=ΦωΦ= 感動が来い Uo・ェ・oU
「いーやーだー!」
「泣くな喚くな引っ付くな!」
腰に張り付くマーシャを抱えて右に跳ぶ。
床を這って突撃してきたホラー兵器が、ボンレスハムを弾き飛ばして通り過ぎていった。あの程度では楽には死ねまい。哀れ。
「てめぇんとこではホラー兵器まで用意してんのか!」
主人を轢き殺そうとする兵器がいるとは考えにくいが、八つ当たりでハインはボンレスハムを罵っておいた。少しだけ冷静さが戻ったきた気がする。気持ちほんの少し。
人の腰を拘束するマーシャを引き剥がして壁際に突き飛ばす。肩から降りた姐さんが、無様にも壁に激突したマーシャの足元に布陣した。
マーシャは姐さんにお任せしておけば悪いようにはならないだろう。
振り返ったタイミングで、ホラー兵器もまた振り返ってきていた。まるで重力を無視したような奇怪な動きで。
「いつまでも俺がビビってると思ったら大間違いだぞ!」
中指をおっ立てて啖呵を切る。もちろん、恐怖を紛らわせるためだ。
「お兄さん輝いてるっすよ」
「おうよ」
マーシャも恐怖を紛らわせたいのか、茶化すように言ってくるのに軽く手を上げて応える。
ホラー兵器はどうという反応を示さなかった。風にそよぐ柳のように、ゆらりゆらりと体を揺らしている。その動きがまた不気味で、せっかく和らいだはずの恐怖がじわじわと這い上ってきた。
いったいなんの嫌がらせだろうか。
(俺らを追いかけてきた?)
浮かんだ可能性に内心で首を傾げる。
意味がわからない。この街に来て三日、布教活動も悪いこともまだ何もしていない。ホラー兵器に狙われるようなことはしていないはずだ。
髪の隙間から覗く目はハインを捉えている。他には小揺るぎもせずに、ただハインを。
「お兄さんに一目惚れ?」
「やめろ。絶対やめろ」
恐ろしい可能性を口にするマーシャ。即座に拒否を示したものの、マーシャの口にした恐ろしい可能性を前提にすると、執拗なホラー兵器の襲撃が実に情熱じみて見えてしまう不思議。
もちろん、ハインにとっては迷惑なことこの上ない。
ニャンコに情熱的に追い掛け回されるなら大歓迎だが、ヒト科のメスに追い掛け回されるなど悪夢にもほどがある。しかも相手はホラー兵器。罰ゲームにしてもハードすぎた。
ふるりと体を震わせ身を竦ませる。
ホラー兵器がパタリと倒れた。
来る。
ハインはホラー兵器に指を突き付けた。
「カラクリ見破ったり!」
一瞬、ホラー兵器の動きが止まったような気がした。が、願望が見せた幻かもしれない。
軽いかけ声と共にその場から離脱する。ホラー兵器が這い抜けていった。
確かにホラー兵器は恐ろしい。
だが冷静になれば、ホラー兵器の動きに複雑なところはないことがわかる。行動パターンは三つだ。
立ったままゆらゆらする。
倒れる。
這い寄ってくる。ただしもっそい速い。
「お前なんなんだよ!」
ようやく出せた問い。ホラー兵器が関節を無視した動きで立ち上がるのに引きながらも、ハインは果敢にもその問いを舌に乗せることができた。
今さらとは言わない。出会ったその場で問いかけができるほど、ハインの心臓は強くなかったのだから。
それに、返事がもらえるとも思えなかった。
なんたってホラーだ。しかも兵器だ。人語が理解できると思えないし、人語を解することができるとも思えない。豚領主だってブヒブヒとしか鳴かないのだ。
「ァ……ァ……」
だが予想に反して、ホラー兵器は声を発した。
言葉にはなりきらないただの発声でしかなかったが、それでもそれは確かに声だった。低くかすれていてひどく聞き取りにくい。劣化したデスボイスをさらに引き伸ばしたような、そんな不自然さを伴って。
薄ら寒さ、そしてなんとも言えない不吉さを感じた。
「ァ……ア……ぁ……あ……」
半歩下がる。完全に無意識だ。
ホラー兵器はまるで声を出すことに慣れるために声を出しているかのようだった。だんだんと聞き取りやすくなってきているのがその証拠だ。
またさらに半歩。
後退したところで、ホラー兵器の声はかすれを残したまま言葉を紡いだ。
ただ、一言。
「… ユ … ル … サ … ナ … イ…」
足がもつれた。
無様にも尻もちを突いたハインは見た。
ホラー兵器に飛びかかるバカ犬のヤケクソな雄姿を。
的確に喉笛を狙った歯が、狙い違わずホラー兵器の喉を引きちぎる。ばしゅ、と小気味悪い音を残してホラー兵器はかき消えた。
「もっさり!」
