かんだ。
頬をこねくり回していた手を離す。
またしても地味なお兄さんはあからさまにホッとしたように肩を落とした。
「で? なんでっすか?」
三度目の問い。
「それがおじさんにもわからなくてねぇ。気が付いたらここにいたんだよぉ」
「神がかりっすか?」
「それを言うなら神隠しじゃないかぁ? しかも違うし」
なんか言ってくる地味なお兄さんは無視して室内を見渡す。
そこはどうやら楽屋らしかった。ハンガーラックにかけられた衣装はどれも見惚れるくらい豪華で、鏡台の前に並べられたメイク道具はマーシャにも名称のわからない代物が多い。小さめのテーブルは元々なのか、ワンコがそうしたのか、ひっくり返っていた。
床に投げたされていた台本らしきものを拾い上げる。中を見てみたが、白紙だった。
「地味なお兄さん、きょーおーじって知ってるっすか?」
ふと思いついて訊いてみる。なんのヒントにもなりそうにない台本は元の場所に投げ出しておいた。
「狂王子? いやぁ、知らないなぁ」
頼りない答えに不満はない。思いついたから訊いたが、説明されても覚えられる自信は皆無だったからだ。
ふんすと鼻息を吐く。
ここにどうやら犯人はいないらしい。なら次だ。
とてとてと部屋の出口へ向かうマーシャの背中に、慌てたような声がかけられた。
「ど、どこに行くんだ?」
「犯人を探しに行くんすよ」
振り返って答える。当たり前の予定だった。
だと言うのに、地味なお兄さんの顔に浮かんだのは不安そうな表情だった。
「危なくないのかぁ?」
「危険を恐れては大事はなせないっす!」
拳を固めて言い切る。その迫力に地味なお兄さんが少しだけ引いた。
「地味なお兄さんはここに隠れてればいいと思うっすよ。安全そうっすもん」
「さっき犬に襲われたけどなぁ」
「ワンコはカッコかわいいからしょうがないっす!」
言い切るマーシャに、地味なお兄さんの頬が引きつった。
ワンコのカッコかわいさが理解できないなんて可哀想な人だ。時間があれば一晩中、ワンコのカッコかわいさについて多いに語り聞かせてあげられるのに、残念でならない。
通路警戒中のワンコの背中を撫でると、ワンコは嬉しそうにわふと鳴いた。
「あ、ま、お、おじさんもついていってもいいかぁ?」
そのまま立ち去ろうとしたマーシャの背を地味なお兄さんが追いかけてくる。質問の形は取っているが、断られたとしてもついてくるだろうことはその態度から見ても明らかだった。
こてんと頭を左に倒す。
「いいっすよ」
マーシャに迷いなどなかった。いつだって即断決行。それがマーシャの持ち味だ。
ワンコを先行させて地味なお兄さんと並んで――舞台から離れるにつれ物が少なくなってきたため並べるようになった――歩く。
「地味なお兄さん以外の人も迷い込んでるっすかね?」
ただ歩くのも退屈なので話を振る。地味なお兄さんはアルコール臭い息を吐いてかぶりを振った。
「わからん」
つまらない合いの手だった。
打っても響かない。お兄さんとはやはりノリが違う。
「そういうお嬢ちゃんはひとりなのか? 連れはどうしたんだぁ?」
「落ちたっす」
「落ちた?」
「アトラクションのひとつだと思うんすよ。お兄さんだけズルイっすよね」
「うん?」
なぜか同意は得られなかった。マーシャの説明不足及び、ずれた見解のせいだということにマーシャが思い至るはずがない。
こてんとまた頭が左に倒れた。
「マーシャ前から思ってたんすけど」
また思いつきで何やらずれた話題を出そうとしたところで、それを遮る形で先行するワンコが一声吠えた。警戒を促す吠え方だ。
マーシャは即座に会話を打ち切って先行するワンコに駆け寄って行った。地味なお兄さんも慌ててついてくる。
ワンコが警戒を示している先にはまたドアがあった。スライド式のドアだ。
「倉庫かぁ?」
警戒するワンコにつられたのか、声を潜めて地味なお兄さん。
部屋の存在意義を示す標識などなにもないが、言われてみれば確かに倉庫っぽい雰囲気だった。中を確認してみれば早い話だが。
低く唸るワンコとアイコンタクトを取り、ドアの窪みに手を添える。
「は、入るのか?」
気分を盛り下げる地味なお兄さんは無視して、一息にドアを引き開ける。隙間から滑り込むようにワンコが飛び込んでいった。
「地味なお兄さんはここで待ってるっすよ。動いちゃダメっすよ」
人差し指を一本立てて、子どもに諭すように言い聞かせる。ワンコに苦手意識を持っているっぽい地味なお兄さんに観戦されて、気分が盛り下がるようなことを言われては堪らない。決して地味なお兄さんの安全を考慮しての発言ではないところが、なんともマーシャらしかった。
何やら口を開こうとする地味なお兄さんに再度言い聞かせ、ワンコに遅れること十数秒マーシャも倉庫らしき部屋へ飛び込んだ。
「暗いの嫌っす!」
通路からわかっていたことだが、照明のひとつも点いていない室内は暗い。だがマーシャは慌てない。すかさず願望を口にすれば、室内にパッと明かりが点いた。
お兄さんに散々バカ犬と呼ばれているマーシャであったが、マーシャもちゃんと学習するのである。得意気にふんすふんすと鼻を膨らませる。誰も褒めてくれなかったが。無念。