ホラー兵器を見事に撃退したマーシャの第一声はそれだった。
「………………そんなに飢えてたのか」
いろいろとツッコミを入れたいことはあった。いろいろとツッコミを入れなければいけないことはあった。
ハインはその諸々をすべて放棄して脱力した。
いつの間にか傍に来ていた姐さんが、労うように一声かけてくださる。不甲斐ない活躍しかできなかった哀れな下僕を、それでも優しく労ってくれる姐さんの慈悲深いお心に涙が出そうだ。
手のひらにかいていた汗を、ハインは慌てて拭った。
「お兄さんお兄さん」
パタパタと嬉しそうに駆けてくるマーシャを片手を上げて止める。
褒められるとでも思っていたのか、きょとんとした表情でマーシャが待ての姿勢に移行した。
そのマーシャに一言告げる。
「えんがちょ」
くわっとマーシャの目が見開かれた。
「お兄さんがビビって腰抜かすからマーシャがんばったのに!」
「ビビってねぇよ! ちょっとつまづいただけだ!」
不名誉な誤解を招く物言いを姐さんの前でするとは許すまじ。
即座に立ち上がったハインに、マーシャは思いっきり飛びついてきた。いや、飛びかかってきたと言ったほうがこの場合は適切だ。
慌てず騒がず、ハインは滑らせるように足をステップさせてマーシャを避けた。
ついでに引っかかるように足を出しておく。
芸術的なまでの見事さでマーシャがすっ転んだ。顔面から。受け身も取れずに。ついハインが悪いことしたかなと思ってしまうくらい、それはそれは見事な顔面ダイブ。拍手はしておいてあげた。
マーシャは泣かなかった。
「お兄さんのばーかー!」
いや、ちょっとは泣いていたかもしれない。
ふぅと一息。
バカな犬と戯れて気が紛れた。バックバクしていた心臓も今はだいぶ落ち着いている。
こういうときにマーシャは便利だ。冷静さを取り戻したいときや、気分を変えたいときに、マーシャとのバカらしいやり取りはことさら役に立つ。いろいろバカバカしくなってどうでもよくなるからだ。
(にしても……――許さない、ねぇ……)
誰が、誰を、何に対して。
もし仮にハインに向けての言葉なのだったとしたら、心当たりがないにもほどがある。毎日を善行の積み重ねで生きているハインが誰かから恨まれるなどある話ではない。
執拗に脛を蹴ってくるマーシャが鬱陶しくはあるものの、なんとなく反応したら負けのような気がして努めて無視を貫いた。
視線を動かして豚領主を探す。
豚領主は部屋の片隅でボロ雑巾のようになって転がっていた。誰がやったのかは知らないが、見事なボンレスハムになって。豚だから逃れられない運命だったのだろうか。愉快な。いや、可哀想に。
得体の知れない何かに恨みを買っているとすれば、十中八九あの豚なのだろう。街での評判も良くないようだし、劇場を取り壊す際に劇団員皆殺し疑惑もある。
それで狙われたのがなぜハインなのかが気になるところだが、ホラー兵器の考えることなどハインにわかるはずがない。わかりたくもない。
理由はなんであれ、ハインに迷惑料を払うのは豚領主の仕事だ。たっぷり払ってもらうことにしよう。
「お兄さん」
「なんだ?」
ハインの脛を蹴る作業を継続したままマーシャが呼びかけてくる。まず蹴るのをやめろと言いたいがやめておいた。
「さっきの、人間じゃなかったっすよ」
「ホラーだからな」
「ホラーすごいっすな」
適当感あふれるハインの言葉に素直に納得してしまうマーシャ。いろいろ思考が停止しすぎてやしないかと、他人事ながら心配になる。
いや、ウソ。本当は欠片も心配などしていない。
足元におすわりしている姐さんに視線を落とす。警戒している様子はない。得体の知れない何かが再登場することは、どうやらないようだ。
耳の裏をかく。
どうしたものかと。
あのホラー兵器、恐らくはどこかの誰かの能力により生みだされた存在。即ち、発現者の犯行。発現者であるマーシャの攻撃で消滅したことからも、これは確定情報だろうと思う。狙いはさっぱりだが。
「まさか……」
「どうしたっすか?」
「姐さんの麗しさに嫉妬して!」
一際強く脛を蹴られた。痛みに飛び上がらなかったことだけは褒めてほしい。
「反ニャンコ派だったらマーシャのわんわんワンダーランドに招待しなきゃいけなくなるじゃないっすか!」
「いいじゃん。すれば」
「やーだー!」
ぶんぶんと首を振るマーシャは、本気であのホラー兵器を怖がっているらしい。飛びかかって喉笛を噛みちぎったくせに。能力の助けがあって初めてできたことなのだろうが、ハインが同じ行動を取れと言われても全力で拒否する。