室内ではまさにワンコとホラーな人が死闘を繰り広げているところだった。
「ホラー戦隊はズルイっすよ!」
ワンコ一匹を取り囲む五人のホラーな人たちに吠える。これはイジメではないだろうか。マーシャは断固としてイジメには対抗する心構えはできている。
だがワンコにしてみれば余計な心配だったらしい。
倒れてからの突進しか攻撃手段のないホラーな人たちを相手にすることは、ワンコからすれば楽なことだった。一匹を仕留めたのを皮切りに、そう時間をかけずにホラーな人たちを一掃することに成功した。
「ワンコ強い! すごい!」
絶賛賞賛大歓喜。ワンコの勝利をマーシャは手放しで褒め称えた。
わしゃわしゃと撫でくり回すマーシャの熱烈な愛撫を受け入れるワンコもどこか誇らし気に見える。冷静そうに見えても尻尾がぶんぶか振られていてはその感情が丸わかりだ。そんなところもかわいいワンコ。
が、それもわずかな間だけだった。
おすわり状態を維持したままのワンコが、また警戒するように耳をそば立たせる。
「うわぁ!?」
異常は通路から入ってきた。
「ふわぁ」
金属同士が奏でる不協和音と共に、全身甲冑に身を包んだ人が部屋へと入ってくる。一体だけではあるが、その存在感は威容だった。
ワンコが低い唸り声を上げる。マーシャがマヌケな声を上げている間に四肢を広げ、いつでも飛びかかれるように低い姿勢を保っていた。
合図はない。
飛び出したワンコが全身甲冑を押し倒した。意外とあっさり。
派手な音を立てて倒れる全身甲冑。その頭部を守る兜が吹き飛んだ。
「ひぁっ?!」
兜の外れたそこにあるべきものがなかった。
恐ろしくサイズが合わなかったというわけでない限り、そこに頭部はない。がらんどうだ。
ホラーな人たちにもようやく耐性が付いてきたと言うのに、今度の動く甲冑にマーシャは早々に戦意を喪失させた。時にワイルドな性格のマーシャであっても、常識の外にある未知の存在をすぐに受け入れられるほど肝は据わっていない。
「や、やーだー……」
拒絶の声も知らず小さく震えていた。マーシャを守るように唸るワンコがいなければ、とりあえず悲鳴を上げて逃げ出していただろう。入り口を塞ぐ形で甲冑が倒れているので、この広すぎるわけでもない倉庫内を無意味に。
金属の奏でる不協和音を背負って甲冑が起き上がる。兜はない。
牽制のためかワンコが吠えた。だが甲冑は怯まない。
――どうしよう。どうしよう。どうしよう。
入り口は甲冑に塞がれている。ホラーな人たちと違って、甲冑に急所はないだろう。やや小さな体格の中型犬ワンコでは甲冑を破壊できない。
じわりと浮かんだ涙が視界の下半分を揺らした。
「あう」
吠えようと思っても声はうまく出てくれなかった。ワンコも飛びかかるタイミングを図りかねている。
甲冑との二対一の睨み合い。
とっさにワンコを増員させて対応するということができるほど、マーシャは荒事に慣れてはいなかった。所詮14歳の少女に過ぎないのだ。
膠着状態に痺れを切らしたワンコが床を蹴る。マーシャの中で膨れ上がる恐怖心を感じとったがゆえに、早期に決着を付けてしまいたかったのだろう。
だが睨み合いの場においてその行動は軽率と言わざるを得ない。
甲冑の構える剣が一閃される。飛びかかったワンコはそのたった一閃で無力化された。最後に甲高い鳴き声を残して。
「ワンコ!」
吹き飛ばされたワンコが床を転がる。マーシャが駆け寄るころには、具現化の効力を失い消滅していた。
ガチャリと甲冑が音を立てる。
ワンコが消滅した辺りにうずくまってマーシャはぎゅっと目をつぶった。
「邪魔だボケェ!」
瞬後、室内に響き渡る怒声と共に、重たい金属の塊が派手に転がる音が耳に届いた。
「無事かマーシャ」
呼ばれた自身の名に反応してそっと目を開ける。
「ひゃう!?」
最初に目に入ったのは床に転がる甲冑だった。思わず悲鳴を飲み込むマーシャの視界の中で、誰かの足が甲冑を踏みつけた。
そのままスライドさせるようにして視線を上へと移動させる。甲冑を足蹴にする足の持ち主は、ひとりで勝手に穴に落ちて新作アトラクションを楽しんでいたお兄さんによく似た姿をしていた。というかお兄さんそのものだった。
呆けるマーシャの鼻先に手が差し出される。
「ったく、世話がかかるな」
面倒臭そうにそう言ってくる。パチパチと何度も目を瞬かせている間も、差し出された手が引いていくことはなかった。
ずずっと鼻をすする。瞬きをしたおかげでふるい落とされた涙を袖で拭う。
手を借りずに立ち上がると、差し出されていた手が遠ざかった。
甲冑を回り込んで部屋の外へと飛び出す。通路で待たせていた地味なお兄さんの姿はどこにもなかった。さっき悲鳴が聞こえてきたからホラーな人か別の甲冑にでも誘拐されたのだろうか。心配したわけではないが、待機させていた手前どうなったのか気になるところである。
「おい、礼のひとつくらい言えや」
鳴き声が聞こえて足元に目をやればニャンコがいた。
くるりと振り返る。
「お兄さん誰っすか?」
そこにいたお兄さんは、マーシャの知るお兄さんではなかった。