バカな小型犬のようでありながら、マーシャは時折ハイン以上にワイルドな行動を取るから困る。さすがボルゾイを目指すだけはあると感心すべきなのだろうか。
「まぁでも、あれがどっかのクソの能力だってわかった以上は、これから遠慮なくぶっ壊せそうだ」
「またビビって腰抜かすんじゃないっすか?」
手を伸ばして無言でマーシャの頬を引っ張る。プルプルと頭を振って振り払われた。
不名誉。実に不名誉。
ちょっと足がもつれただけなのに、このバカ犬は鬼の首を取ったようにしばらくこのネタでハインをからかってくるだろう。
早急に。そう、早急にマーシャの記憶からあの失態を消去する必要があった。
得意気に笑うマーシャを見下ろす。
――首でも締めておくか。
物騒なことを思いつき次第実行に移そうとしたハインだったが、その動きは姐さんの一声によって中断せざるを得なくなった。
即座に姐さんよりも低い位置に頭を下ろして、姐さんの足元に這いつくばる。
「御用ですか~? 姐さ~ん」
完璧すぎるニャンコ撫で声に、姐さんは特にどうという反応は示してくれない。そのクールな反応に打ち震える。最高のご褒美である。
姐さんがまたひと鳴き。
桃源郷より響き渡る妙なる調べよりもなお心を震わせる神秘性を持つ甘い声――ではあるのだが、知らずハインの笑顔が引きつった。姐さんはたまに大層鬼畜になられる。
また。催促するように。
ハインはうなだれた。容赦のない姐さんも素敵だが、体が拒絶するものを強制されるとさしものニャンコ奴隷ハインも反抗したくなる。
だがしかし、結局は逆らえないのがニャンコ奴隷の宿命だった。
「マーシャ」
「やーだー」
押し付ける前に拒絶された。
なんだその棒読みの拒否は。さっきみたいに全力で拒否されないと、嬉々として押し付けようという気が削がれるではないか。
ハインは喉の奥で呻いた。精一杯の抵抗のつもりで。
低い唸り声。姐さんの声には苛立ちがうかがえる。
渋々ながらハインは立ち上がった。
もうこうなったら腹を括るしかない。男は度胸。ニャンコ奴隷は度胸。
睨むように見据える。
残滓があった。なめくじが這ったように、地下室の出入り口の先に続いている。色は灰色。やや黒が濃い。
本能が近付くなと命令するのに逆らい、そろそろと歩み寄る。
「お兄さんファイトっすよ」
「代われよ」
「いやっす」
無責任な声援を送るマーシャを振り返って威嚇する。マーシャは姐さんの隣に呑気に腰を下ろして、楽しげにハインに手を振っていた。不幸になれ。
ぶつぶつと呪詛を振りまくハインに気付いた様子もないマーシャのお気楽能天気具合に脱力しながら、不貞腐れた態度を崩しもせずにハインは残滓を辿って地下室の外へと出た。
「……は?」
声帯を震わせたのは間抜けな発声だ。
「やあ」
人がいた。朗らかな笑みを浮かべるそいつは、間抜け面を晒すハインに実にフレンドリーに話しかけてきた。わざと人を不快にさせるための手腕をいかんなく発揮しているのではないかと疑いたくなるような、そんな親しみを込めて。
喉元までせり上がっていた言葉を飲み込み、無言のまま踵を返す。
何も見ていない。ハインは何も見なかった。
「あいさつを無視するなんてヒドイな」
さして広くもないはずの通路のどこをどう通ったのか、回り込んでいた若い男がハインの進路を塞ぐ。背中に届く声には笑い成分が含まれていた。
無言で進路を塞ぐ若い男を、いや、オスを見据える。ハインよりもいくらか若い風貌のオスは、ハインよりもいくらか鍛えられた身体を持っていた。一目で押し通るのは不可能だとわかる程度に。
振り返る。
朗らかに笑うそいつの傍にはメスがいた。進路を塞ぐオスと同じくらいか、あるいは少し下くらいの若さの。
体験したことがある。この構図。
「聴きに来させてもらったよ。君たちの奏でる幽冥の詩を」
妄言を垂れるそいつが笑う。
激しい頭痛を覚えて、ハインは頭を抱えてうずくまった。
誰だ。再会に感動的なとかいう修飾語を付けたのは。感動的だった再会なんてこれまで一度としてありはしなかったぞ。
「お兄さんまだっすか?」
ひょこりと顔を覗かせたマーシャが、見知らぬ人間たちに挟まれているハインを見てきょとんとした表情を浮かばせる。
右見て、左見て、そして頭を斜めに傾ける。
「感動の再会?」
「違ぇよ」
ハインは即答した。